シロ
……どういうことだったんだろう。
心の中に残るモヤモヤが一日経っても取り切れなかった。
……えーっとつまり、あの図書室にはほとんど人が来てなかったってこと?
それはおかしいだろう。その優しい男の子と私以外誰も来てなかったなど。
先輩なども来ていない、ということなのだ。
考えがまとまらなかった私は、とりあえずひかりに聞いてみることにした。
「ねえ、ひかり。図書室行ったことある?」
もしかしたら、蜂須川さんが間違えていたのかもしれない。
私はそんな思いを抱えてひかりに聞く。一方、ひかりは不思議そうに首を傾けた。
「トショシツ……?」
「え?」
ひかりは私に問いたようだが、私が逆に首を傾ける番となった。
「え? 図書室だよ?」
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
「図書室、だけど」
「やっぱりトショシツ? ごめん、聞いたことないや」
……何かの冗談?
図書室を知らないことなんてあるのだろうか。しかも、ひかりが言った図書室は、発音が悪い。これと言ったら何なのだが。
何というか、片言だった。
「そっ……か」
結局曖昧な答えだけを残して、私は「ありがとう」と言ってこの場を去る。
……行ってみるか。
私は、あの場所に向かった。特別に気になるわけでもなかったが、何となく行った方が良い気がした。
「あのー、蜂須川さんいますか?」
扉をそーっと開けて周りを見渡す。
「あら、いらっしゃい」
私は声の主を確かめる為に後ろを向いた。目の前では、蜂須川さんがにこりと笑っていた。
後ろから来られると、どうにも心臓が飛び上がる。その理由は、さっきまでは後ろにいなかったから、だ。
「蜂須川さんは後ろから来るのがお好きなんですね」
「ふふっ、別にそういうわけじゃないわ。貴方が前しか見ていないからよ。後ろを見なくちゃ」
「後ろを見ても、さっきまではいなかったと思いますけど」
「そう?」
蜂須川さんは意味深に笑みを深めた。この人は、何を考えているのか分からない。
「それでどうしたの? 本をお探しかしら」
「いえ、いや、はい。本も借ります。でもその前に、質問させてもらってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「図書室に、二人しか来ていないのはなぜですか? それと、私の友達は図書室のことをよく知らないみたいでした。何か理由があるんですか?」
「ふふっ、そんなに気になることが? いえ、そんな数でもないわね」
蜂須川さんは苦笑しながら、目だけは真剣にするという面白いことをやってみせた。
「そうね。お友達が知らないのは、言ってしまえば、ここは存在していない、かしら」
「存在しない……ですか」
全く意味が分からない。ここ、というのは図書室だろうが、そうなると図書室が存在しないことになる。
「深く考えなくていいのよ。そのままの意味。ただ、ここが存在しないというだけ」
蜂須川さんは、私ではなく、まるで他の人と話しているような素振りをみせて微笑んだ。
「存在は……してると思うんですけど」
「今はそれでいいと思うわ。直に分かる」
今度は、寂しそうに笑った。
「そうですか。……あの、それで二人しか来ていないのは」
「それも、ここが存在していないから。存在していないものに行くのは不可能でしょう」
「じゃあ、なんで私とその男の子は行けるんですか?」
蜂須川さんは人差し指を口元に当てる。
「それは秘密。全てを知っても面白くないじゃない」
「いえ、別にいいんです。教えてください。じゃないと勉強も頭に入りません」
「そのことなら大丈夫よ。この世界にはテストや成績などというものはないわ」
……は?
ますます分からなくなる。
「テストとか成績はあると思うんですけど……」
「ふふっ」
蜂須川さんは私の質問に答えずに笑って本棚の方に行った。
「シロさん、いるんでしょう? 来ていいのよ」
「やっぱり見つかっていましたか」
……シロ?
不思議な呼び名に私は声のする方を探した。確か、蜂須川さんが言っていた男の子だっただろうか。
……きれい。
最初に思ったのはそれだった。
サラサラの銀髪が耳元まで切りそろえられていて、瞳は深海のような深い青をしていた。
表情は柔らかくて蜂須川さんの言う通り、優しそうだった。
きれいな二重で鼻筋はするりと通っている。
「新しい方ですか?」
自分が呼ばれていることに気付かず、男の子の方をじっと見つめた。
声は滑らかで心地がいいものだった。
「こんにちは、僕はシロ。気軽にシロと呼んでください」
「は、はい……。えっと、私の名前は詩川宙良、です。よろしくお願いします」
なにがよろしくなのかも分からないが、恒例の挨拶として彼に返す。
シロの美しさに、私は蜂須川さんに質問をしていたことを忘れてしまう。全てが吹き飛ぶくらい、彼は綺麗だった。
……この匂い……藤の花?
