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真神奇譚

作者: 四国三郎

「旦那、小四郎の旦那、この坂を登りきれば秩父の里が見えますよ」

けもの道ともつかない所々雪の残る藪の中を月明かりに照らされた大きな影と小さな影がゆっくりと登って行く。

「やっとここまで来やしたね。長かったですね」

「眩次、お前にも苦労を掛けるな」

峠を登ると秩父の街明かりが遠くに瞬いて見えた。冬空に低くかかる満月に照らされ、あたりに残る雪がうかびあがり荒涼としたなかにもしばし歩を止めるほどの美しさであった。

 「阿波の国を旅立ってから二年、ようやく旦那が夢にまで見た目的の地にたどり着きやしたね」

 「相変わらずよく喋るやつだ。お前は食べるか、寝てるか、喋るしかないな。もっとこう何かじっくりと腰を据えて考えることは無いのか」

 「あっしは昔からこうですからね。旦那もよくご存じでしょう。喋らない奴は何を考えているのかわからないでしょう。この方が万事うまくいくんでさぁ。しかし今まで行ったところではことごとく空振りでしたが、今度こそは旦那のお仲間に出会えると良いですね」

 「新聞では写真入りで数年前に出会ったという記事が出ていたし、何と言ってもここでは我々は大事にされてきたからな。必ず居るはずだ」

 「そうだと良いですね。この旅にも随分と疲れてきやしたからね。そろそろ終わりにして腰を落ち着けたい気分でやす」

 峠道を下り里に近づいてきたころには東の空が薄っすらと白みかけてきた。その中を遠く早起きの烏が一声鳴いて飛び去って行った。

 「旦那そろそろ夜が明けます。近くで休めるところを探してきますんでしばらく待っていておくんなさい」そう言い残すと小さな影はサッと朝日の方角を目指して走り去った。

 辺りが明るくなってきたころこちらに向かって一目散に駆けてくる姿が見えた。

 「あいつはなんでいつもあんなに嬉しそうな顔をしているのかね。それほど私に義理があるとも思えないのだが。全く面白いやつだよ」

 「少し行った先に小さな社がありましたので今日はそこで休みやしょう。近くに家も無いので隠れ家にするには手ごろですよ」息を切らせながら嬉しそうに報告するのだった。

 「それから食料も調達してきやした」

 「また供え物をちょろまかして来たな」

 「そう言われると元も子も無いじゃないですか。この冬場で知らない土地なんですから」

 「すまんすまん。ありがたく頂戴するとしよう」

 社は少し道から逸れ集落からも離れた山際の目立たない場所に建っていた。細い参道を進むと傾いた小さな鳥居がありその奥に社殿が建っている。めったに参拝する人も居ないらしく境内は荒れ放題で参道の敷石も半分枯草に埋もれていた。

 蜘蛛の巣を払って社殿に上がり扉を開けると嫌な音がして中に月明かりが差し込んだ。社殿の内部は外から見るよりも広く床に埃が溜まってはいたが雨風を凌ぐには十分だった。

 「いかがです旦那。なかなか良いところでしょう。しばらく厄介になりやしょう」

 「とにかく疲れた。一休みさせてくれ」

 「あっしは水場を探してきますから旦那はゆっくり休んでいてくだせえ」

 小さな影はそう言い残すとさっと扉から出て行った。

「いつもすまんな」と言い終わらぬうちに姿は消えていた。

 しばらくするとはたまた息せき切ってどこで拾ったか一升瓶を背負って駆け戻ってきた。

 「旦那、水はすぐそこに小川が流れてますんで不自由しませんや。失礼して一口頂きやす」眩次は一升瓶をラッパ飲みすると満足そうに大きく息を吐いた。

 「せっかく汲んできた水を早速飲むやつがあるか。水場で飲んでこなかったのか」小四郎は呆れた顔でため息をついた。

 「そりゃそうですね。面目ない。また行ってきやす」

 「待て待て、次で良いから少し落ち着け」小四郎は無理やり眩次を座らせた。

 「そうだ、旦那、この社の鳥居をよく見たら三峰神社と書いてありやしたよ」

 「三峰と言えば我々の仲間と縁の深い神社だと聞いたことがある。ここはその末社なのだな。何か手がかりになる物があるやもしれん。ひと寝入りする前に探してみよう」

 「ところで旦那、手がかりになる物ってどんなものです」

 「そりゃお前、手がかりは手がかりだよ。そんなことくらい自分で考えろ」

  しばらくの間手分けして社の周りや中を探しては見たもののそれらしき物は見当たらなかった。

 「旦那、それらしきものは何もありやせんね」

 「まあいい、そんなに簡単に手がかりが見つかるはずもない。明日からは山の中を歩き回らねばならんからな。今日は休むとしよう」

 小四郎と眩次は長旅の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。


 陽が山の端にかかろうとする頃、小四郎は何かの気配を感じて目を覚ました。白い影が格子戸の陰からこちらを伺っているようだ。

 「おい、眩次、おい起きろ」小四郎は眩次を軽く小突いた。

 「どうしやした」起き上がろうとする眩次を制して、小四郎は耳元で囁いた。

 「寝たふりをしていろ。外から誰かこちらを伺っている。殺気は感じないが恐ろしく気配を消すのが巧みな奴だ。正体がわからんがお前の得意技でひとつ脅かしてやれ。尻尾を出すかも知れん」

 「良いんですかい」眩次はゆっくり起き上がり手で奇妙な印を結んだかと思うと「はっ」と気合を入れた。

 表で「きゃ」と言う声がするのと同時に小四郎が扉を蹴って飛び出した。

 「なんだ猫ではないか。どうりで気配を消すのがうまい訳だ」

 白猫はさっと身を翻して間合いを取った。

 「なんだとは失礼ね。そっちこそただの図体のでかい犬のくせに。ほらお座りしてお手でもしてごらん」

 「なんだともう一度言ってみろ。なんて無礼な女だ」

 「何度でも言ってやるよ。でかい犬と何か得体の知れない術を使う狸じゃないの。でも犬と狸って妙な取り合わせね」

 「馬鹿者、犬ではないわ。こいつは化け狸だがな。私はニホンオオカミだ」

 「何を言い出すかと思ったらニホンオオカミですって。そんなものが今時いるわけないじゃないの」お雪は呆れた顔で笑うのだった。

 「まあまあお二人とも」社の中で聞いていた眩次がおっとり刀で出てきた。

 「旦那、女の扱いはあっしにお任せくだせえ。ここんとこは下手に出るのが得策でやすよ。特に白猫は気難しいと言いやすから」と耳打ちするとお雪の方に向き直った。

 「姉さん、あっしは酒手の眩次と申しますケチな化け狸でやす。こちらはれきっとしたニホンオオカミの旦那で剣の小四郎とおっしゃいます。どうぞお見知りおきを。ところで姉さんはその貫録からするとさぞ名の通ったお方とお見受けしやすが」

