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食する

作者: 伊月煌

陰陽師の名家、芦屋あしや家の別邸は帝都の中心部から少し離れた山の麓に在る。

大きくはないが、立派な屋敷であり、其処は芦屋家の次男、きょうが住まいとして使っている。

「これ、起きんか。杏!」

―――――小さな鬼と一緒に。


紫苑

―壱― 


障子の隙間から朝日が漏れる。

杏は布団から出てくる気配を見せなかった。彼は朝が弱いのである。

「杏!!」

凛とした、少女の声が部屋に響いた。

白い髪に左に二つ、右に一つの角。目には布を巻いている。

「これ、起きんか。杏!」

「ん……、」

杏は布団の中で小さくなった。

少女ははあ、と溜息を漏らしてから、彼の掛布団を勢いよく引き剥がした。布をしていても周囲は見えるのだろう。何の支障もなく動いている。

「っ……さみい、」

「当たり前じゃ。何月だと思っておる。」

くすくすと笑いながら少女は剥がした掛布団を畳む。

時は霜月。雪は降らずとも朝晩の冷え込みは少しずつ厳しくなっている。

「起きろ、杏。妾は何時からお主の母親になったのだ?」

「っ……るせ、」

寒さに我慢出来なかったのか、杏はゆっくりと体を起こした。

「ふぁ……」

「寝坊助。朝餉の支度が出来ておる。さっさと顔を洗ってこい。」

少女は畳んだ掛布団を敷布団の上に乗せて、立ち上がった。

「今日はお主の大好きな油揚げの味噌汁じゃ。」

少女はにやりと笑って障子を開いた。

少女の白い髪が陽の光を含んできらきらと輝く。

「……、彩貴さいき

杏が少女の名を呼んだ。

少女が勢いよく彼の方を振り返った。

「お早う、彩貴。」

杏がそう云うと、少女が嬉しそうに笑った。

「お早う!杏!」


***


彩貴は人間ではない。

杏が拾ってきた、鬼である。

訳あって杏が彼を引き取って、一緒に生活している。

其れは奇妙で、誰にも知られてはいけない共同生活だった。

「ほれ、早く食べろ。冷めてしまうぞ?」

居間に用意された膳は一つだけだった。

白米、油揚げの入った味噌汁、焼いた鮭の切り身、お新香。

極有り触れた朝食。

用意したのは彩貴だ。

「…いただきます。」

一つだけの膳を食するのは杏だ。彩貴は今日の向かい側で座っている。

「美味い。」

杏はそう云ったきり黙々と箸を進めた。

「当たり前じゃ。妾が作ったのだからな。」

彩貴は笑みを浮かべたまま座ったまま杏を見ている。

鬼は人間の食事を口にしない。

彩貴も例外ではないのだ。彩貴の分の膳は必要ない。

彩貴はこうして自分は食さない食事を作っているのだ。

「ご馳走様。美味かった。」

杏は食べ終えると手を合わせてから、脇に置いていた白の詰襟を手にした。

「………彩貴。今日は子の刻にしか討伐に行かない。」

杏は少し間を置いてから唐突に告げた。表情は変わらないように見える。

「ふむ…そうか。良い、良い。おとなしく待っておろうぞ。」

彩貴の表情も変わらない。笑みを浮かべたままひらひらと手を振る。

杏の言葉の意味を、彩貴は理解していた。

「……すまない。」

杏が口にしたのは謝罪の意だった。

「杏。」

彩貴が杏の名を呼ぶ。

「お主が謝るようなことではない。妾は大事ない。」

其の声はまるで彼を慈しむような色を纏っている。

「討伐は今日もお主は一人なのじゃろう?」

「…ああ、」

杏の声が少しだけ硬くなった。

「良い、良い。それならば、妾はお主と共に行けるからなあ。」

ふふふ、と彩貴は笑った。

「……そう、か。」

「きちんと迎えに来てくれるのじゃろう?」

「ああ。」

杏は彩貴の問いかけに間髪を入れずに答えると、手にした詰襟に袖を通した。

「…行ってくる。」

「気を付けて、な。」

彩貴の声に杏は首を縦に振った。


***


芦屋杏の仕事は鬼の討伐である。

帝都軍特殊部隊『夜叉』に所属している。

帝都軍特殊部隊『夜叉』は、帝都に跋扈している鬼の討伐の任務にしている。

鬼とは江戸時代中期から嘗ての京、今の帝都にしか出現しない魔物のことだ。

『夜叉』は陰陽術を使って、鬼を祓う。『夜叉』に選ばれる人間は陰陽術に秀でた者たちばかりだ。

―――――杏を除いては。

芦屋杏は、陰陽師の名家芦屋家の出身だが、陰陽術が使えない。そのため、使っている武器に陰陽術の札を貼り付けて鬼の討伐に向かうのだ。

「また来てるのか、杏ちゃん。」

「来なくても一緒なのになあ。」

すれ違うたびにそんなことを云われる。

杏は表情を変えず、そのまま執務室へ向かった。

『夜叉』の隊員の執務室は一人に一部屋ずつ用意されている。

杏は部屋に入るとふう、と息を吐いた。

隊舎は息が詰まる。

自分への嫌味や軽蔑は、今に始まったことではない。

陰陽術が使えないことは事実だし、其れが此の組織において不利に働くことも重々解っている。

其れでも、剣術や体術の才を買われて杏は『夜叉』に入隊できたのだ。

