○万温泉に行こう! -グンマー追放-
「東京! ファースト! 異国のグンマー研究者は出て行け!」
朝のTVから流れてきたのは、そんなフィクションのような不愉快なニュースだった。
いつものように寝間着ジャージのまま朝を始めた。
しっかり振って小便をすませて手を洗い、顔を洗い、食器棚から皿をだし、コーンフレークを入れ牛乳を注ぎ、リンゴも持ってリビングに戻るいつもの朝だった。
テレビはまだ、新都知事「都洋燈{とらんぷ}」の就任演説を流していた。
「私たち東京都民は今、素晴らしい都心的な努力に参加し、都を再建して、すべての人のために約束を果たします。私たちは共に、東京の、そして、日本の歩む道を決めるのです。これから歩む長い道です。私たちは課題に直面するでしょう。さまざまな困難にも直面するでしょう。しかし、その仕事をやり遂げます」
「何十年もの間、私たちは東京の産業を犠牲にし、日本の産業を豊かにしてきました。一方で、東京の財政は、悲しくも枯渇しています。都外に数億円を投資しましたが、東京のインフラは絶望に陥り、腐っています。「ふるさと納税」を介して、他の県を豊かにしましたが、東京の富、力、自信は、地平線のかなたへ消えて行きました。ひとつずつ、工場が閉鎖され、東京を去りました。数百万人の東京人労働者が置き去りになることなど考えもしないで、そうしたのです。中間層の富が、その家庭から奪われ、日本中に再分配されました」
「しかし、それは過去です。今、私たちは未来だけを見据えています。私たちは今日、ここに集まり、新しい決意を発し、すべての街、すべての日本の県庁所在地、すべての地方自治体にそれを響かせます。今日、この日から始まります。新しいビジョンが東京を治めるでしょう。今日、この日から、東京第一のみになります。東京第一です」
「そしてまず手始めに、異国人グンマーの研究者をこの東京から追い出します」
テレビから新都知事のまわりの観衆が拍手する音が聞こえた。そして、拍手は自然に、新都知事を鼓舞するものに変わっていった。
「東京都に未来の明かりを灯すのは誰だー!?」
「都洋燈!」
「追い出すのはー!?」
「グンマー!」
「都洋燈!都洋燈!都洋燈!……」
テレビから流れて来る不快なワードは、グンマー県民が住むこの小さな一人暮らしの家で、山びこのように響いたのだった。
ど、どういうことなんだいったい……。
-都心大学・南大沢キャンパス-
「おそらく”見せしめ”なんやろ。研究者であれば他の労働者に比べてパイは小さいし、見せしめの首切りにちょうどよかったんや。日本人ってやつは自分のことでなければ、少数派{マイノリティ}を平気で切り捨てる民俗を持っているからなぁ」
向かいに座る同期の山本{やまもと}はパワー丼をかっこみながら言った。
さすが民族学で博士課程に在籍するだけあって、観点は政治ではなく民族。
「『民族』じゃなくて『民俗』な。そこ全然ちゃうから」
……何っ!? こやつ俺の心の誤字を読んだのか。これがパワー丼パワーだとでもっ。
「そんな副作用あるかいな」
ちなみにパワー丼とは、本学、都心大学生協食堂が誇る名物メニューのことだ。どこかにありそうな、でもどこにもなかった醤油ベースの香ばしいタレがこれでもかと絡みついた山盛りの豚肉に、それを爽やかに喰い進める介添えをする水菜、そしてすべての具材と味を統一する味皇たる温泉卵、が乗っかったベスト・オブ・丼めしのことである。
都心大学に来たら一度は食べてみることをオススメする。
「だからといってこんな排外主義、ってか排外がまかり通るのかよ……」
不動{ふどう}は今朝市役所から届いた赤色の手紙を握りしめながら言った。
手紙にはこう書かれていた。
「不動マコト殿 3月31日までに研究を停止し、グンマーに帰国すること。」
とてもシンプルな死刑宣告がそこには書かれていた。そう、D1からD2(博士後期課程2年)へ進級するこの時期に研究を止めることは、自分の研究人生において計り知れない打撃なのだ。
「確かに俺の生まれはグンマー県だけども、両親の仕事の関係で小学校以降、高校に入るまで海外生活だし、戻ってきてからもグンマーにはほとんど足を踏み入れてないんだ。グンマーのことなんて、これっぽっちも覚えていないっていうのに……」
最後にグンマーを訪れたのはじいちゃんがギックリ腰で入院したときだ。それも、前橋の病院に数時間滞在しただけだ。
こんなことになるなら、住民票も本籍も、じいちゃんのとこから東京に移しておけばよかった……。
「船出から座礁どころか、転覆やんなぁ」
「新年度始まる前から、とんでもないことになっちまいましたなぁ」
山本は言った。
「ここまで、博士の研究助成金も出て、半年後には論文も出せる目処がたって、順調に研究者人生のスタートを切り始めてたってのに……」
不動は両手を組み合わせ、神様に祈るようにうなだれた。
「これが世界の選択かよ……」
こんなアニメやゲームみたいなセリフを現実で言うことになるなんて、夢にも思わなかった。
「世界とまでは言わないけど、東京はこっちを選んだみたいやな~」
山本はさっきまでせっせと動かしていた箸を止め、こちらをまっすぐ見直した。
「で、このことに関して、まこちんの教授{せんせい}はなんて言ってるん?」
山本は同じ大学のサークルときから、僕のことを“まこちん”と呼ぶ。
女性器と男性器を混ぜたようなアダ名なので止めて欲しいと言っているのだが……。
「『とりあえず従うしかない』って言っていたよ」