 白猫は猫座りで居住まいを正し胸を張った「あたいは三峰のお雪さ。言っとくけどこの三峰神社はあたいの縄張りだよ」

 「そいつは御見それしやした。お雪さん、あっしら四国は阿波の山の中から旦那の仲間を探しにはるばるやってきたんですよ。しばらくここに置いてもらう訳にはいきやせんか」

 「そう下手に出られると断れないね。でもこの旦那は本当にオオカミなのかい」

 「わからんやつだ、本人がそうだと言っておるではないか」

 「オオカミはとっくの昔に居なくなったと聞いてるよ」

 「そう元も子もない話は止しましょうや。事実、こうして旦那はここに居るわけですから秩父の山中にも絶対いないとは言えないじゃないですか」

 「まあいいや、それで探すって言ってもなにか伝手はあるのかい」

 「知り合いが居るわけでもなし、手がかりと言えば古い新聞記事の切り抜きくらいですよ」

 「どれ、見せてごらん。」

眩次は脇の下から大事そうに包みを出すと中から新聞記事を出してお雪に渡した。

「出所が良くないね。」お雪は呆れた顔でぶつぶつ言いながら記事を開いた。

「ああこれかい、このニュースはこの辺りでもちょいと噂にはなったね。でもこの写真の犬だかオオカミだかに会ったと言うものは一人も居なかったよ。たぶん旅の途中で偶然写真に撮られたんだろうと言うことになって、その後は話にも上らなくなったね。この場所なら良く知ってるからいつでも案内してやるよ」

「旦那どうです、ここはひとつ姉さんのお言葉に甘えてみては」

 「うむ、白猫が気難しいと言うのは初めて聞いたがやはり女の扱いはおまえに任せた方が良さそうだな」

 「そうですか。そうとなりゃ早い方が良いですね。姉さん明晩にでもお願いしやす」

「分かったよ。それにしてもあんた達四国からずっと歩いてきたのかい」お雪は呆れ顔で聞いた。

「話せば長い道のりでした。姉さん良かったら聞いてもらえますか」

「あたしは気が短いからもたもたした話は嫌いだよ」お雪はそう言いながらも聞く気満々の様子で膝を乗り出した。

眩次は座りなおすと話し始めた。


あっしらが阿波は剣山の麓を旅立ったのはもう二年も前になりますか。まずは隣の土佐に行きやした。土佐にはオオカミの血を受け継いだ四国犬がいますのでこれに会って話を聞こうと思ったわけです。すぐ見つかると思っていたのが大間違いで一か月も山の中を彷徨いやしたよ。ようやく見つけたのは奈半利の虎と言う年のころは十歳くらいの中年男でした。自分の曾おじいさんはオオカミの血をひいていたと言ってましたが生まれてこの方オオカミに会ったことは無いと言ってやした。旦那の見立てでも虎にはオオカミの面影も匂いもしないとのことでやした。「そうでしたよね旦那」

「あれは残念ながらただの犬であったな。曾おじいさんがオオカミだったと言うのも信じられんかったな」

そんなことで早々に九州に向かおうとしたところで出会ったのが仁淀の河太郎と言うニホンカワウソでやす。

「色んなのが出てくるね、ニホンカワウソってまだ生きてるのかい。オオカミと同じでもういないんじゃないのかい」お雪は信じられないと言った顔をして小太郎の顔を見た。眩次は構わず話を続ける。

我々もカワウソに会ったのはその時が初めてでやした。なかなかの器量持ちで随分と世話になりやした。土地の古老に昔話を聞いてもらったり、遠吠えを聞いたことが無いか知り合いに聞いてくれたりと、そうですね二か月近く土佐の山奥を探し回りましたがついに手がかりは掴めやせんでした。河太郎さんは醒めた方でニホンカワウソはもう土佐以外には生き残っていないと言ってやしたよ。それでも、カワウソは綺麗な水辺が無いと生きられないが、オオカミは山があれば生きられるのだから希望を持てと言ってやした。

 「あれはカワウソにしておくにはもったいないくらい男気のあるやつだった」小太郎は目を閉じてしみじみと頷いた。河太郎さんにも仲間さがしにお誘いしやしたが、我々は静かに消えていくのだと言って聞いちゃくれやせんでした。もしどこかでニホンカワウソに会ったら便りを入れるからと約束し後ろ髪をひかれる思いで土佐を後にしやした。


次に向かったのは九州ですよ。九州でもニホンオオカミの生き残りと言う写真が新聞に出てやしたのでね。しかしどうやって九州まで行こうか思い悩みやした。船で行くか橋を渡るか。結局船の方が楽だが人間に見つかると逃げようがないと言うことで、遠回りですが橋を渡って行くことにしやした。橋たって田舎で見ていた橋とは大違いであまりの大きさに驚きやしたよ。まあ海を渡るのだから当たり前なんでしょうが田舎者には衝撃的でしたね。

我々はいつも夜移動しやす。昼間は目立ちますしね。瀬戸内海を渡る橋も道路を歩く訳にはいきませんから橋桁の下を伝って行きやした。目も眩むような高さと海を渡る強風で往生しやした。

 ようやく本土に渡り、本土から九州へは何とかいうトンネルで渡りやした。九州も四国に負けず劣らず山深い所で人目を避けるのにはさほど苦労はしません。それでも火を噴く山には驚きやしたね。あんな恐ろしいところには住めないですよ。四国は良いところだと思いやしたね。南に下って高千穂と言うところまできましたがお仲間の気配は全くありませんや。旦那も夜毎に遠吠えで呼びかけるんですが一向に反応はありやせんでした。