入隊の経緯と、彼の無愛想な性格が周囲の陰口を助長している。

周囲が陰口なぞ姑息なやり方で杏を罵倒しているのは、彼らが杏に業務実績で勝ったことが一度として無いからである。

杏自身は自分の実力を、其れが招く結果を驕ったことなど一度たりとも無いのだが。

杏は執務室の机上に視線を向けて、再び吐息を漏らした。

其処には膨大な量の書類が置かれている。

山の一番上に坐す紙には、付箋が貼られていた。

【杏がやった方が早いから、頼むわ。 陽】

付箋の字面を見て、杏は再び息を漏らした。

「あいつ……」

幼馴染みであり、自分の直属の上司であり、この建物に勤める人間で唯一親交のある男のだらしのない笑みを思い浮かべて杏はほんの少し腹が立った。

が、其の男が云ってることは間違っていない。彼が書類整理を済ませた方が所要時間は二分の一で済む。

良いよう使いやがってと思わないこともないが、其れと同じくらいには恩義も感じているので、杏は黙って書類を片付けているのだ。

此の書類整理が無ければ、先程すれ違った隊員の嫌味の通り、杏が此処に来る理由はない。

彼は他の隊員と違い、軍隊特有の規律に縛られることなく単独で任務を遂行しているからだ。

それでも杏は毎日隊舎に来ている。

自分の上司への恩義に報いたい、というわけでは無い。

彩貴との、約束があるからだ。

彼女と交わしたとある約束が彼の歩をこの忌々しい形だけの洋館へと向かわせているのだ。

『良い、良い。大人しく待っておろうぞ。』

今朝の彼女のニヒルな笑みを思い出して、杏は3度目の溜息を溢した。

「……嘘つけ。」

本当は、腹が減って仕方がない癖に。

杏の呟きは部屋の中で、誰に聞かれることもなく消え去っていった。


***



子の刻。

帝都の街は不気味なほどに静まり返っていた。

日を跨ぐ時分は、鬼が出るからだ。街が眠るのは年月を経る度に早くなっていく。それだけ鬼が街を闊歩しているということを示している。

杏はそんな静かな街の外れをふらふらと歩いていた。彩貴と一緒に。

「ふむ、今日は此方に来ると踏んでいたのだが…期待外れだったかのう。」

彼女の声は朝と何ら変わらない色だった。されど、杏にとっては違く聞こえる。

まるでこれから欲しかった玩具を買ってもらえるような子供のような。どこか愉し気なものに聞こえた。

其れもそうか。ずっと”おあずけ”を一日食らっていたのだから。

杏が思案していると。

対岸に巨体の影が見えた。

「……そうでもなかったな、彩貴。」

「そのようだなあ。」

嬉しそうに彩貴が同意した。杏は腰に差している刀の柄に手を掛けた。

「今日も、やらせてはくれぬのか?」

様子を見ていた彩貴がつまらなそうに杏に言った。

「…俺の、仕事だ。」

杏はそれだけ口にしてから、地面を勢いよく蹴った。

そして、次の瞬間には。

対岸の影の目の前に姿を映していた。

「き、貴様っ……白襟っ…」

がしゅ、という音がしたかと思えば、刀が鞘に収まる音が間髪無く聞こえた。

そして、杏の足元には影の頭がごとり、と落ちている。

頭の無くなった体がゆっくりと傾いて、頭の脇にどすん、という音と共に倒れた。

「相変わらず、仕事が早いのお。」

この凄惨な状況に似合わない、間延びした声が聞こえる。

「見事なものじゃ。流石だなあ。杏。」

彩貴は、転がっている頭を見下ろしている。

「ふう、やっと―――――食事にありつけるのう。」

鬼は人間の食事を口にしない。

普通の鬼の食事はーーーー人間の肉である。

帝都の街の鎮まる時分が早いのも、『夜叉』のような特殊な軍隊が存在するのも、嘗ての京が帝都として陰陽師に政を任せ、都市国家を構築しているのも、全ては鬼に捕食されるのを防ぐためなのだ。

然し。

彩貴は、”普通の鬼”とは違う。

「…いつまで其処に突っ立っておるのだ、杏。」

彩貴が杏に不機嫌そうに物申した。

「あ…すまない。」

杏はそう言うと、元来た道の方角に足を進めた。

後ろを振り向くことなく、足早に家路に着く。

背後から聞こえる、液体を吸い上げるような音を、無視して。

彩貴の食事はーーーーー鬼の肉である。

彩貴は杏の単独討伐任務に同行しては、彼が倒した鬼の肉を腹の中に収めるのだ。

彩貴が杏の任務に同行するようになってからは食事の様を、杏は一度たりとも見たことがない。

彩貴が食事をしている間、杏は一足先に帰路につくのだ。

彼女と出会ってから、もうすぐ一年になるが最早これは日課と化している。

「いかれているな…。」

毎日刀を抜いて、肉を断つ感触を味わっても尚、平然としていられる自分も。

陰陽術を駆使して大量に鬼を殺すことを生業としている自分の職場も。

其れを是として英雄と称えるこの街も。

毎夜楽しそうに同族を探す彼女も。

「なにもかもが、いかれている。」

杏は低く、小さく呟いた。


此れは、そんないかれた世界でしか生きることを許されなかった男女の物語である。


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