「とくにうちみたいな、都の税金で大部分賄っている大学にとって、そこの予算がなくなるのは死活問題で、教授会では都に全面服従することが決まったんだそうだ」
「ほんま?そりゃあ全体で考えたらそうやけど……、不動君みたいに研究予算に直結するような研究をしているエースがいなくなるんは、研究室レベルでみたら大打撃なんやない?生物分野のことはよう、知らんけど」
「それはきみの言う通りで、教授もそこは当然わかってるよ。従うだけのこの決定についても何度も何度も謝られた」
おそらく今回のことで僕の次に苦しい思いをしているのは、うちの教授だろう。
「とりあえず、同じ分野で、都洋燈の力が及ばない研究室を探して、移れるようにはからってくれるそうだ。都知事が退陣するのを待っていたら、本当に研究者として死んじゃうからね……」不動は言った。
「見つかるまではどうするん?」
パワー丼を食べ終えた山本は箸を置き、怪訝そうな顔で、おそるおそる聞いた。
「とりあえず、休学になると思う。幸いうちの大学は休学中の学費もかからないし、期間も無期限だからな」
「あー、その、そっちの手続き面もそうなんやけど……、仕事はどうするん? 研究費も、研究支援生活金も休学中は止まってまうやろ」
「そうなんだよ。そこが一番きつい。ここでの研究活動が止められても、自分のメインはフィールドでの植物採集だから、サンプリングだけなら行けると思ったんだけど、お金がな……」
教授は金を貸すと言ってくれたが、いつこの状況が改善されるかも目処が立たないうちにお金を借りるのは、自分としても荷が重い。
「かといって、この状況だろ。他の仕事への転職も風あたり厳しいんやないか?」
「都を上げて否定された職種からの再就職やろ、どこも触れたがらないと……」咄嗟に山本は自分の言っていることの恐ろしさに気づき、声をすぼめた。ながら言った。
「あっ……、すまん。言いすぎたわ」
「でも、まぁ……、厳しいけどその通りだ。いくつか博士取得後の就職として声をかけてくれた企業にも、さっそくメールを送ってみたが、みんな渋い返事ばかりだったよ」
それもそうだ、博士号未修了なうえ、いわくつきになった身分。冷静に考えて、採用してくれる会社はないだろう。
「じゃぁ……本当にグンマーに帰るしかないのか……」
山本はテーブルに視線を落とし、ため息をつきながら言った。
「まっ、まぁ、すぐに教授が次の所属先を紹介してくれるさ。それまで間のちょっと長い夏休みだと思うことにするよ……」
僕はつらい気持ちがばれないよう、前向きな言葉だけを絞り出した。
夏休みというには先取り過ぎる、桜の遠い季節。
夏休みというにはロングバケーション過ぎる、執行猶予期間。研究者としての死刑宣告も頭をよぎる。
「で、いつ帰るん?」
「期限までもう1週間もないし、明後日にはもうグンマーに行くよ。大家さんにも話してある」
大家さんとの先日のやりとりが頭をよぎった。
改めて思い返すと、大家さんの腫れ物を扱うような対応も辛かった。
学生に優しいあんなに友好的な大家さんが、都のトップの一言であんなにも態度を変えてくるだなんて……。
「そっちの……、グンマーでの仕事のあてはあるん?」
「まぁ、そこはなんとか。じいちゃんがずっとやっているグンマーの温泉旅館があるから、そこで働かせてもらえると思う」
久々に連絡を取ったじいちゃんは「仕事はある。うちに来い」と、二つ返事で受け入れてくれた。
「男の仲居さんになるってわけか。もういっそのことそのまま旅館を継いだったらええんやない?(笑)」
「おいおい。じいちゃんのとこで働くのは、あくまでも今の騒動が解決するまでだ。じいちゃんもそれで了承してくれたんだぜ」
「まぁまぁ。あっしも休みができたら遊びに行きまっせ。若旦那(笑)」
「若だんなねぇ…」
山本の言っていることもあながちあり得ない話ではない。
じいちゃんからしてみれば、世界を駆け巡って仕事をしている両親よりも、行くところがグンマーしかない自分の方が跡継ぎとして期待できるだろうし。
「ちなみに、そこはなんて温泉街なん?」
「えーっとたしか……」
「四万温泉、だったかな?」
自分も5歳以来訪れていない土地で、そのあと転々したこともあってか、故郷の地名すらうろ覚えである。
「しまん温泉?」
「いや、四万{よんまん}と書いて、『しま』。『しまおんせん』っていう読みで、グンマーの奥の方の、新潟との県境近くにある温泉街なんだ」
「グンマーの奥地か……。生きて帰ってこれるとええなぁ(笑)」
そう言って、山本は口角を上げニヤリと笑った。
「ジャングルに向かう探検隊だな」
自分にとって20年未開な土地という意味では、ジャングルとそう変わらないのかもしれない。
不安要素がまた一つ増えてしまった……
―グンマー研究者退去、最終日―
四万温泉に向かう方法はいくつかある。
①自家用車
②高速バス
③電車
①自家用車はまず持っていないので無理。エンジンなしの乗り物、ロードバイク(ビアンキ)で行こうかとも考えたが、150kmの登りの道程は研究で鈍った体にはちとキツい。自転車自体は四万温泉に持って行って、田舎暮らしの貴重な足として働いてもらうが。
②高速バス。これが一番楽な手段である。
しかし、今回はグンマーへの引越しでバタバタだったこともあり、高速バスの予約が間に合わず、電車で帰ることになった。
よくよく考えてみると、乗り換え無しで四万温泉街の中心地まで行くバスもあるので、この選択肢を取れなかったのは痛い。