突然、藤の花の匂いがした。きっと、彼からの匂いだろう。
なんだか、最近、この匂いを嗅いだ気がした。
藤の花など見ていないのに。なぜだろうか。
「ふふっ、シロさん。この子、可愛いでしょう?」
蜂須川さんの爆弾発言に私は心臓がバクバクしていた。きっと、彼は困るだろう。いきなりそんなことを聞かれても。それなのに、彼は、迷うことなく、一息で言い切った。
「はい。とっても可愛いですね」
「え……?」
顔から火が出そうになる。先程よりも何倍か、心臓バックバクである。そんな私をからかうように、蜂須川さんは口を開いた。
「……ちなみに、どんなところが?」
それは聞いてほしくない。私は心の中で絶叫した。
次こそは絶対に困る。彼も恥ずかしいだろう。
「えっと……」
……ほら、やっぱり。困ってるじゃないですか!
内心で蜂須川に怒る。
「何だろう。こう、全部可愛いな。姿勢とか言葉遣いがしっかりしてるし、良い子なんだろうね。笑ったら、もっと可愛いと思うなぁ」
シロは恥ずかしがることなく、にっこりと笑った。
私は一人で悶える。恥ずかしすぎる。
信じられないほどに、心臓が速く動いている。よくそんな言葉を恥ずかしがらずに言えるな、私はそう思った。
私は蜂須川さんのニヤニヤした顔と、彼のにっこりした顔を最後に、意識をなくした。
もしかしたら、変な顔で倒れてしまったかも。
……何だろう。あったかい。
温もりを感じる。
できればずっとこのままでいたい。そう思ったとき、私は目を覚ました。
「大丈夫? どこも痛くない……?」
心配そうに言う声の主は……。
「シロっ! ……さん」
さんを付けたらいいのか、くんを付けたらいいのか迷って、結局さんにする。シロは美しい微笑を浮かべた。
「シロでいいよ。……ごめんね。あんなこと言って。気に障っちゃったかな?」
不安そうに見つめてくるシロに、私は大変な罪悪感を得た。
「ぜ、全然! その、むしろ……嬉しかった。は、恥ずかしかったけど!」
「ふふっ、そっか。……ありがとう」
ありがとうはこっちのセリフだよ、と喉先まで出かかった言葉を慌てて閉じ込める。少し馴れ馴れしいと思った。
そして私は、気を紛らわせるようにして周りを見る。
……あれ。なんかいつもと目線違う?
なんだか目線が高い気がする。
しかも、驚くことに、シロが私の顔に一センチほどしか間を作らず、くっつきそうなほどに近づいていた。
心臓が高鳴る。これはお姫様だっこ、というものだろうか。私はその雰囲気に耐えられなくなって、口を開いた。
「あ、あの、すみません!」
突き放すようにして腕から離れる。
「……ごめん」
その瞬間、失敗したと思った。シロを悲しませてしまった。初対面で、会ったこともない人だけど、シロにこんな表情をさせてしまった。
シロは、寂しそうな、悲しそうな顔をした。
苦しそうな声だった。悲しそうな瞳だった。
そうじゃない。ただ、恥ずかしかっただけ。そう言いたいのに、言葉が喉を通らなかった。私は、こんな情けない言葉しか言えなかった。
「……ううん。……ごめん。ごめんなさい……」
そう言ってしまうと、後はただただ空気が重くて、言葉を発することもままならない。
それなのに、優しい彼はは嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう。僕は嬉しいよ」
瞳に涙が溜まる。その優しい声で、泣きそうになる。
……私ってこんなに泣き虫だっけ?
でも、いっか、と思った。しょうがない。だって、泣いてしまうのだ。自然に涙が出てきてしまう。この衝動を抑えることはできない。
自己紹介をしようと思った。寂しそうな君に送る、私の最初のメッセージ。私が悲しませてしまったシロへの。
私は泣きながら口元を動かした。
「詩川宙良です。これからよろしくね。……本当にごめんなさい」
彼は驚いたように口を開いた。でも、とても嬉しそうだった。
「うん、こちらこそよろしくね。図書室仲間として」
彼は手をこちらに伸ばす。
……握手、ってことかな?
私も笑う。嬉しかった。
「名前は、シロ、って呼んだ方がいいよね」
彼は少し迷ったような素振りをする。
言いたくないことなのかもしれない。強制するつもりはない。
「あっ、ごめんね。言いたくなかったら、いいよ」
そんな私を見て、彼は「ごめんね」と言う。また、謝らせてしまった。
「シロって呼んでくれるかな?」
不思議な名前だ。苗字ではなく名前でも、あまり聞かない名前。
たぶん、あだ名。自分の名前を言うのが嫌なんだろう。
だから私はそのことに深く踏み込まずに笑顔で名前を言った。
「シロ、よろしくね」
シロは嬉しそうな顔をした。その笑顔は、人を笑顔にする。私も嬉しい。
しかし、私は知ってしまう。
「シロ」と言う名前の意味を。それは、とても辛く、悲しい物語だった。
そして、私に、大きく関係していた。
星乃いーふです。
呼んでくださり、ありがとうございます(*^^*)