第2話 旧友
斧を手に取る。樹木を斬り倒し、未開の土地を広げていく。もうアルスにとっては手慣れたモノ。自責の念を振り払う、淡々とした作業。アルスにとっての、新しい日常。
「一時期は“世代の頂点”とまで言われた騎士が、随分落ちぶれたものね」
そこに背後から、聞こえるはずがない凛とした少女の声が聞こえてきた。
アルスは耳を疑った。それと同時に身震いする。
今、アルスが一番言われたくない言葉だった。旧友にこんな姿、晒したくはなかった。
——セリーナ・ローレンス。
「なんでお前がここに……」
彼女とは騎士学校で切磋琢磨した仲間だった。
まだ挫折を知らなかった頃。
努力すればするほど伸びた時期。
あの頃は剣が全てで、何をするのにも剣のことばかり考えていた。そんな時間が、アルスにとっては楽しくてしょうがなかった。
セリーナ・ローレンスは、そんなひと時を共有した仲間の一人。忘れるはずがない。
「聞きたいのはこっちのセリフよ。ちょっと負けたからって泣きべそかいてこんなとこに来ちゃって」
「“こんなとこ”とはなんだ。今の俺にとってはここだって……」
「そう、悪かったわね。——あんたが本当にそう思っているのなら」
「…………」
核心を突かれる。無理もない。十三でアークルード騎士学校に入学してから約二年間彼女と共にいた。このくらいの嘘、すぐに見抜かれるのは当然。
「どうせ、今のアルスなら手紙を送ったところで来ないのがわかってたのよ。だから担任の先生や校長先生とも相談して……あんたのとこに一人寄越そうって話になったの」
「それで……お前が」
「な、なに? 私で悪かったわね」
フン、とそっぽを向くセリーナ。こういう他を寄せ付けないツンとしたところも相変わらずだった。変わっていない。
でもね、とセリーナは付け加える。
「本当に、みんなあんたのことを心配してるのよ? ……かくいう私だってそう」
「そう、か」
アルスは得体の知れない感情に胸の中を掻き回される。一度自分は剣を置いてしまった。だから資格なんてあるはずないのに。
「変に気負いすぎないでよ。そうやって一人で抱えこもうとする癖、本当に変わってないのね」
「……変わってない? この俺が? この体たらくの状態で変わってない?」
「うん。変わってない。あなたは私がほっといたらすぐ突っ走って、無理をしてた。今だって、そんな壊れそうな表情で……」
アルスは手をぺたりと自分の顔に触れてみる。
自覚はある。もう、しばらく笑っていない。
何せ剣を取っていないのだ。自分が成長した実感を感じられないのだ。アルスにとっては、それが全てなのに。
「だから——」
セリーナ・ローレンスは剣を抜き、その刃の先を真っ直ぐと、アルスへと向けた。
「私と勝負しなさい」
「は?」
思わず気の抜けた声が出る。
「負けたら大人しく私の言うことを聞いて戻ってきなさい。勝ったら好きにしていいわよ。お望み通り農村で慎ましく暮らすことね」
「正気か?」
「ええ」
セリーナの瞳から見るに、本気らしい。
「剣から逃げたあんたに、現実を叩き込んでやるって言ってるの」
「……相変わらず口だけは達者だな」
「言われるだけの体たらくではあると思うけどね」
「いちいち余計な事を言うな」
「へえ、自尊心だけは一丁前なわけだ」
セリーナの呼気に微かな怒りが孕む。
安い挑発。それに簡単に乗ってしまうほど、今のアルスには余裕がなかった。
「——お前には、わからないだろうな」
天才との差という物が。
努力して努力して努力して、ようやくその隔絶した“差”と言うものを知れる。なんて残酷な世界だろう。
「うじうじうるさいわね、いい加減にしなさいよ」
「いいだろう。“辿り着いた”からこそ、届かないってわかっちまうんだ」
「……何よそれ」
変わらずセリーナの刃はアルスの方を向く。
アルスの中で、何かが吹っ切れた。彼女にも、この挫折を味わってもらわねば気が済まなかった。
「……わかったよ。その勝負乗った。お前にも叩き込んでやる」
「そう……で、剣は?」
アルスは口角を上げる。
肩を回し、右手に携えた斧を軽く振る。
「へえ……いい度胸じゃない」
「悪いな」
「むしろ、こっちが謝りたいぐらいよ。そんななまくらで勝てると思ってるわけ?」
「あいにく、俺は剣を取らないって決めたんでね」
セリーナが上段に剣を構える。
一点突破の攻めの姿勢。これこそがセリーナ・ローレンスの強みであった。
対するアルスはそれを見てか下段に斧を構えた。
相手が攻めてくるなら受ければいい。
「後悔してもしらないわよ」
「それはこっちの台詞だな」
先に動いたのはセリーナの方だった。前方へ踏み込み、上段から、俊速の切り下ろし一閃。
それを読んでいたアルスは斧の刃でそれを受け止めた。瞬間、刃を滑らせ、力を受け流す。あまりの手応えの無さに、セリーナは眉を顰めた。
「チッ」
「舐めんなって言ったよな」
アルスが放ったのはカウンターの斧の薙ぎ払い。
ギリギリのところでセリーナは剣でそれを弾いた。互いにじんじんと掌に衝撃が伝わる。
そこに彼女は幻影を見た。いるはずがない、かつての彼。一時は天を掴みかけた、騎士学生、アルス・ランフォードの剣の残影を。
(余計な事は考えるな。今のこいつは剣を置いたブランクがあるはず……!)