まぁ、高崎でお土産買ったりして、観光気分でゆっくり帰りますか。
どうせ急ぐ旅ではないのだし。もっと言うと旅でもないし、終わりも、いつになるかわからない。
-東京・渋谷駅-
京王井の頭線、渋谷駅の改札を出た僕はそのまままっすぐ歩き、JR渋谷駅の改札を目指していた。
まっすぐ突き当たったところで、右に曲がって少し歩き、左手に見える階段を上がった。両手で重いスーツケースを持ち上げ、体を横に向けながらなんとか階段を乗り越え、右手に見えるJRの改札を抜けた。
山手線のプラットホームは……スルーし、奥の方にある湘南新宿ラインのプラットホームへ。
ここまで来ると、動く歩道があるので楽チンである。
まわりを見渡すと、自分と同じように大きな荷物を持って歩く人たちがいた。
自分がこういう理由で帰郷することになったせいか、この人も、あの人も東京から追い出された人ではないかと思ってしまう。
奥まで歩きエスカレーターで下ったら、後は「JR湘南新宿ライン特別快速・高崎行」を待つだけである。
プラットホーム内にある発券機に向かった。
ど平日の昼間で混雑もないだろうから普通席で行こうと思っていたのだが、プランが変わった。
今朝、研究室に寄ってラボのみんなに最後の(になるかもしれない)挨拶をしに行ったところ、教授に「餞別」をもらったのだ。
思ったよりその額が大きかったので、ぼくはそのお金をグリーン席の購入代金に当てることにした。サンキューマイボス。
電車が到着する時刻が近づくと、普通車の車両の出入り口に多くの人が並ぶ姿がちらちら見られ始めた。やはり、さっき見かけた人たちはグンマー出身の研究者だったのではないか?
全体的に鬱々した空気、背の丸い、チェックシャツを基調としたファッションに興味の薄い服装。自分もその内の1人に含まれていると思うと、グリーン席にして正解だった。
立ち位置が違うだけでたいして違いはないのに。
これじゃあまるで都洋燈みたいだ。よくないよくない、20数年ぶりの帰省を楽しむことだけを考えよう。
さて、ここで少し、これから乗る湘南新宿ラインの車両の説明をしよう。
JR湘南新宿ラインのグリーン席は2階建て構成になっている。1階席、2階席、それぞれにメリットがあって、旅の過ごし方に応じて使い分けるのが重要なのだ。
1階席はかなり低い位置に座席があり、駅のホームの床と目線が同じくらいの高さになるらしい。
ミニスカートの女性が通り過ぎたらどうなるか気になるところである。
1階席のメリットはそんなハレンチな視点がポイントなのではなく、読書灯が設置されているところだ。ゆったりと自分の時間を過ごしたい人にはこちらが向いているだろう。
2階席は一般の車両と比べて高い位置に設置されており、普段との電車とは異なる視点からの外の景観が楽しめる。車窓の外をぼうっと眺めたり、仲間とお話しながら過ごすにはこちらがうってつけだろう。
ちなみに、この1階席と2階席は移動可能で、席についたときにICカードでグリーン券情報読取り部にタッチすれば席を変更したことになる。便利なシステムである。
なんでこんなに詳しいかというと、じいちゃんからきたメールに書いてあったからだ。
「グリーン車を使うなら、1階席がオススメ!駅に着くたびに、綺麗なオネーサンの生足を眺められるかもよ(笑)おひょひょひょひょ!2階席にするなら……」
どう見てもよぼよぼの爺さんが打つメールには見えない。そもそもよくメールなんて使えたな、あの爺さん。御歳80になるというのに……。
てか、そもそも何で湘南新宿ラインの事にそんなに詳しいんだよ。その歳で東京にちょくちょくでかけてるのか!?
と、いろいろ思う部分はあるが、とりあえず今は置いておこう。
「ピッ」
荷物棚の下面にある、ICカード読み取り部にタッチ。
読書と関東平野で迷っていた僕は、目新しい方を選択した。
君子、ハレンチな罪には近寄らず……。
普段よりちょっと高い座席(物理)は気分まで上げてくれた。
窓辺に飲み物とさっき駅の売店で買ったお菓子のカップを置き、旅の準備は万全。
「プルルルルルル……」
列車は動きだした。東京から少し離れた、関東の北のほうに向けて。
・・・・・・・<電車で移動している感じが分かるエフェクトを入れる>
「……さき」
「終点、高崎〜。高崎〜」
「おっ、着いたか」
熊谷駅くらいまでは外の景色を眺めながら起きていた記憶があるのだが、それ以降はぐっすり寝てしまったみたいだ。
「ってか、急がないと。この後もまだ乗り換えがあるわけだし」
僕は戸棚から荷物を降ろし、急いでプラットホームに出た。
「えーっと、降りたのが4番線だから……、これから乗る吾妻線のホームはっと、2番線か。隣のホームだな。一回上に上がらないと」
ふと顔を上げると、何故か同じホームに2番線の看板が見え、ついでに「吾妻線 万座・鹿沢口行」と表示のある、紺色の列車も目に入った。どういうことだ?
まぁいい、細かいことは考えないで列車に乗り込もう。ここはもう異国グンマー、ワームホールの一つや二つあってもおかしくない。
ちなみに後で知ったのだが、どうも3番線はホームを歩いた先の端に申し訳程度にあるらしい。2,3,4番線が同じホームにあるなんて……、オレでなきゃ見逃しちゃうね。
「プシュー」
ボタン式の開閉ボタンがどこか田舎らしさを彷彿させる。
ドアを開けるとき、小さかった頃を思い出した。
昔はもっとマニュアルで、手動でこのドアを横にスライドしていた。子供だからなんでも自分でやりたがって、率先して開けに行ってたっけ?
