89 真っ暗な塔の中で(2)
それから、小さなパピラターは、いつも通りの日常を過ごした。
いつも通り、蝋燭の揺れを眺めながら、心の中ではいつも、あの一言のことばかりを考えていた。
『虫図鑑、発売中!』
植物図鑑には、いろいろな植物のイラストと共に、有毒か無毒か、食用になるか、薬草になるか、そんなことが書いてある。
それでは、虫図鑑にはどんなことが書いてあるのだろう。
そんなことばかりを考えて過ごした。
そして、意識はどうしても外へ向いてしまう。
あの、扉の外へ。
もし、出たら……。
もし、出てしまったら……?
自分の足で、外を歩けるのだろうか。
暗い部屋の中で、本に書かれていた幾つかの風景を思い出す。
世話係が食事や水桶の世話をする間、そんなことを思いながら、じっと自分の膝を眺めて過ごした。
そして、世話係が出ていく瞬間、閉まっていく扉の隙間を必死で眺めた。
扉の外はやはり窓は無いようで、世話係が持つ燭台の灯りが、仄かに壁を映すばかりだ。
「…………」
扉に鍵はついていない。
そんな事は関係なく、外に出てはダメだと言われていたから、出ることはなかった。
けれど。
閉まり切った扉をじっと見た後、小さなパピラターは、静かに扉のそばまで歩いた。
床も石でできているので、カツカツ音をさせなければ、音が出ることはない。
すり足で。
音が出ないように。
押せば開く。
あたしはそれを知っている。
押せば開く。
けど、出ていっていいんだろうか。
押せば開く。
その事を考えただけで、冷や汗が出た。
言いつけに背けない。
裏切れない。
そして、どうしても我慢できなくなったパピラターは、夜に水桶を持って世話係が出て行った後、ベッドの上に腰掛けたまま、薄暗い部屋の隅をじっと見つめた。
心の中で、数字を数える。
1……2……3……4……5……。
目を瞑り、500まで数え終わった時、小さなパピラターは立ち上がり、扉の前へ静かに歩いた。
この夜の水桶の時間が終わったら、朝まではここには誰も来ない。
つまりそれは、朝までに帰ってくれば、出て行ったとしてもバレないという事だ。
「…………」
口の中が乾く。
けど、今なら。
そう、今なら。
ギ……。
扉を押すと、嫌な音を立てて、扉が開いた。
「…………」
今、小さなパピラターと”外“の間には、何の障壁もない。
開放感と、恐怖。
身体が震える。
ただ、汗が流れる。
頭が真っ白になる。
心臓の鼓動が、早くなる。
“出てはいけない”と、誰かの声が、呪いのように頭に響く。
あれは、世話係だっただろうか。それとも、それ以外の誰か?
もう、誰だかわからなくなってしまった人。
出て行っても大丈夫。
大丈夫なのを知っている。
けど、“出てはいけない”と言われているから。
あたしは、出てはいけないんだ。
過去話もまだもう何話か続きそうです。次回こそ外へ……!