そんな時でした三日月のマルコと言うツキノワグマに会ったのは。

 「三日月のマルコ?ツキノワグマ?なんだか和風だか洋風だかわからない中途半端な名前だね」

 マルコさんはなんでもクリスチャンだそうで、マルコと言うのは洗礼名だそうでやす。

「さすがクリスチャンの本場だねクマまで洗礼を受けてるのかい、それは置いといて九州にクマが居るのかい。九州のクマは絶えて久しいと聞いてるよ」姉さんは妙なことに詳しいね。確かに九州にクマはほとんど居ませんが細々と生き残っているそうですよ。でも私達もマルコさん以外のクマには会いやせんでしたが。

ある夜霧島連山を歩いていると旦那が凄まじい殺気を感じて立ち止まりやした。あっしもなんとなく嫌な気配がしましたので茂みに身を潜めて辺りを伺っておりやした、すると谷の暗闇から今まで見たことも無いような大きなクマがぬっと現われやした。

しばらくにらみ合いが続きやしたが、旦那が一歩引いて間合いを取ったのが良かったのかマルコさんも落ち着いてきやした。なんでも、オオカミの遠吠えに聞こえたので来てみたが本当にオオカミにお目にかかれるとは思っていなかったらしくて驚いていやした。

こちらも名乗りを挙げて四国の山の中からはるばる旦那のお仲間を探しに来たことを話しやした。

マルコさんがいうにはオオカミの遠吠えを聞いたのはもう三十年もまえになるそうで、

知る限りもう九州にはオオカミはいないとのことでした。

 しかし、ここにきて人間たちが山からいなくなって森が復活してきていることあるので

万が一オオカミの情報でもあれば手紙をくれると言って下さいやした。

そうして我々は九州を後にしてまた元来た道を戻り紀州を目指しやした。


「おっと、もうこんな時間だこの続きはまたにしやしょう」

「そうね、あたいも縄張りの見回りをしないといけないからまた明日来るわ。あんた達みたいな得体の知れない連中がいるといけないからね」お雪はにやっと笑うと繁みに姿を消した。

「口のへらぬやつだ」

「まあ良いじゃないですか旦那、何も伝手が無いよりはましですよ」

翌日、陽が落ち辺りに夕闇が迫るころお雪さんが現れた。

「疲れは取れたかい。話の続きも聞きたいところだけど、今日はオオカミだって写真が撮られたところへ連れて行ってやるよ。少し遠いけど今から出れば今晩中に余裕で帰ってこられるよ」

「どうします旦那。ここはひとつ姉さんの仰せに従いましょうや」

「うむ、お雪殿すまぬがお願いする」

白猫を先頭に狸、オオカミの奇妙な三人連れは社を出ると人目に付かぬよう雑木林を抜けて小さな川が流れる沢に出ると山に向かって沢を登っていった。しばらくすると沢筋から外れ、森の中の山道とも言えないようなまさにけもの道を登って行った。

森を抜けると少し開けた場所に出た。すぐそこには林道のような狭い道がずっと続いていた。道端の雪が冬の月明かりに照らされて周囲を薄ぼんやりと浮かび上がらせている。

「この少し行った先が新聞に出てた写真の場所だよ」三人はお雪を先頭にゆっくりと歩いて行く。

ふと遠くの方で車の音が聞こえた。どうやらこちらに向かって来ているようだ。

「こんな時間に自動車とは珍しいね。私らは見られてもどうってことも無いけど旦那は見られると厄介だから隠れていておくんなさいよ」そう言うとお雪は小四郎を道端のやぶの中に押し込んだ。

自動車は目の前を通り過ぎて行くとお雪が写真の場所と言った辺りで止まり人が一人降りてきた。

その人物はしばらく道端の樹の辺りでごそごそしていたがやがて自動車に乗り走り去って行った。

「あれはたぶん新聞の写真を写した人間だよ。何回かここで見たことがあるのよ。ああやって来ては取り付けてあるカメラを確認して帰るのさ」

「カメラって人間が写真を撮るときに使うあれですか。でもシャッターは誰が押すんです」

「動くものが近づくと勝手に写すらしいよ。あんた達も特に旦那は映らないように気をつけな」

「へえー、人間てものはとんでもない物を作りやすね」

そう言いながら眩次はニヤニヤしながらカメラの前に出て行ったり来たりポーズを取って見たりしてカメラのシャッターを切った。山中にシャッターの音が静かに響いた。

「およしよロクなことにならないよ」お雪は眩次の尻尾を引っ張ったが、それを振り切って走り回っている。「狸が写ったところでどうもならないでしょうよ。面白いじゃないですか」

「そうじゃなくて、年寄なんかは写真に撮られると寿命が縮むって言ってるよ」

「え、そうなんですか。早く言って下さいよ」眩次は思わずカメラの前から飛び退いた。

やぶから這い出した小四郎は大きく身震いをすると辺りの匂いを嗅ぎだした。

「旦那どうしやした」小四郎は眩次の問いかけにも耳を貸さず匂いを嗅ぎ続けた。

「うーん、オオカミの匂いがする。本当に微かだが確かにする。それも少なくとも一週間以内のものだ」

「旦那本当ですか。自分の匂いじゃないんですかい」

「馬鹿者、自分の匂いと間違うか」

「それじゃ、匂いを辿って捜しましょうや」

「それがな、不思議なことに何処からきてどちらに行ったのか皆目見当がつかんのだ。この限られた場所でしかしないのだ」小四郎はそう言うとまた辺りを今度はいくらか遠くまで熱心に嗅ぎまわったが冴えない表情で戻ってきた。