○○○○に取られる前に(笑)。
○○○○って……、誰だ?
思い出に現れた子の名前が思い出せない。誰だろうか。
ボックスタイプの窓側に座りながら少し昔に想いを馳せ、古いヴァージョンの四万温泉をインストール。
郷に入れるよう、少しずつ順応させていくのだ。
「プシュー」
近くのドアが開き、部活帰りの中学生達がぞろぞろ入ってきた。
「それかんますなって、わからんくなるし〜」
「それもうだめっしょ。え〜ぶちゃる?まだ行けんべ」
「遅れそうなんで もうぞう飛び出していったで〜」
ホワッツ!?
彼らの会話に聞き耳を立ててみたが、話している内容が1ミリも理解できなかった。これがグンマーの洗礼なのか?
都洋燈が異国の民と称した気持ちが今となっては少し、ほんのちょっとだけ、理解できる……。
「出発しまーす」
駅のアナウンスが流れ、吾妻線はグンマーの山奥に向けて発車した。僕は郷{ごう}に入っていけるのだろうか。
そんな不安が重しとなりつつも、慣性の法則は全国共通。引きずられ擦れながら、僕も進みだしたのだった。
がたんごとん……。がたんごとん……。
遠くに見えるグンマーの山々が見える。
がたんごとん……。がたんごとん……。
高崎から中之条までの吾妻線の旅は、1時間。
こちらも時間はたっぷりあるので、タブレット端末に入れてきた生物学の論文をながめることにした。
湘南新宿ラインですっきりした頭を活用しようじゃないか。
タブレットのスイッチを押して起動を待つ。このパソコンは起動時にいくつかのタスクを自動で開始するように設定しているので、動きだすまでちょいと時間がかかる。
ふと通路側に視線を向けると、反対側のボックス席に若い女の人が座っているのが見えた。
自分と同じく進行方向側に座り、窓のほうを向いているので顔はよく見えないが、髪型、背格好から見るにおそらく同年代だ。
キャメルカラーのダッフルコートに、翠色のスカート、黒のストッキング。車窓から外を眺めがら、黒いストレートの長髪を、左手でクルクルと内巻きにいじっている。
横に置いてある百貨店の袋を見るに、高崎で買い物をした帰りなのだろう。
ボタンが開けたダッフルコートから体のラインに沿った黒のニットワンピが覗けた。生地に沿った黒い稜線は、電車が段差を越えるたびに大きく揺れた。
「ぽよん……ぽよん……」
っていかんいかん、見惚れていないで読まねば。
視線をタブレットに戻し、「論文:スイカズラ科の形態と送粉者の関係.pdf」と書かれたファイルを開いた。
ふむふむ、マルハナバチが寄ってくるのは花が上向きか下向きかで……。
「しゃっ、しゃっ」
右耳から、紙と鉛筆が擦れる音が入ってきた。
電車の走行音でうるさくて聞こえないはずなのに、僕の耳は小慣れた感じでその音を拾い、視線を再びそちらに向けた。
彼女は手帳を開き、その上で鉛筆を走らせていた。少しうつむいて正面側を向いた顔は色白く、切れ長の目は手元を見ているのか、遠くを見ているのかわからない表情だった。
ときおり湯気の立ちあがる水筒に口を付けては筆が早め、何か思い出しながら描いている様子だった。
……
……
「新前橋〜、新前橋〜」
……
……
「渋川〜、渋川〜」
……
……
「小野上温泉〜、小野上温泉〜」
……
……
手元に集中していることをいいことに、僕は反対側の窓を見つめるフリをしてその集中した顔をじっと眺めていた。
あたかも、窓の外に見える赤城山の風景に興味があるようなフリをして。
ときおり宙を眺め何か考える素ぶりを見せたり、裏のページに試し書きしたりと視線を動かしていたが、彼女はまわりの目を気にしている様子はなかった。
「次は〜、中之条〜、中之条です」
駅のアナウンスは目的地が近づいていることを僕に知らせた。四万温泉街はこの中之条駅から出ているバスで向かうのだ。
僕は手元のタブレットの電源を消し、身支度を始めた。
「びりっ」
えっ?僕は目を見張った。
「びりびりびりびり」
彼女はおもむろに、今の今まで描いていた絵を手帳から切り取り、
「くしゃくしっ」
丸めて、ポケット中に入れてしまった。
なんでだ。あんなに夢中になって描いていた絵なのに、何が気に入らなかったのだろうか。
僕は呆気にとられ、荷台に伸ばしかけていた手を止め、立ち上がりながら彼女を見つめてしまっていた。
僕の視線に気づいて彼女は顔を上げてきたので、僕は荷台の方を向いて荷物を取るジェスチャーをした。
「中之条〜、中之条〜」
中之条に到着したが、目を合わせたら気まずい気がしたので、荷物を下ろすのに戸惑っているフリをして通り過ぎるのを待った。
僕の背後を通り過ぎるとき、風呂上がりの女性のようなふんわりとしたいい香りがした。
案の定、彼女はドアの開閉ボタンを押して、中之条で降りていった。僕もその後ろ姿を確認してから、荷物を持って電車を降りた。
低く灰色の雲がタイルのように敷き詰められた灰色の街。日も落ちているのも相まって寂れた雰囲気を醸し出している。
高崎までは冬の終わりを匂わせた冬だったのに、ここにはそんな雰囲気は微塵もなかった。春はまだまだ来そうにないみたいだ。
ちりっ、と頰が冷たい。
空を見上げると雪が降り始めていた。
降りたホームの、改札口へ渡る歩道橋を見ると、彼女はもう階段を登り始めていた。自分も駅を出るため、追いかけるように歩道橋の階段のほうへと向かった。
「かしゅっ」
