ワンワンワンちゃんのこと
まだ小学校に上がる前、「ワンワンワンちゃん」というおもちゃが好きだった。
鳴き声をあげながら床の上を歩く、おもちゃの犬だ。
今となっては商品名も分からないが、両親の安直な名づけにより「ワンワンワンちゃん」と呼ばれていた。
あるとき、そのワンワンワンちゃんがいなくなった。
私は母にその行方をたずねた。「ワンワンワンちゃんはお散歩に行ったんだよ」、と母は言った。
ワンワンワンちゃんは夜になっても帰ってこなかった。
幼心にも悲しかった。父にも同じことをたずねると、父も同じふうに答えた。
ちょうど季節は春だった。
私はスケッチブックを広げ、クレヨンで花畑を描いた。
色とりどりの花で白いページを埋めつくしたあと、その真ん中にワンワンワンちゃんの姿を描いた。
ワンワンワンちゃんは、温かな春の陽ざしの中、楽しいところへ行ったのだ。
むしょうに悲しかった。けれど、よく描けたとも思った。
母に見せた。母がどんな顔をしていたのかは、覚えていない。
おそらくワンワンワンちゃんは壊れてしまったのだと、そう察したのは、ずいぶん後になってからだ。私の知らないうちに、ワンワンワンちゃんは捨てられてしまったのだろう。
それでもなお、いま大人の私は空想する。実家の薄暗い玄関から、明るい春の陽の下へと進み出ていったワンワンワンちゃんの姿を。
きっとワンワンワンちゃんは、嬉しかったに違いない。楽しかったに違いない。
そう信じるほうが、心救われる気がするからだ。