「やはりだめだ。」そう言いながらも小四郎はあちらこちらを嗅ぎまわっている。

しばらく眩次も加わって探索を続けるものの匂いは途中で途切れてしまうのだった。

「さっきの車が帰って来たよ」お雪が一目散に林道を駆け下りてきた。

森の木々の間を車のヘッドライトが近づいてくるのが見えた。小四郎と眩次は近くの木の陰に身を隠した。車は何事もなく走り去って行った。

「旦那、今日はこれくらいにしておきましょうや。そろそろ退散しないと夜明けまでにねぐらに帰れませんよ。また日を改めて来やしょう」

「そうするか」小四郎は残念そうな顔をしながらも眩次の声に頷いた。

「そうと決まればさっさと帰るよ」しびれを切らしていたお雪は真っ先に山を下って行った。東の山の端が薄っすら白みはじめていた。


 「ところであんたの通り名、酒手の眩次の酒手って変わった名だけど何か云われでもおありかい」お雪は帰りの道すがら思い出したように気になっていた眩次の通り名の云われを聞いてみた。

「あっしの通り名ですかい。よくぞ聞いてくれやした」眩次はここぞとばかり喋り出した。

「また始まった。お雪さんや、あんた覚悟した方が良いぞ。この話が始まると一晩中でも止まらなくなるぞ」小四郎はうんざり顔で歩を早めた。

「旦那、良いじゃありやせんか。せっかく姉さんが聞いているんだから」

眩次は眼を輝かせながら語り始めた。 

「あっしは化けだぬきですがその中でも坂道だぬきと言う一族の出でやす。酒手の由来は今になってははっきりとは分かりませんが坂道と関係しているようです。ほら、昔の馬子や駕籠かきがせびるあれですよ。あっしらの一族は阿波の金長だぬきの眷属で常に金長の側近として活躍してきやした。酒手一族は金長だぬきと六右衛門だぬきとの合戦、姉さんは阿波の狸合戦はご存じですかね、その合戦にも何度となく加わった由緒ある家柄で敵の眼くらましをするのが役目でした。初めて姉さんに会ったときめまいがして社の濡れ縁からすべり落ちたでしょ。あれがあっしらの技です」

「そうかい世の中は広いね。阿波の狸合戦は聞いたことはあるけどさすがのあたいも化けだぬきの技までは知らないよ。でもこの平和な世の中じゃ狸合戦でもあるまいから腕の見せ所がなくてさびしい限りだね」

「よく言ってくれやした。まったくその通りでだいぶ腕も鈍ってきやした。姉さんは人間の車に乗ったことはありますかね。近頃じゃ車が信号待ちをしている時に下り坂を上り坂と錯覚させて人間を驚かすくらいが関の山でね、情けない限りでやすよ」

「そう悲観することも無いやね。また役に立つ時もあるんじゃないかね」

「そう言ってくれるのは姉さんだけだね。ありがとうございやす」

「お雪さん、こいつは甘やかすとひたすら付け上がるぞ」

「良いじゃありやせんか旦那。姉さんがああ言ってくれてるんですから。ついでにご先祖様の手柄話でもいたしやしょうか」

「酒手の由来も分かったし、それはまたの機会としようじゃないか。ほらもう社が見えて来たよ」

「そうですかい残念だな」眩次はいかにも残念そうにお雪の顔を見た。

「姉さんは強面のふりをしてますがその実は気立ての優しい人じゃない猫ですね」

「ちょっと優しくしたからって調子に乗るんじゃないよ」照れ隠しかお雪は板塀でひとしきり爪とぎをすると社裏の猫道を走り去って行った。


北風が表戸を鳴らし小四郎は早くに目が覚めていた。その隣で眩次は幸せそうに大口を開けて寝ていた。

「まったく風の音がこうもうるさいのに良く寝ていられるものだな」小四郎は眩次の幸せそうな寝顔を呆れた顔でながめていた。

突然表戸が開き寒風が吹き込んできた。お雪が戸の隙間から飛び込んできた。

「旦那、もうお目覚めでしたか」息を弾ませて大きく伸びをした。

「相変わらず呑気そうに寝てる狸もいるね」お雪の声が耳に入ったのか眩次も目を覚まして寝ぼけ眼で起き上がった。

「あれ、お雪さんこんな時間に珍しいですね」

「なに寝ぼけてんだよ。良い知らせを持って来たって言うのに」お雪は自慢の爪で眩次の尻尾を軽く引っ掻いた。

「痛てて、姉さんひどいじゃありやせんか大事な尻尾なのに」

「そんなに大事なら何処か人目の付かない所に仕舞っときな。それより耳寄りな話だよ」お雪は小四郎の方を振り返った。

「良い知らせですって。やっぱり果報は寝て待てとはよく言ったものでやすな」

「忘れてたんだけど実は隣の街外れに門爺っていう年寄の犬がいてなんでも昔のことに詳しいんだよ。もしかしたら旦那のお仲間の事も何か分かるかもしれないよ。どうだい一度行って話してみないかい」

「お雪さんやありがたい話だが、その犬は人に飼われているのかな」

「街外れの農家に飼われていて誰も本当の歳を知らないくらいの老犬さ。いつも門のところで寝てるので誰ともなしに門爺と呼んでるのさ」

「人に飼われておるのか。あまり期待できそうもないが折角だから行ってみるか」

「それじゃ善は急げだ明日にでも行ってみましょう」そう言い終わらないうちにお雪は身を翻して出て行った。

「旦那どうでしょうね」

「人に飼われている犬だからな。紀州の時のようにあまり期待は出来んな」


次の日の夜、二人はお雪の案内で門爺が住む街外れの農家に向かった。月も見えず辺りは真っ暗で遠くの山の麓にポツリと一つ明かりが見えた。

一本道をその明かりを目指して近づいて行くと大きな家が薄っすらと暗闇に浮かび上がってきた。昔は養蚕でもしていたと見え二階建ての立派な構えである。明かりは玄関の常夜灯のようで窓の明かりは消えていてシンと静まり返っていた。

「大勢で行くとなんだからあたいが先に行ってくるよ」お雪は素早く門のなかに走りこんで行った。

「門爺いるかい。あたいだよお雪だよ、起きてるかい」

一見犬小屋とは見えない大きな小屋からお雪の呼びかけに二呼吸位遅れてしわがれた声がした。

「お雪さんか随分と久しぶりだが今日は何用かね」

「本当に久しぶりね。元気だった」

「元気も何も、何時お迎えが来ても驚かんがまだしばらくは大丈夫そうじゃよ」

「今日はお客を連れて来たのよ。しかもとっても珍しい」

「このわしに客じゃと。かれこれ何年も客なぞ来た事も無いがな。しかし客だとなると出て行かにゃなるまい」ゆっくりと立ち上がる気配がして現した姿は年老いて痩せてはいたが小四郎にも劣らぬくらいの大きさで、のんびりした話し方とは裏腹に精悍な顔立ちと鋭い眼光の持ち主であった。身体の色は小四郎と同じ深みのある茶色で、小四郎のようなたてがみは無く、足先に白い足袋を履いているように見える以外は堂々たる姿である。