階段の手前で、僕は何か軽いクズをけっとばした。
足元に目を向けると、丸められた紙ゴミが落ちていた。て、僕は好奇心でそれを拾い、広げた。
その紙質に見覚えがあったのだ。さっき彼女が描いていた絵だ。
紙にはこのグンマーとは無関係の、ヤシの実とカヤックが浮かぶ淡いブルーの海が広がる、南国の風景画が描かれていた。
「ハワイ……、行きたいのかな?」
駅前のロータリーに出ると、四万温泉街行きのバスがちょうど止まっていた。駅前に時間を潰すコンテンツはパッと見なさそうだったので、寄り道せずに真っ直ぐバスに向かって乗り込んだ。
ふと運公表を覗き込むと、そもそも四万温泉行きのバスは1時間に1本しかないようだった。あぶないあぶない。
これを逃すとこの何もない寒い駅前で1時間もつぶさないといけない事になってしまうところだった。
バスの後部席に抱えてきた荷物一式をドサッと置き、その脇にゆっくりと腰を下ろした。春先とはいえ未だ日が短いこの時期は、時間のわりに外は薄暗くなり始めていた。
灰色だった空も、あっという間に光のない紺色の空に変わっていた。
この感じだと、四万温泉街に着くころには真っ暗になっているかもしれない。
バスは平日ど真ん中のせいか観光客っぽい人はあまり見られなかった。
地元っぽい人はもっと少なかったが。地元民はおそらく、駅前の駐車場に停めてある車で帰るのがデフォルトなのだろう。
ちなみに観光客と地元民見分けるコツはたった一つ、防寒着としてダウンを着ているか否かだ。
なぜだかわからんが、こういう田舎の地元民のダウン率は8割を越える。一方観光客はオシャレをしてくるので、どんなに寒くてもコートを羽織ってくる。
そんな役に立たない田舎豆知識を逡巡しているうちに、バスは発車し始めた。
そういえば、さっきの電車の彼女はコートを着ていたなぁ。
バスに乗車するときに席を軽く見回したが、お爺さんとお婆さんしか見かけなかった。やはり観光客ではなかったみたいだ。
バスは四万温泉街の中心地、四万グランドホテル前に到着した。
そういう街なのか、オフシーズンのせいなのかわからないが、バス停のまわりに賑やかしい雰囲気は全くなかった。
目の前のグランドホテルがどどーんと明るく構えていて、それ以外は道路沿いに仄かな白熱灯が点々と弱々しく灯されているだけだ。
静かな雰囲気は、道に寄り添って流れる川の音が一番よく響いていることから自明だった。はっきりいってそれだけしか聞こえない。
そういう街だった。
ここが終点なのだが、じいちゃんの旅館がある「中生館」まではここからもうちょっと離れたところにある。
じいちゃんに車で迎えに来てもらおうと携帯で電話をかけてみたが、いっこうに電話に出る様子がないので、諦めて「中生館」まで歩いて向かうことにした。ちょっと遠いけど、がんばりますかぁ。
くんくん。くんかくんか。
「……じゅるり」
バスを降りたとき、背後から脊髄レベルで満腹中枢を刺激する魅惑的な分子が僕を通過した。熱々のトンカツが揚がった時の香ばし〜い匂いだ。
そこに寄ってからというのも一瞬考えたが、じいちゃんの
「うめえもん用意しとっくから」
という言葉を信じて、振り返らないことにした。
若さとは、振り返らないことである。
……けどやっぱり気になるし、20代後半に差し掛かり若さもなくなってきたので、少し振り返り入り口の看板をちらりと覗いた。
赤く光る移動式の立て看板に、太く白い筆文字でお店の名前が描かれていた。
「”あすなろ”か……」
今度必ず行こう。
どうせしばらくは四万{ここ}にいるわけだし……。
歩き出した先に街灯は続いているものの、山と空は真っ黒に混じり合っていて、道の輪郭はよくわからなかった。
道は続いているが、どういった形になるかはわからない。
目の前に広がる暗闇が怖く感じたのは田舎だからという理由だけではなさそうだ。
中生館のある日向見{ひなたみ}地区にたどり着いた。
じいちゃんから事前に送られてきていた”湯さんぽマップ”という四万温泉街の観光マップのおかげだ。
スマートフォンアプリに道案内してもらう気満々だったのに、来てそうそうに電波が入らなくなり、その選択は早々に断念せざるを得なかった。
人の世から隔絶された感じがさらに強まった気がする。
「はぁはぁ」
坂を上がりきり、少し歩き疲れたところに足湯が現れた。
左手に現れた足湯は、ヒノキのむき出しの木材でできたなんとも自然味あふれる休憩所であった。
ここに来るまでにも何箇所かそういう無料の休憩・温泉施設を見かけたが、いったい全部で何個あるのだろうか。時間はたっぷりある傷心旅行、居る間に全部回ってみるのもいいかもしれない。
足湯を横目に真っ直ぐ歩いて行くと前方に、白く光るぼんぼりの看板が見えた。中には”中生館”の3文字が描かれていた。
「やっとついた〜」
ゴールインだ。バス停から30分以上も歩いてきたので、足はクタクタ。一刻も早く温泉でホイミしなくては、魔法使い改め遊び人のパーティが全滅してしまう。
玄関を開け、受付のカウンターに上がると1枚の書き置きがあった。
「戻るまで温泉つかってろ」
シンプルで、次の行動を明確に示す一行。じいちゃんのそっけない感じに懐かしみを感じつつ、僕の脳内選挙は信任の札を投じた。
カバンから着替えとタオルだけ取り出して、荷物を受付の奥に置いて、僕は露店風呂に直行した。