変わらずセリーナは果敢に攻め続ける。切り下ろしが駄目ならば切り上げで。それが駄目なら刃の先で突いて見せる。そのどれもが、いとも容易く斧で受け止められる。
(嘘でしょ、ほとんど衰えてない……)
セリーナとしては恐ろしいことこの上ない。圧倒的なまでの実力の差。アルスが剣を置いたと言うのが本当なら数ヶ月は剣を取っていないはず。それに学校での模擬戦を受ける機会もない。にも関わらず、この立ち回り。全く衰えていない。
「あんた、本当に剣を置いてたの?」
「あいにく、身体で覚えてるみたいだ。身体が勝手に動いて反応してる」
「よくいうわねッ!」
セリーナは一歩、さらにもう一歩踏み込み、ゼロ距離まで間合いを詰める。ここまでくれば受けは機能しないはず。互いに斧の刃と剣の刃がじりじりとせめぎ合う。剣の優れたリーチを捨ててまでのゼロ距離。
しかし力の押し付け合いとなれば剣の方が優れている。斧は元々戦闘するための武器ではないのだ。
それでもアルスの表情が崩れる気配はない。
ふっ、とアルスが脱力するとセリーナはもつれたように前方にバランスを崩す。
「なッ!」
その隙を狙ってアルスの斧がセリーナの喉元へと届きかける——。
ここまでくるとバランスを崩しているセリーナは回避できない。
「こんのぉ!」
ギリギリでセリーナは踏みとどまると、剣の柄で斧をなんとか受け止める。こうなったらもう、セリーナが劣勢なのは明らか。
アルスの中段からの縦横無尽な猛攻が刺さる。
アルスは突出した武器を持たぬが、努力でもぎ取ったありとあらゆる型が体に染み付いている。まさに、凡人の到達点。基礎で固め上げた鉄壁の論理武装。
元々攻めを生業にしているセリーナからしてみれば、苦しい展開。自分が攻めることを練習はしていれど、受けるところまでには手が回っていない。——この男はなんでも完璧にこなすのだ。
セリーナが、受ける。セリーナが、受ける。カウンターの暇さえ与えず、斧の重い一撃が叩き込まれる。
こうなって仕舞えば決着はついたも同然。
「はい、おしまい」
気付けばふっ、とセリーナの喉元に斧の刃が添えられる。
慣れない斧と、使い慣れた騎士剣の勝負。結果はあっけなく、セリーナの惨敗であった。
「……また負けた。私だって、あんたがサボってる間、頑張ったのに」
セリーナは悔しそうに唇を噛んだ。それを見て、あろうことかアルスは安心さえしてしまう。
(そうだよな、結局はみんな同じ。勝てなきゃ心が折れる)
人間とはそういう生き物。
足掻いて、もがいて、結局はどこかで妥協する。
自分にも、その時が来ただけのこと。
「お前が積み上げた以上の物を、俺は過去に積み上げた。それだけのことだ」
「……そう」
アルスはセリーナの喉に添えていた斧を降ろし、自嘲した。己がクズすぎて、嫌になる。
「ああ、やっぱり、俺は弱いな」
「どういう意味よ、皮肉?」
「そのまんまの意味だよ」
「そんなこと——」
「いい、慰めの言葉はいらない。君に負け、君と共に歩み、騎士へと成る。それのどんな甘美なことだろう。でも、それは“妥協”だ」
「ま、待ってよ。あんた、まだ騎士になる気あるの? それなら、」
セリーナはあたふたする。それと同時に先ほどアルスが言った言葉の意味、それを理解して顔を赤く染め上げ——
「同じ“妥協”なら、より慎ましい選択を。今の俺に君は不釣り合いだ」
苦笑しながら言ってみせるアルスに、セリーナは黙りこくるしかなかった。