「じゃ、今連れてくるからね。」

お雪は門の外で待っている二人を呼び寄せた。

「何じゃ珍しいと言うから誰が来るのかと思えば狸ではないか」眩次を見た門爺はあきれ顔で言った。

「こらまたご挨拶ですな。あっしは狸は狸でも阿波は金長の眷属で酒手の眩次て化けだぬきでえ、おっとそんなことはどうでも良いや。爺さん客はこの方だぜ」眩次は一歩横へよけると振り返って門爺の視線を誘った。小四郎はゆっくりと二三歩前に出ると門爺の前に立った。

二人は無言のまま長い時間見つめあっていた。

眩次が何か取り繕うと口を開いた時、門爺が驚きともつかぬ声を上げた。

「おお、なんと言うことじゃ。生きている内に会えるとは思わなんだ。そなたオオカミではないか。間違いない本物のオオカミじゃ。しかもまだ若い」

唖然とするお雪と眩次を尻目に小四郎は落ち着き払って答えた。

「いかにも私はニホンオオカミ。名は剣の小四郎と申す。はるばる四国は阿波の山から仲間を探しに来ました。ご老体も一目で見分けるとはただの飼い犬ではありませんな。もしやオオカミの血を引いているのでは」

「さすがじゃな。わしの父親はオオカミじゃった。母親はこの里の近くに住んでいた飼い犬で父親は獲物を追って山から下りてきた時に母親と知り合ったそうだ。しかし父親はわしが生まれていくらも経たぬうちに姿を消した。」

「なるほど、道理でオオカミの匂いがするはずだ」

「小四郎さんが遠路訪ねてきたからにはわしも名乗らねばなるまいて」門爺の表情が引き締まったように見えた。

「わしは龍勢の五郎蔵と申す」

「龍勢の五郎蔵だって、随分と貫録のある名前だね門爺とは大違いだよ」お雪は呆れたような表情で五郎蔵の名を口の中で繰り返し言ってみた。

「この名は父親からもらったオオカミの名じゃ。もう何十年も口に出したことも無かった。小四郎さんが来なければ忘れてしまうところであったわ。この歳になって五郎蔵の名を口にしようとはな、わしにもまだツキが残っておったかの」

それまで黙って聞いていた眩次が口を開いた。

「五郎蔵さんあんたのことは良く分かったけど、肝心なことを教えてくださいよ。オオカミのお仲間はこの辺りにはいるんですかい」

「この界隈にオオカミなぞ居るはずはなかろう。わしももう何十年も会ってはおらん。少し前まではわしのような父親がオオカミで母親が犬の者もおったが、今生き残っておるのはわしだけになってしもうた」五郎蔵はさびしげなため息交じりの口調で言った。

「それはそうと小四郎さんはもう語らずの滝には行かれたかな」

「いや、まだこちらに来て二三日しか経っておらんし何より物見遊山の旅ではない。その語らずの滝に何かあるのですか」小四郎は不思議そうな顔で聞いた。

「いやなに大した意味は無い。それよりもうそろそろ夜明けじゃ。家の人間も起き出す時分じゃて今日のところは帰りなされ。人間に見つかると厄介じゃ」五郎蔵はあわてたようにそう言うとそそくさと小屋の中に戻ってしまった。

「旦那、五郎蔵さんの言うことももっともだ、そろそろ退散しやしょう。また来れば良いですから」

「うむ、仕方ないがそうするとしよう。人に飼われてきた犬の言うことなどこれ以上聞く価値があるとは思えんが、最後に言った滝の事は妙に気にかかるな」

社に戻る道すがら眩次も気になったのかお雪の方を振り返って聞いた。

「姉さん五郎蔵さんの言ってた語らずの滝て言うのはどこにあるんで。でも語らずの滝とは何となく意味ありげな名前でやすね」

「語らずの滝は、ほら、この前行った人間がオオカミの写真を撮ったところのすぐ近くだよ。あの滝に行った者はあそこで見たことや起きたことは一切喋ってはならないと言われているのさ」

「喋るとどうなるんでやす」眩次は興味津々な顔でお雪に聞いた。

「何でも喋った者は行方知れずになっちまうらしいよ」お雪はぶるっと身震いをした。

小四郎は不機嫌そうに足を速めた。

「もしかして旦那、紀州の事を思い出したんですかい」眩次が小四郎の顔色をうかがいながらひとり言のようにつぶやいた。小四郎は聞こえないのか聞こえぬふりをしているのか眩次のつぶやきには答えず歩を速めた。

「紀州で何かあったのかい」

「はあ、いや何も無かったからと言った方が良いかもしれやせん」


紀州は九州と違って明確な目的地がありました。ニホンオオカミ復活を夢見た人間がオオカミの特徴が強い野犬を集めてきて飼っているということでそこに行って見ることにしました。

簡単に見つかると思っていましたがその人間が引っ越していたりしてあちらこちらと振り回されました。挙句の果てその人間は一年も前に死んでしまっていやした。

これで紀州でのオオカミ探しも断念かと思いやしたが、その人の犬が一人だけ生き残っていてさらに山奥の家で飼われていることを耳にしやした。

一縷の望みを繋いでその犬に会いに行きやしたよ。ようやくの事会って旦那もあっしも驚きやした。かなりの歳でしたがあっしには旦那の姿と瓜二つに見えやした。がっしりした体格、大きな顎、高い鼻梁、巻かない尻尾どこをみてもニホンオオカミそのものでした。

旦那とその犬が話をしている間あっしは辺りを見廻っていましたがほんの数分もしないうちに旦那は肩を落として帰ってきやした。旦那が言うにはこれほど姿かたちが同じで匂いまでもオオカミのものなのに中身は全く飼い犬そのものだったそうで。

