(2)私だけの秘密
卒業研究の課題をもう決めたかと友人のサムとエダに聞かれたのは、丘の上に居た少女はいったい何者なのだろうかと考えていた時だった。
卒業過程。卒業を一年後に控えた私たちにとってその課題は非常にホットなもので、見れば周りでも食事を取りながら談笑している学生の話題の多くがそのことに関するものだった。
基本修学過程を終えた学生は、最後の一年を使って卒業までに何らかの課題をこなし論文を提出しなければならない。そのためには、ギルドに所属する現役の導師の研究室に一年間の限定の研究生として配属され、その導師が与える課題を研究しなければならないのだ。
故に、どの研究室がいいか。自分がしたい研究は何処で行われているか。どの研究室が楽で導師の評判がよいか。等々、話題に尽きることはない。
先日講堂で行われた各研究室の説明会に参加したが、これと言って私の興味を引くものはなかった。いや、ただ一人だけいた。その方は何で自分がこんなことをしなければならないのかという表情を隠すことなく、非常に面倒くさそうな口調で研究室の説明や自分が何を研究しているか、今年はどのような課題に取り組んでもらう予定かを説明していた。
私は、彼を見た時何故か彼とは気が合うのではないかと直感し、あの者の研究室に希望を出そうかと考えるようになった。
ベルディナ・アーク・ブルーネス。
その名を出した時、友人達の目が驚愕に剥かれたことは良く記憶している。それほど優等生ではない私にはギルドの動向を調べる余裕などなく、今では恥ずかしいことだがその人物がいったい何者なのか分からなかったのだ。
友人達は呆れて私に説明してくれた。
導師ベルディナは、ルーヴァン・ヘウンリーク大師父と共に現在のギルドを再建した偉大な大導師であり、その威光は世界に響き渡る。
それを聞かされては流石に驚愕せざるを得なかった。しかし、既に希望調査を提出してしまったために後には引けなかった。
ベルディナ大導師のラボの定員枠は僅か一名。情報通のサムの話によると、クラス一番の優等生であるカリスと隣クラスのユート、ゲベアに学年トップの成績保持者であるカラビもベルディナ大導師のラボに希望を出したとのことだった。
サムの口から出た名前はそれだけだったが、エダの情報によると私を含め15名ほどが名乗りを上げているらしい。私を除くと全員が成績優秀者か、何らかの表彰を受けた者ばかりで、ハッキリ言うと私は笑いのネタにしかならなかった。
研究の定員は学生の人数分用意されており、全員必ずどこかのラボに所属することとなるためあまりが出ることはない。しかし、人気のラボに人が集中することは避け得ないことであり、定員オーバーをしたラボは何らかの試験をするとのことらしい。
友人からの情報通り、ベルディナ大導師のラボは定員オーバーのため試験をすることとなった。
説明会より一週間後、つまり明日の昼、正午の第二の鐘が鳴るまでにベルディナ大導師のラボに集合し、課題はその時に告知しそのまま実施するとのことだった。
それにしても、先輩方の話によるとここ数十年ぐらいベルディナ大導師は弟子を取っておらず、卒業研究の研究生を受け入れるのも今年が初めてだったらしい。導師会で何があったのかは分からないが、このことは魔法都市の一大ニュースにもなっていた。
噂では誰が合格するかの賭が行われているらしく、現在の所一番人気はカラビ次点がカリスらしい。私の順位は・・・取り敢えず倍率は最高とだけ言っておこう。
サムからはお前が合格すれば1ソートで二年分の学費になるぜと励まされた。やれやれ…。まあ、サムの期待に応えて少しは健闘できればそれで良いか。
そんなこんなでなぜか有名になってしまった私は、人目を避けるためいつもの丘へと足を運んだ。
少女はそこにいた。初めてであったときと同じ、何処かを眺めてるようで何も瞳に移していない。見上げるのは空なのか、遙か彼方にそびえる天嶮ボルドーミサか。
私は彼女の側に腰を下ろした。出会ったときは逃げられてしまったが、今度ばかりは逃げる様子はない。というよりは、私という存在すら認識していないのではないか。
無遠慮にその横顔を眺める私の視線をまるで無視して、ひたすら遠くを眺めるばかり。
何が楽しいのか。私はそう聞いてみたかったが、今の状態で声をかけるのははばかれた。ならばどうするか。彼女の方から声をかけることは無いだろう。そもそもこの少女は言葉を発することが出来ないのかもしれない。
良い天気だ。つい最近まで吹き荒れていた冬の木枯らしはその後しばらく続いた春来の雨になりを潜め、昼下がりの今になっては穏やかな陽気に目蓋が落ちそうになる。
ならば、いっそのこと寝てしまうか。
私は毛布よりも柔らかい若草のベッドに横になり、陽光の布団を羽織った。
今日の授業は昼までで終わり、明日は終日休講で午後から試験がある。寮に戻ったところで好奇の視線に晒されることはわかりきっていたから夕食までここで横になっていればいいだろう。
そんなことをつらつらと思い描きながら私はつかの間のまどろみの中へと身を沈めた。
目を開くと既に西から強い陽光が差し込む頃だった。オレンジに染まる自分の身体を眺めながら、なぜか私はまばゆさに目をしかめる必要のないことに気がついていた。
私の頭の部分だけがなぜか小柄な影に包まれている。
はて、こんな所に何か日除けになりそうなものなどあっただろうか。見上げると逆光の中黒くたたずむそれが、まるで私の表情を覗き込むように首をかしげていた。
私は少しうれしくなり、自然に口元がゆるむ。まるで私などに興味はないと思っていた彼女がこうして私のために日除けになってくれていたことに感動さえ覚えた。
無表情に私の表情を覗き込む少女の頬に自然と私は手を伸ばした。
逃げる様子はない。私は少女の頬に手を置いた。
彼女は少し驚いた様子でその手を見下ろすが、拒絶することはなかった。
なめらかな肌だ。まるで陶器人形のような透き通った肌の色に違わず、しっとりとした肌触りの彼女の頬は極上の果実すらも凌駕する。
私は手を離すと、ゆっくりと身体を起こし、少し凝り固まった首や肩を回しあくびを一つついた。
彼女は立ち上がった。おそらく、私が起きるまでここにいることを決めていたのか。私の仕草をちらっと一度だけ見るとそのまま森の奥へと歩いていった。
彼女は一体どこに住んでいるのだろうか。初めてであった次の日、私は彼女の素性が知りたくて寮を回ってみた。流石に女子寮に立ち入ることは出来なかったが、エダの話によると彼女のような少女は見たことがないという。
彼女の小柄さから考えると、確かに学園に在学している可能性は低い。ならば、孤児院か託児所か。しかし、学生身分である私にはそれ以上のことは調べることは出来なかった。
少女は一体何者なのか。いつか彼女の口からそれが聞けるときは来るのだろうか。それ以来、私は彼女のことは誰にも話していない。私だけの秘密とすることにした。