(5)先生の呼び出し
その朝、私の元に届けられた通知を見て、私は驚愕せざるを得なかった。いや、私だけでない学園中が驚愕したと言ってもこれは過言ではないだろう。
その通知にはこう記載されていた。アルバード・ホーキングをベルディナ研究所の研究員とする。簡素な文体で書かれたそれを何度見直しても記載されている文字が変わることはない。
どうやら、私は、サムに大儲けを呼び込んでしまったようだ。
食堂に朝食を取りに来た私は、何とも言えない視線を感じ、サムからは抱きつかれた。
いったいどんなトリックを使ったのかと、そこにいる者達全員から聞かれたことに私は素直に答えることにした。私が試験で行ったことを聞いてサムを始め、騒ぎの見物に来たエダ、そのほかクラスでは比較的仲の良い友人までもが目を丸くしていた。
なるほど、この表情を見られただけでもやった甲斐があったというものか。
私は居心地が悪くなる前に朝食を済ませ、一人食堂を後にした。私にはすることがあった。通知書に添付されていたベルディナ先生からの手紙によると、朝食後速やかに彼の研究所に出頭せよとのことだった。
特に時間が指定されていたわけではないが、朝食後速やかにといわれてしまえばとにかく急いだ方が良いだろうと思い、食後の談笑をキャンセルして先生の研究所に向かった。
今日は重要な講義が2つほど入っている。どちらも午後からのものだったが、これを落とせば幾ら所属試験に合格したとしてもその努力……といってもさほどの努力はしていないが……が水泡に帰す事になる。
長い話にならなければよいが、と私は考えつつ先生の研究室のドアを叩いた。
入れ、という声にこたえ私は、失礼しますと一言だけ言って中に足を踏み入れた。
ベルディナ先生は、そこにいた。研究室の隅のソファに腰を下ろし、側の本棚の本を読んでいた。その本は私が知らないものだったが、その題名から何が書かれているかは予想がついた。
先生は本から目を上げると、私の姿を確認し、早かったなと言って本を閉じた。
私たちはひとまず朝の挨拶を交わし、先生は私を引き連れて、試験を行った部屋とは別の部屋に私を通した。
そこは、どうやら先生の執務室のようで、引き出しの多い机にも入りきらないのか、その上には大量の資料や書類が置かれてある机がその中央に鎮座していた。
先生は、簡素な椅子を私に差し出し、自分は机に備え付けられた椅子に腰を下ろした。
先生の脇に座る私に、先生は呼び立てて済まんなと一言詫びた。
何でも、本来なら来週に行うはずだったことが急な用事が出来、明日から魔法都市を出なければならないという事だったらしい。
私は一式の書類を手渡されると、来週までに事務に提出するようにいわれた。その書類にざっと目を通したところ、それは研究室配属に関する同意書と、先生が行っている研究の概要、私が担当する研究の題目とその概要が簡潔に記されたものだった。
同意書には注意書きが添付されていたので、記載には特に問題はなさそうだった。
それにしても、と私はその部屋を見回した。
導師の執務室に立ち入るのはこれが初めてだったが、他の導師もこの部屋と同じような感じなのかと私はすこし首をひねってしまった。
なるほど、確かに先生の座る机は研究や学会、導師会の議事録を始め研究費の目録やそれに関する資料に埋もれていたが、少し視線を外すと、部屋の隅には立派なワインセラーが置かれているのが目に入る。
ワインについてはそれほど詳しくない私だが、そのラベルに記されているのはどれもこれもシリングバード産のものでそのビンテージも古いものばかりだった。
ひょっとすれば、これ一つで私の学費の一年分にはなるのではないかと思う。
その視線に気がついた先生は、あれは自分の趣味だと告白した。
聞くところによると、先生はシリングバードのワインの熱狂的なファンと言うらしく、どんなに忙しい時でも一年に一度開かれるその国のワイン品評会には必ず出席するという。
欲しければ一本ぐらいはやるぞという先生の言葉に甘えて、私は極力安そうな、値札など記されていないため選ぶにはかなり苦労したが、ワインを手に取るとそれをもらうことにした。