流れている血はニホンオオカミに違いないが人間から餌をもらって暮らすうちオオカミの誇りも気概も無くしたんだろうと旦那は心底落胆してやしたよ。旦那が言うには本当のオオカミなら人間に飼われていたとしてもそう簡単に誇りを失うことは無いと言ってやしたがね。

 「そうかい、そんなことがあったのかい」お雪が大きな溜息をつくと眩次もつられて溜息をついた。

「眩次よ話はその辺にしておけよ。いまでも思い出すと悲しくなるからな」小四郎は乾いた笑いを浮かべてお雪と眩次を振り返った。


次の日、小四郎と眩次はお雪に頼んで語らずの滝まで連れて行ってもらうことにしていた。

「姉さんは来やせんね。約束の時間は廻ってやすがね」眩次が外を見ながらぶつぶつ言っているとお雪が駆けて来るのが見えた。お雪は息を切らせながらお堂の扉をすり抜けて入ってきた。

「悪いね。ちょっと野暮用が出来ちまってね。少し休ませておくれよ」お雪は座り込むとひとしきり毛繕いをした。

「しっ、誰か外にいるぞ」小四郎はそう言いながら身構えた。眩次もお雪もほぼ同時にその気配に気が付いていた。お雪がそっと格子から外を覗くと一人の犬が辺りを嗅ぎ回っているのが見えた。月を覆っていた雲が一瞬途切れて辺りを照らした。

「門爺じゃないか。どうしたのこんなところまで」お雪の素っ頓狂な声がお堂の中に響いた。

「やはりここじゃったか。まだまだわしの鼻も捨てもんじゃなかろう。それともう名乗ったんだから門爺はやめてくれ」五郎蔵はニヤリと笑った。

「お主ら、これから語らずの滝に行くのであろう。ならば行く前にわし話を聞いてはくれぬか」皆の顔を見渡す五郎蔵の顔からは笑いは消えていた。

「お聞きしよう」そう言うと小四郎はお堂の隅に腰を下ろした。眩次とお雪も小四郎にならって座った。

「この話は小四郎さん、あんたと二人だけでしたいのじゃが」

「眩次は言うに及ばずお雪さんももう私の仲間だ。一緒に聞かせてやってくれぬか」五郎蔵はしばらく考えていたが決心したように顔をあげた。

「良いでしょう。ここまでくれば一蓮托じゃ」そう言うと五郎蔵は話し始めた。

「これから行く語らずの滝は我々オオカミ一族に関わる秘密の場所じゃ。本来ならオオカミ以外はもちろんよそ者にも話してはならんのだが、わしももういつお迎えが来ても良い歳だ。わしの最後の望みを叶えて欲しいのじゃ」五郎蔵は振り絞るように言った。

「語らずの滝にはニホンオオカミだけが行ける言わば隠れ里の入り口がある。その昔、大口真神がオオカミ以外は出入り出来ないように結界を張って目くらましを掛けたのじゃ。その結界は今も隠れ里を守っておる。この前人間に写真を撮られたオオカミがいただろう。あれは恐らく結界を抜けて出てきた若いオオカミなのじゃ。すぐ結界の中に戻ったから人間がいくら探しても見つかるわけがない」

「では結界の中の隠れ里には今もオオカミが暮らしているのか。五郎蔵さん今すぐ私たちをそこへ連れて行ってください」

「旦那良かったですね」じっと聞いていた眩次も小四郎に駆け寄った。

「もちろん連れて行くがついては小四郎さんに頼みがある。わしを隠れ里に連れて行ってほしいのじゃ」五郎蔵は小四郎の眼を見据えて言った。

「それは構わぬが何故だ。自分で行けばよいではないか」小四郎は訝しげに尋ねた。

 しばらく五郎蔵は答えずに黙っていたが振り絞るように言った。

「わしは結界を越えられないのだ。わしは純粋なオオカミではない。何回も試しては見たがどうしても越えられない。恐らくこれが最後の機会じゃろう。隠れ里をこの眼で見なければ死んでも死にきれん。わしの最後の望みなのだ。わしは仲間の姿を一目見てから死にたいのじゃ。お主と一緒ならばもしかして結界を越えられるかもしれん」五郎蔵の声は遠吠えとなり辺りに悲しく響き渡った。

「しかしわしは掟を破った。しかも本当のオオカミではない。よしんば隠れ里に潜り込めたとしてもどのような仕置きを受けるかわからん。小四郎さんにも害が及ぶやも知れん」

「事情は分かった。私も仲間に会うためにここまで来たのだ。話を聞いてこのまま帰る訳にはいかん。わたしの出来ることは何でもやらせてもらう。今すぐ結界の場所まで案内してくれ」

「眩次よ長い間世話になったな私は行くことにする。達者で暮らせよ。お雪さん短い間だったが世話になった」珍しく小四郎が小さく頭を下げた。

「よしてくださいよ旦那。あっしも連れて行って下さいよ。その結界とやらは越えられないにしても旦那が仲間のところへ行くのを見届けない訳にはいきやせんよ」

「あたいも行くよ。ここまで来て水臭いじゃありませんか」

「すまんな。しかし今の話では向こうはもろ手を挙げて歓迎してくれそうでもないからな。それでも良いのか。」

「もちろんでさ、ねえ姉さん。まだ役に立つことがあると思いやすよ」

「そうか」そう言うとおもむろに小四郎は立ち上がって大きく伸びをした。

「では五郎蔵さん行くとしましょうか」五郎蔵は小さく頷くと先頭に立って歩き始めた。


いつものけもの道を五郎蔵を先頭に小四郎、眩次、お雪の順で登って行く。五郎蔵の足取りは全く覚束ないが小四郎に後押しされて何とか登っている。しかし丁度語らずの滝までの中間点辺りに差し掛かると五郎蔵が音を上げた。

「少し休ませてくれ。わしももうろくしたものだこれくらいのことで」五郎蔵は大きく息をついた。

「五郎蔵さん夜が明けてしまうと何かと厄介だ。私が背負って行くから背中に乗りなさい」小四郎は五郎蔵の返事も聞かぬ間にひょいと背中に抱え上げた。

「では先を急ごう」今までの分を取り戻そうと足を速めた。

五郎蔵の案内で語らずの滝に着いた時にはもう真夜中になっていた。漆黒の闇の中、滝の流れ落ちる音だけが轟々と辺りに響いている。

「五郎蔵さん着きましたよ。その結界とやらはどこにあるのです」小四郎はゆっくりと五郎蔵を背から降ろした。五郎蔵は気を取り直すように伸びをすると皆の方を振りかえった。     

