小1で主婦になる
両親がほとんど不在だったわたしと兄の生活を支えていたのは、レトルトカレーだった。
台所脇の、炊飯器の乗った棚の下に、レトルトカレーがたくさん入った箱が置かれていて、5つ上の兄がごはんを炊いて、レトルトカレーを湯煎で温めてくれる。
まだ幼稚園児だった頃の私は、兄がそれを作ってくれるのを待ち、一緒に食べるだけだった。
家での食事は、朝も夜もいつも同じ。
銀の袋に茶色の文字が書いてある、そのレトルトカレー。
カレーには飽きていたけど、それしかないからそれを食べた。
兄は母にレトルトカレーの温め方と、ご飯の炊き方を教えられたらしい。
後に発達障害とわかる兄だが、いつも決まった時間に、同じことを同じようにやることはできた。
ただ、イレギュラーなことには対応できなかった。
兄は文系の科目は極端にできなかったが、理系の科目だけは得意だった。
兄が小学校高学年になると、調理実習が始まり、ある日の夜、お味噌汁を作ってくれた。
わたしはとても喜んだ。
その日から兄はレトルトカレーとお味噌汁を作ってくれるようになった。
そして、その様子をいつも見ていたわたしが、レトルトカレーとお味噌汁を作れるようになったのが小1の時だ。
その日から、19で家を出るようになるその日まで、わたしは主婦としての役目を負うようになる。
わたしができるようになったことで、兄がやらなくなったのだ。
そしてたまに帰ってくる父も、当たり前のようにわたしにその役目を求めた。
「女なんだから、メシぐらい作れ」と。
父はわたしが料理をできるようになる前から、レトルトカレーは食べなかった。
それでも、家に帰ってきて食事が用意されないと父は暴れた。
レトルトカレー以外何も用意できない頃のわたしたちは為す術がなく、父が暴れて暴力を振るわれるのを、ただ耐えることしかできなかった。
レトルトカレーとお味噌汁から始まったわたしの料理の腕は、それから少しずつ上達していった。
兄の家庭科の教科書のレシピを見たり、学校帰りに本屋さんで、料理の本を立ち読みしたりして、少しずつ作れるものが増えていった。
家には引き出しに現金と母のキャッシュカードが入っていて、わたしたちはそれをある程度自由に使えた。
母が働いていたからか、口座にはいつもある程度のお金が入っていた。
昔の銀行は今よりたぶん緩く、田舎だったこともあり、親のキャッシュカードを使って不審がられたり声を掛けられるようなこともなかった。
学校に行く時にランドセルにキティちゃんのお財布を入れ、学校帰りにそのままスーパーに寄って食材を買って、帰ったらごはんを作って、洗濯物を取り込み、お風呂を沸かした。
洗濯機を回して洗濯物を干すのは夜。
母はたまに帰ってきても、家でごはんを食べることはほとんど無かった。
だから、母はごはんを食べなくても生きていられる生き物なのだと、本気で思っていた。
週に1回程度しか帰ってこない父の帰宅を予知することは難しく、急に帰ってくると慌てた。
早く食事を出さないと、また殴られるから。
だから父が帰ってきた時は、自分の分のごはんを父に出して、自分はレトルトカレーを食べた。
ある時、そうしてわたしの分のごはんを出しても、父が怒鳴って殴られたことがあった。
その日のごはんがラーメンだったのが気に入らなかったのだ。
「こんなもの食えるか!」と、ラーメンが入った丼を投げつけられた。
台所で食器を洗っていたわたしのふくらはぎに、割れた丼が刺さり、熱いスープがかかって火傷をした。
酒がない!と殴られたこともあった。
それ以来、サントリーの角瓶の中身を確認し、中身が少ない時は買って用意しておくように言われた。(当時は子供でも、おつかいだと言えばお酒が買えた)
学校帰りの買い物は、ただでさえランドセルが重く、食材を買っただけで指が切れそうに痛かった。
その上、さらに重い瓶のお酒を買って帰るのは辛かった。
ある時、そのお酒の瓶を落として割ってしまった。
父にバレたら何をされるか、考えただけで怖くて、どうしたらいいかわからなくて、そのまま道端で泣いてしまった。
泣いたって助けてくれる人などいないことはわかっていたけど、ただ、自分では対処ができず、いっぱいいっぱいになってしまったのだ。
たまたま犬の散歩中だった酒屋の奥さんが通りがかり、割れた瓶を拾って片付けてくれた。
一緒に謝ってやろうか?と心配してくれたけど、「いい。」と答えた。