・・・・・・・・・・
-カラッポーン-
「あれ?お風呂が空っぽなんだけど」
色んなものが肩透かしだ。
グンマーまでわざわざ来て、真っ暗な四万を歩いてなんとかこの少し街はずれにある温泉宿(実家)に着いたというのに。
中生館には電気はついているものの、お客さんがいる様子はなかった。じいちゃんも不在で、玄関にはぶっきらぼうな書き置きが1つ置いてあるだけだった。
その書き置きを見て露天風呂に浸かりに来たが、湯船にはお湯は張られておらず空っぽ。
冬の野外、風呂場でタオル一枚だけという、なんとも間抜けな絵である。
「へっ……、くしっ!!」
寒い。さっきスマホの天気情報で見たが、早春とはいえ、この時期の四万温泉の夜は、気温がマイナスになることもざららしい。
このままでは風邪を引いてしまう。間抜けとか、そういうレベルの話ではない。かといって、戻っても別にお風呂があるわけでもないだろうし……。
ぼうぜんと寒空の下、中生館のすぐ横を流れる川を眺めた。
春はまだ遠い四万温泉に流れる川は、極寒の季節だというのに水が流れている。
おそらく川の近くに温泉が湧いているスポットがあって、そこを熱源にして雪を溶かしているのだろう。
川を挟んだ先の岩壁には、立派な氷柱が列をなしていた。サッカーのゴールポスト並みの太さだ。
ここで温泉に浸かりながら眺めることができたら、なかなか乙なものなんだろうなぁ。
落胆しながら視線を氷柱群の上流から下流にスライドさせながら、露店風呂の出入り口に体を反転させ……
「ん?」今何か不自然なものを見つけたような……。
体の向きを逆再生して露天風呂の柵の方に近づいて外に身を乗り出した。
見つけたのは中生館の女風呂覗き見スポット……ではなく、川岸に発生している大量の湯けむり。しかも、この露店風呂と同じくらいのスペースの湯けむりの塊っ。
「ビンゴ!」
天然温泉だ。
湯けむりが立ちこみ過ぎて、どんな形状になっているかよく見えないが、ここまで来たら行くしかない。
というか僕の温泉欲を満たしてくれるのはあれしかない。
日本人の4大欲求。食欲、性欲、睡眠欲、温泉欲。
しかもちょうど、この露天風呂の通用口から反対岸にかかる鉄橋のすぐ横だ。もしかしたら、あの湯けむりも中生館で持っている温泉なのかもしれない。
「よっしゃあ!」
まわりに誰もいないのをいいことに大きい声を上げてしまった。まぁでも、そんなことはどうでもいい。
僕は天然露天風呂に向かうため、風呂壁面の「従業員専用」と書いてある戸を開けた。
またまた大正解。
戸開けた先には、外履き用のサンダルと、防寒用のウインドブレーカーがかけてあった。フードの部分がデフォルメされた熊の顔になっていて、頭頂部には耳までアップリケされている、可愛すぎるデザインであったがそんなの気にしない。
橋を渡って着くまでの間、寒さがしのげるなら構わないさ。フードにかかっていた雪を振り払い、僕はそのウインドブレーカーを羽織った。
「あったけぇ」
安心しろ自分。このあともっとあたたか〜い源泉かけ流し露天風呂に浸かれるぜ。
カンカンカンカンカン。
ところどころ赤く錆びついている鉄橋を渡る。
橋の中ほどで立ち止まり、目的地の方向を見た。ここまで近づいても湯けむりがすごく、天然露天風呂の全貌はよくわからない。
中生館の露天風呂からのライトと、膨れ上がった湯けむりと氷柱がなかなか、いい風情を醸し出している。
そして天然露店風呂で揺れる黒影。黒影?
自分の羽織っているものを眺めながら、一瞬このジャケットと同類を想像したが、シルエットのサイズ感が違う。
遠くなのではっきりとは見えないが、サイズ的に猿かカモシカの類だ。
この際ゲストの一匹や二頭は歓迎しようじゃないか。むしろこの街の新参者の僕の方がゲストじゃないか。
野生動物とはいえ、挨拶をするくらいの礼節はわきまえている。
カンカンカンカンカン。
鉄橋を渡りきった。
ここまで来るとあたり一面真っ白で、川も鉄橋もよく見えない。転び落ちないように、足元に手をつきながら熱源に近づくことにした。手の甲に暖かい水蒸気を感じながら、しゃがみながら近づいていくと、
「コンっ」
何かに手が当たった。目と鼻を近づけてよく観察した。ふんふん、ヒノキの香りがする。これはスノコだ。手で触るとサラサラとした感触があった。
ここに上着をおけるかな?湧き出ているところまで近いのかな?
「ちゃぽん、ちゃぽん」
お湯が波を立て、湯船の壁面に当たる音がした。
ついにご到着。
ウインドブレーカーをスノコの上に脱ぎ捨て、腰に巻いていたタオルをはずした。タオルはきれいにたたんで頭に載せ、準備万端。
ちょん。足先だけつけてみたがちょっと熱い感じ。40℃くらいかな。
これなら全身入れる。
僕はそのままするする〜と体を胸まで天然露天風呂に浸からせた。
「う、あ゛あ゛ぁ〜」
ああぁ、天国。
体が冷えきってしまっていたためか、温泉の温もりが指先から骨の芯までジワーっとしみ込むような感覚が全身を包みこんだ。
控えめに言って最高だ。
指先の感覚が戻ってきた。動作確認の要領で伸ばした足先の指をぴこぴこ動かしてみた。
動作確認完了。
夜空を見上げると、湯気の間から雲ひとつない星空が見えた。
「綺麗……」
ここ数年、空なんてずっと見ていなかった自分に気付かされた。昔は空を見ては友達が……、友達と……どうしてたんだっけ?