「こっちじゃ」五郎蔵は滝に向かって歩き始めた。滝壺は思ったより大きく満々と水を湛えている。

「結界は滝の裏側にある。道は無いので滝壺を泳いで渡るのじゃ。なにこの滝壺は大きいが深みに落ちないようにして岸を伝って行けばなんの事は無い」先に行こうとする五郎蔵を小四郎は引き留めた。

「ここは私が先に行こう。眩次よ五郎蔵さんを頼むぞ」

「がってんだ。まかせてくだせい」

小四郎は慎重に滝壺に入って行った。細い三日月の淡い光に照らされた黒い水面を小四郎はゆっくりと進んで行き滝の落ちるすぐ脇の所に上がって身震いをした。

「岸を伝って来れば大丈夫だ。慎重にな」

「じゃ、五郎蔵さん行きますよしっかりあっしにつかまってておくんなさいよ。姉さんはどうします」

「あたいは水は苦手だよ。ここに残って見張っているよ」

眩次は五郎蔵を支えながらゆっくりと滝壺に入った。

「こりゃ冷たいなんてものじゃないね。骨まで凍りそうだよ。五郎蔵さんしっかりしなせい」

「大丈夫じゃ、ここまで来てこれしきの事でくたばってたまるか」強がってはいてもだんだん眩次をつかむ力が抜けていくのが分かる。

「もう少しだしっかり」眩次がもうだめだと思ったと同時に小四郎が五郎蔵を引っ張り上げた。

「ふう、生きた心地がしませんや。五郎蔵さん立てますか」

「大丈夫だ」五郎蔵は何とか立ち上がると弱々しく身震いをした。

「そんなことよりこっちじゃ」五郎蔵はよろよろと滝の裏側へ歩いて行く。

「何をしている早く来ないか」

小四郎と眩次が後について滝の裏側へ入ると外からは見えないが以外にも広い空間があって、不思議なことに水しぶきもかからず滝の落ちる轟音もあまり気にならなかった。

広くなった場所の奥には古びた小さな鳥居が建っていてその先にはこれまた古びた小さな祠が祀られていた。鳥居には消えかかってはいるが「大口真神」と書かれているのが確かに見えた。

「ここだ、この鳥居の中に結界が張られているのじゃ。オオカミでない者は鳥居を潜っても何も起こらんがオオカミが通れば隠れ里への道が開くはずじゃ。わしは何度も試してみたが無駄だった。小四郎さん鳥居を潜ってみてくだされ」小四郎は無言で五郎蔵の悲しげな眼を見るとゆっくりと鳥居に向かった。一瞬ためらったように立ち止まったが一呼吸入れて鳥居を潜った。

がしかし何も起こらなかった。小四郎の身体はそのまま鳥居を潜って向こう側にいた。しばし五郎蔵も声が出なかった。

「なぜじゃ、なぜ結界が開かないのだこんなはずではない」

「本当の話なんですかい。場所が間違ってるとか、何か呪文を唱えるとか忘れてるんじゃありませんかい」

「そんなはずはない場所はここで間違いない。他に何かあると言う話は聞いたことが無い。まさかもう隠れ里への道は閉ざされてしまったと言うのか」五郎蔵はがっくりと膝をついた。

小四郎はしばらく考え込んでいたが眩次を手招きして呼び寄せた。

「おそらく場所はここで間違いないだろう。あの鳥居を潜ったとき一瞬明かりが見えたような気がした何かあるに違いない。眩次よお前も手伝ってこの周りに何か手がかりが無いか調べてみよう。このまま尻尾を巻いて帰る訳にはいかん」

「がってんだ。任せてくだせい」

小四郎と眩次は手分けして鳥居の周りや祠の裏を見て回った。

「どうだ何かあったか。こっちは特に手がかりになりそうな物はないな」

「旦那、暗くて良くは分かりませんが祠の裏に何か石碑のようなものがありやした。何やら字が彫ってあるようですが達筆すぎてさっぱり分かりやせん」眩次は祠の方を指さして言った。

