焦燥
この星の片隅に、気高い山々で囲まれた地方がある。
幾千年もの昔から人との交わりを拒み続ける場所であった。
今もなお、厳と構えるその地には生命の息吹が満ち溢れ、この星のあらゆる営みを封じたかのように、けして人の目には見通せない深遠のごとき奥行きと、広大さを具えていた。
そびえる木々の根は複雑に絡み合い、地中へと伸びている。
見上げれば陽の光は無数の針となって、その空間に差し込んでいた。
吹き抜ける風は、混じり気のない草木のかおりを乗せ、木々の間を通り過ぎていく。
この森をいま——。
風とともに、見事にすり抜けていく影がある。
吹き付ける風に逆らいながら、ときにその助成を借りて、影はただ前へと疾走していた。
しばらくすると、影の眼前に、森の終わりを告げる光彩が見えはじめた。
矢の如く森を駆け抜け、眩しいばかりの太陽光に照らし出されたその影は、赤黄金色の毛並みを全身になびかせている。
四肢で大地を蹴り上げる姿は獣であった。
少し前へ突き出した鼻先までは、額からなめらかな曲線を描いている。
その口元には、ときおり白牙が覗く。
先の見据える眼差しには険しさを収め、前方に見え始めた谷の中心へと、ただ突き進んでいた。
どれくらい走ってきただろうか。
血液がこめかみの辺りを突き破りそうな感覚がある。
激しい鼓動が指先にも響いた。
「くうぅっ…」
地を蹴り上げるたびに手足に走る痺れる感覚が、事態の重さを噛みしめさせる。
揺れる視界。
その先で屯する集団を確認すると、さらに赤黄金は加速した。
集団がすぐそこへと迫った時、赤黄金は二本の足で立ち上がって歩み寄る。
背中から始まる荒々しい呼吸——。それを胸でいなして、たったの数度で押し沈めると、屯の中心めがけて声を張り上げた。
「今日の役目は誰だっ!!」
先ほどまでの空気が一変し、一斉に注目を集める。
いち早くその言葉に反応したのは、他の者よりも一回り大きく、白銀の毛並みを持つ獣であった。赤黄金との違いは、その毛色ととぼけたような瞳である。
「あ~?今日は確か鼓屡兎のやつだぜっ!」
白銀は悪びれる様子もなく、鼻をほじるような勢いである。
赤黄金は一同を見渡すと、眉間を強張らせた。
「くそっ! 鼓屡兎のやつはどこへ行った!」
そう言い放ちながら、いま来た森を振り返り、険しい視線を送っていた。
白銀が問う。
「なぁ、雲将。なんかあったのか?」
雲将と呼ばれる赤黄金は、それに答えた。
「……悠長なことではない。」
その険しい視線を白銀に向け直すと、雲将は言葉を続けた。
「獣達が騒ぐんで、見張り木へ行ったのだが…誰もおらん」
雲将はさらに続けた。
「幻術の森は破られた——。第一の結界もすでに解かれようとしている……」
その言葉で、一瞬のうちに動揺が沸き起こった。
「幻術が破られただとっ! ……人間ではないのかっ?」
それに答えるよりも先に、雲将は声を張り上げた。
「雷雪っ! 皆を連れて結界を張り直せっ! 俺は鼓屡兎を探し出し、長老の護衛に回る」
その時、雷雪の顔が曇ったのを雲将は見逃さなかった。
「長老に何かあったのかっ!?」
「長老はいま、法師殿の使いが訪ねて来たということで、幻術の森に向かっている……。結界は俺たちが引き受けた! 長老を頼むっ」
「幻術の森にだとっっ!!!」
雲将は、そう叫ぶのと同時に頭頂の毛を逆立たせ、次の瞬間には赤い閃光の如く、森へと突き抜けて行く。
残された者たちも、雷雪の合図とともに、次々に森へと消えていった。