まあいい。ぼんやりとシルエットが浮かんだ友達はよく思い出せなかった。
ずっと張り詰めていた糸が何ヶ月ぶりかに緩んで、ほどけ始めて、自分がずっと気を張っていたことに気がついた。
異国の地、古い故郷。なんとなく、少なくとも今日くらいはここでもやって行けるような、そんな楽天的な方向に気持ちが動き始めた。
「贅沢いうなら、もうちょっとここから景色が眺められたらなぁ」
相変わらず湯気はもうもうと立っていて、視界は50cmもない。
外から見た感じ、ここから見る氷柱と川の流れ、
枯れ枝にもっこりと積もる雪、
お湯に浸かる野生動物、
はなんというか国鉄のCMにもなりそうな、そんな絵になる……。
-カポーン-
そんな昔ながらの効果音が僕の頭の中で響いた。それくらい、温泉らしい温泉ということだ。
「ひゅるるるる〜」
そう思った矢先、川の上流から強い風が吹いた。
湯けむりは消え去り
漆黒の空には金色の満月。
夜空を装飾する星々。
月の下から川面へ伸びる枯れ木、に乗った塊雪。
岩壁に垂れ並ぶ氷柱。
冷たく絶えず流れる川。
そして、野性味溢れるゲストの、湯けむりのような透き通った白い肌。
……透き通った白い肌?
以下に、先客の野生動物の特徴と生態を述べる。
湯船の隅に体を寄せて、おしりを積み石で造られた縁に乗せて長い後肢体を内股にくねらせている。
左腕で中生館のライトで照らされた豊かな満月を下支え、中指と人差し指をピンと伸ばして、糸のようなものを指ではさんで掴んでいる。
右腕は、くの字に曲げられ手のひらには攻撃用の木製の風呂桶がしっかりと握られている。
目は湯気か涙か見分けがつかないくらい、びちゃびちゃにあふれて、滴り、濡れて、深く大きい満月の谷に注ぎ込み、3角形の溜池を創りあげている。
鼻の穴は少し大きく開いてひくひくと微動し、頰は淡く、いやはっきりと大きく紅潮している。
裸一貫だし野生動物と言えばそうなのだけど、目の前に現れたのはそんなワイルドなライフではなかった。
見覚えのある長い黒髪の、僕と同じ霊長類ヒト科の哺乳動物。
温泉に浸かっていたそれは、昼間電車で見かけた女であった。
「こっ、こんばんは……」
桶を振り上げたまま、彼女は怖れの表情を変えなかった。鼻がずっとヒクヒクしている。僕がなんなのか認識できていないみたいだ。
「つ、月がきれいですね?」
何を血迷ったのか、僕はそのときに思ったことをそのまま、加工せずに伝えてしまった。
でも挨拶は大事だよね?
彼女の頰はほんのりと赤みが増し、眼尻が緩み、昼間は見せなかったとても柔らかく豊かな表情になった。
気がつくと僕の視線は磁石のように滑らかに、そして力強く、その2つの白い満月{フルムーン}に惹きつけられていた。
その視線に彼女も気がついたのか僕を認識した様子を見せた。
それと同時に右手でぎゅっと風呂桶を握り直した後……
感情の湯船が決壊した。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
悲鳴上げながら右手の桶をオーバースロー!
僕の顔面にストラーーーイク!!
「ひでぶっ!」
空中に跳ね上がり放物線を描く風呂桶が、くるくると回転しながら、満月と重なっていくのがスローモーションで見えた。あぁ、これが走馬灯というやつだろうか。
頭がぐあんぐあんと揺れる。
天使が僕をお迎えに来たのだろうか、鈴の音が静かな温泉街に鳴り響いている。
「リンリンリンリンリンリンリンリン!!」
視界がぼやけ、全てがスローモーションに映るなか、彼女は手で何かを掴んで必死に上下に振っている。雨露のように湯滴がしたたる彼女の胸も揺れている。
露天風呂から突出した上半身から彼女の身体を覆う雫が弾け飛び、ミストサウナのように僕の顔にぴちゃぴちゃと降りかかる。
斜め上に建つ中生館からの光で、その飛びちる様子や白くむっちりとしたフトモモが神々しく光輝いて見える。
そんな幻想的な光景を見ながら、
「ごぼごぼごぼ……」
気絶しかけた僕の体は温泉に溺れていった。
あれなんだっけ?温泉で溺れると変な体質になっちゃうやつ。悲劇的伝説呪泉郷……
身体から力が抜け、ゆっくりと底に沈んでいく。
「…」
「……」
「……くん」
誰かが僕に呼びかけている。
声だけじゃない。誰かが僕に触れている。点ではなく面で。
温泉ほど熱くなく体温よりは暖かい感覚を、僕はぼんやりと感じた。
気持ちいい。自分の体をほかの人に触られるなんていつぶりだろうか。
じんわりと混ざらないと想っていたトコが温かくなって、一体となってとろけていく。
融けて初めて、自分のいろいろな部分が凍っていたことに気がつく。
そんな……。
「まー……くん」
まぶたを開くと、さっきと同じ星空が頭上に広がっていた。
「あぁ、気絶していたのか」
発した言葉が湯気になる。
見上げた夜空は僕の口元だけに靄がかかっていて、外気は凍るほど冷たい。
あんな災難にあったのに溺れず、温かいお風呂と気持ちいい感触で目覚めることができたのは、なんという幸運だろう。
「……」
きもちいい感触?