なかなか目が良いな。と笑う先生に私はとんでもなく良いものを選んでしまったのではないかと冷や冷やした。
持ち運びには少し気を遣ったが、せっかくもらったものだいつか時間を見つけてサムとエダを呼んでやるとしよう。
研究所を出て、中庭の大時計を見た私は、思ったより長い時間先生と話をしていたのだなと気がつく。昼食時にはまだ早いが、午前の講義が終わりそうな頃合いだ。あと少し時間が経過すれば、食堂は講義終わりの学生に埋め尽くされることだろうから、私は早めの昼食を取ることとした。
そうでなければ、へたをすれば午後の講義まで時間の余裕が無くなってしまいそうだったからだ。
私は急いで道を行くと、部屋の隅にワインを隠しそのまま寮の食堂へと足を運ぼうとした。たしか、書類の提出期限は来週までだったはずだ。おそらく、講義が終わるまでここに戻ってくることはなさそうだと考えた私は、とりあえず書類一式の入った封筒を手に取ると、他の授業用具の間にそれを挟み込み部屋を後にした。
私の思惑通り、食堂の人並みはまばらだった。サムもエダもまだ講義から帰ってきていないようだった。私と同じ講義を取っているものもちらほらと見受けられたところ、皆考えることは同じだと感じた。
基本的にこの寮の食事代は、寮の滞在費に含まれているため、全寮制であるこの学園においては生徒に対しては無料で食事が振る舞われている。しかし、休日は閉鎖されている。よって、休日はどうしても街まで下りて食事を取る必要があるのだが、その日の調理場は立ち入り自由とされている事から自分で料理を作るものもいる。
エダは、意外なことに料理が大変得意だ。彼女の気が向いた時、私が彼女の機嫌を損ねていない時には私もそれにあやかることが出来る。
そろそろ学年末であることから最近はお呼びがかからないが、近いうちにまたごちそうになりたいものだ。
この食堂の料理が不満というわけではないが、毎日変わり映えのないものばかり口にしているとさすがに飽きがくる。料理長も何かと気にかけて、日替わりメニューを用意してくれているが、それでも同じ人間が作る料理というのはどこか味わいに共通するところがあるようにおもえる。
聞いたところによると、今の料理長もそろそろ引退を考えているらしく、後任の料理人がようやく決まりそうだとエダがいっていた。情報通の彼女のいうことには、今学期が最後の任期だというらしい。
私は飽きたとはいえ、この料理長の料理は嫌いではなかった。次来る料理人がどれほどの腕なのかは知らないが、この料理を味わうことが出来なくなるのは少し寂しい。
馬鹿騒ぎが好きなサムに言って、料理長の送別会など開いてみるのも悪くはないかも知れないなと、私はスパイスのきいたグラジオン王国風の料理を口に運びながらそう考えていた。
料理を食べ終わり、暫く珈琲などを飲んで時間を潰していたが、そろそろ講義終わりの学生が多くなってきたようだ。私は、そのあたりで見切りをつけると、席を探してうろうろしていた一人の学生に席を譲り食堂を後にした。
講義までもう少しだけ時間があるが、サムもエダも見つけられないことから、少し早めに講義室には行って書類を書き始めようと考えた。
さすがに丘まで行くだけの時間がないのが残念だ。風も緩やかな晴天のこの日は、昼寝日和としては絶好なロケーションであるのが惜しい。
出来れば、週末までこの天気が続いてくれると嬉しいのだが、天気の変わりやすいこの時期では期待が外されそうにも思える。
寮の少し向こう側に建てられた校舎には、まだ幾らか人が残っているようだったが、殆どのものは昼食に出ているようで、その中庭にも自前の弁当に舌鼓をうつものも多かった。
ふむ、確かにこんな日は外で食事をするのもなかなか悪くなさそうだ。今度、街で何かを買ってきて試してみようか。面白いこと好きなサムとエダなら喜んで載ってきてくれそうな気がする。
入り口近くの水飲み場で少し咽を潤し、私は校舎を出て行く学生とすれ違いながら講義室に向かった。