左半身から感じた視線とかやわらかさを確認するためにそちらを振り返ると、黒髪の女性とおっぱいがあった。
失礼、こう言うと彼女と別の何かがあるように聞こえる。
正確には、少し青ざめた表情で僕を見つめる彼女と、僕の左腕と固く組まれた右腕と、それに応じて押し付けられた白く、熱く、柔らかい、おっぱいがあった。
「……殺してない?」
彼女は上目遣いで心配するような表情で、こちらの顔色を伺っている。
僕の生存確認ではなく、自身の過失致死について確認するあたりに彼女の内向的な側面が垣間見える。
「息が白いのでおそらく……」
「生きていると思います」
頭がぼ〜っというかぽーっとしていて、自分でも何を言っているのかよくわからない感じだった。
「よかったぁ……」
彼女は一言漏らすと少し顔を赤らめ、すっと腕を外し小さい浴槽の中で僕から離れた。
視線を合わせず背を向け、長く白い脚から湯を滴らせながら露天風呂から上がっていった。
靄の消え去った露天風呂は、ただただ髪と、指と、肘と、背筋と、臀部と、踵から流れる流れを眺める僕と、漆黒の闇に浮かぶ満月だった。
天国か、天国の終わりのようだ。
夜中の研究室よりも、中之条駅前よりも、世界の果てよりも、透き通った時と空気が流れている。
そんな気がした。
いろんな事がふいになって、環境が変わってしまった僕の事情も相まって、夢の中でまどろんでいるような不思議な感覚が僕を支配していた。
「カチャ」
聞きなれない機械音と僕の後頭部への固い触覚が、唐突に僕を現実{うつつ}へと引き戻した。
「こんばんは、覗き魔さんよぉ。そう、ここがおまえさんの天国であり、地獄だ」
ミリ秒単位で自分の生命の危機を察知した。
ゴリュッゴリッ!
自分の頭に押し付けられている金属製の筒は間違いなく、僕の脳をブッパするあれだ。絶体絶命!!
タオルを手にとった彼女がこちらを振り返り、目を見開いている。
「ヒナちゃんごめんよぉ。熊除けの鈴鳴らしてくれたのに駆けつけるのが遅くなっちゃってぇ。すぐ始末するけぇのぉ」
後ろから、生暖かい息があたった。声を聞く限り、おっさんみたいだけど……。
さっき彼女が必死に腕を振っていたのは熊除けの鈴を鳴らすためだったのか。
「えっ、でも、この人って……」
彼女はタオルを掴んだ手を胸に当て、たじろぐ素ぶりを見せながら、口をぱくぱくさせていた。
「ちょまっ、そこで見てないで、このおっさんになんとか言ってくれ!」
僕はタオル1枚の彼女に向かって叫んだ。
「露天風呂に浸かっていたらいきなり乱入してきた成人男性で、さっきまで私の胸にしがみついていたの、ってさ!」
ってあれ?こいつはアウトだ。弁明のしようがない。
「この銃がニホンザル以外の霊長類を撃つなんて、う〜ん、何年ぶりだっけなぁ」
え?いま、ニホンザル以外の霊長類って言ったよね?何年ぶりって言ったよね?このヒットマン。
ヒットマンが温泉街をさまようグンマー、ひと時も油断すべきでなかった……。
あぁ、僕の人生も短かったなー。しかもバッドエンド。
さっきのおっぱいの温もりを除いて。
「正蔵さん!違うの、さっきの鈴はクマだと思って驚いて……」
彼女はこちらに向けて大きく声を張り上げて言った。
「うなぁあ、耳が遠くて聞こえんなぁ〜?なんか言ったかい?」
このくそじじい!ってか今、「正蔵」って言った?ってことは……。
「正蔵じいちゃん……なのか?なら話が早いや!」
「じいちゃん!オレだよオレ!孫っ、まご〜!」
そう言って首を回して振りかえろうとした所で、
「ガ、ガッ」
首が回せないほど、さらに強くその鉄砲を押し付けられた。
「オレオレ詐欺なんかに騙されるかっ!」
後頭部にじいちゃんの冷たい唾と罵声がふりかかった。え?まじ?
そうだよね〜、詐欺には気をつけたほうがいいよね〜。でも、今思い出さなくてもいいんじゃないかなそれっ。
どうやら火に油を注いでしまったみたいだ。
……とてもまずくないでしょうかこれは。
「たしかに今日は、俺のかわい〜い孫が、職を失い今流行りの「に〜と」になった孫が来る日だが、おめぇさんのような破廉恥な罪をおかすやつとは違うわぁっ!」
ニートじゃないし、破廉恥な罪は……ちょっと、犯したか。ごめんなさい。
「死ねっ!!」
後頭部の圧が微妙に強くなるのを察知するかしないかのタイミングで、不動マコトの安全装置が自動作動し、頭を右に逸らした。瞬間っ
「ドォッ、バッキューン!!」
まぁなんということでしょう。
浴槽の岩壁から硝煙が上がり、さっきまで2人では少し手狭だった露天風呂が、少し大浴場に。劇的ビフォーアフター。
立ち上がる硝煙の匂いが頭をツンとついたところで、意識の糸がプツンと切れた。
天然露天風呂の横の渓流も、タオルがはだけながら僕に駆けつける黒髪ロングの彼女も、すべてスローモーションで再生されてく。そして、僕の視界は再び下へと沈んでいく。
「あぁ、悲劇的呪泉郷……」