小四郎は祠の裏に潜り込み石碑の碑文を読もうとしたが狭くてなかなかうまくいかない。ようやく見えるところまで入って碑文を見た。

望月仰ぎ明かり射し入れる刻道開かる

「これは確かに達筆だな、何々、」

もちづきあおぎあかりさしいれるときみちひらかる

「どう言う意味ですかね」

「望月とは満月の事だろう。この文面からすると満月の晩にここまで月明かりが差し込む時、隠れ里への道が開くと言うことだろうな」

眩次は滝の裏から出て冬空を仰ぎ見た。夜空の高いところに上弦の月がかかっている。

「この様子だと満月まではまだ十日はありそうですね。どうしやす出直しますか」

小四郎は呆然とする五郎蔵に歩み寄った。

「五郎蔵さんどうやらそう言うことのようだ。出直すとしよう。」

「わしはもうこの滝壺を泳ぐ気力は出そうもない。満月までここで待つことにするよ」

「しかしここでは食べ物も無いしこの寒さだ。十日も居られる訳がない」

五郎蔵は何も言わずただ小四郎を恨めしそうな眼で見つめた。

「仕方がない、食べ物は我々で何とかしよう。出来るだけ風が吹き込まない場所に居てください。人間が来ることは無いでしょうが十分気を付けて」

小四郎と眩次はまた滝壺を渡り待っていたお雪と山を下って行った。

「五郎蔵さんあの様子じゃ十日と持ちませんぜ。やはり連れ帰った方が良くは無いですかね」

「これ以上言っても無理だ。彼もオオカミの血を引く男だ覚悟の上だろう。次の満月まで持たなければそれも運命と言うことだ。食べ物は私とお前で交代で持って行こう」


「ただいま帰りやした」

「ご苦労。五郎蔵さんの様子はどうだ」

「このところ天気も良くて昼間は陽も差し込むそうで思ったより元気そうですよ。この調子なら大丈夫そうでやす」

「そうかひとまず安心だな。それで満月まではあと何日ぐらいだ」

眩次は外に出て月を見上げると戻ってきた。

「あと二三日くらいでしょうかね。もうずいぶん丸くなってきやしたよ。でも月が傘を被ってますね。ひょっとすると明日辺り雪になるかもしれやせんよ」

次の日の夕方から眩次の予想通り雪が降り出した。

「寒いと思ったら雪が降り出してきやがった」眩次がぶつぶつ言いながら外を眺めているとお雪がやってくるのが見えた。

「姉さん、雪景色にお雪さんの姿もなかなかお似合いですね」

「何を呑気なこと言ってるんだい。天気予報では今夜から大雪になるらしいよ。五郎蔵さんはどうしてる元気なのかい」

「一昨日行ったときは元気そうでしたよ。でも大雪となると心配ですね。我々が語らずの滝までたどり着くのも骨が折れそうですしね」

「そうだね。この雪じゃ今夜は無理だね」眩次とお雪は心配そうに雪空を見上げた。


 次の夜、雪は止んで満点の星空となった。間もなく月も登ってくる。待ちに待った満月が。

 「旦那先を急ぎやしょう。間もなく月の出ですよ」

 「分かっているがどうにもこう雪が深くては思うように進めんのだ。私は何とか一人で行くからお前とお雪さんは先に行ってくれ」

 「そうですか。じゃあ一足先に行きます。五郎蔵さんの事も気になりますんで」眩次とお雪は雪明りのけもの道を闇の中に消えて行った。

 小四郎がようやく語らずの滝の滝に着くとお雪が心配そうな顔で滝の方を見つめていた。

 「お雪さんどうした」

 「あ旦那、どうも五郎蔵さん良くないようですよどうしましょう」

 「お雪さんあんたは心配しなくても大丈夫だ」そう言うと滝壺を泳いで渡って行った。

 五郎蔵は見るからに弱っていた。わずか十日ばかりの間だったが肋骨が浮き毛並みも艶がなくなっていた。しかし眼つきや話し方はしっかりしていてまだまだ気力は衰えていないように見えた。

 「五郎蔵さんもう時機に満月が登ってくる、もう少しの辛抱だ」

 「わしは大丈夫じゃここまで来て倒れる訳にはいかん」

 しばらくするとまん丸の月が冬の澄み切った夜空に昇ってきた。月明かりが滝の裏側まで差し込んできた。

 その時、鳥居の中がぼんやりと明るくなってきて、その中から二つの影がゆっくりと現れた。二人とも小四郎に負けぬくらい偉丈夫の若者でまごうことなくオオカミであった。

 一人は真っ白な、もう一人は真っ黒な体毛で覆われ二人とも異様に眼光が鋭い。

 二人はじろっと小四郎たちを見ると驚いた表情でお互いを見た。真っ白で身体の大きい方が口を開いた。

 「これは驚いた何やら騒がしいので来てみればおぬしオオカミだな。しかも見かけぬ顔だ。一体どこから来た」

 「口の利き方を知らぬ若造だ、ものを尋ねる時は先に名乗ったらどうだ」

 「ほう、まあよかろう。我々は結界の番人、日光と月光だ。それにしてもこの里以外でまだ生き残った者が居ようとは思わなかった。おぬしどこから来た」

 「私は剣の小四郎。四国は阿波の山奥から仲間を探しにはるばるここまでやってきたのだ。この結界を通してはくれぬか」

 「四国にはまだオオカミが生きているのか」

 「いやもう何十年も仲間には会っていない。」

 「そうか、しかし里の掟でよそ者は一歩たりとも里には足を踏み入れることまかりならん。早々に立ち去れ」

 それまで黙って聞いていた眩次は我慢できなくなったのか二人の前に出張ってきた。

 「おうおう黙って聞いてりゃいい気になりやがって。旦那がこうして頼んでるだ良く話を聞いたらどうでえ」

 「何かと思えば狸ではないかお前には関係ないことだ。痛い目に会いたくなければ引っ込んでいろ」

 二人がにやにや笑っているのを見て飛び掛かりそうな眩次を小四郎は押し留めた。

 「眩次よ、どうやら話し合いが通じる相手ではなさそうだ。すまんがまた例の術で彼らを足止めしてくれ。そのすきに私は五郎蔵さんを連れて結界を越える。もしかするともう会えないかもしれない。これまで世話になったな、早く四国に帰って達者で暮らせよ」

 「旦那、水臭いこと言わないでくださいよ。あっしは待ってやすよ。二人は引き受けやした。どうぞご無事で」眩次は小四郎を見つめてにやりと笑うと二人の方に歩き出した。

 「それじゃお二人さん、その痛い目てのに合わせてもらおうじゃありやせんか。こちとらそこいらの狸とは出来が違うんでい。白いのでも黒いのでも、纏めてでもいいから掛かってきやがれ」

 眩次が言い終わらない内に真っ黒な方が飛び掛かってきた。

 「まて月光」もう一人が止めようとしたが間に合わなかった。眩次は例の不思議な印を組むと気合を入れた。月光は眩次の目前で足を滑らせ滝壺にもんどりうって飛び込んで行った。

 「ざまあ見やがれ、いい気味だぜ」眩次はおどけた格好で白い方を挑発した。

 「日光、気を付けろこやつ妙な術を使うぞ」月光が叫んだ時にはもう遅く二人は仲良く滝壺の中で浮いていた。

 「旦那、今の内だ早く行ってくだせい」

「すまん。眩次よ恩に着るぞ」小四郎は五郎蔵を抱えて結界に向かって行った。一瞬結界が白く光り二人の姿は消えていた。

 「いけねえ、こうしちゃいられねえや」眩次は滝壺から這い上がろうともがく日光と月光の頭の上を踏み越えて滝壺に飛び込むとそのまま一目散にお雪の待つ対岸に這い上がった。

 「行っちまったね。無事に隠れ里に着ければ良いけどね」

 「旦那の事だから大丈夫ですよ。きっと上手くいきやすよ」

 「でもあんたもやるじゃないか、見直しちまったよ」

 「おっと姉さん惚れちゃいけねえぜ」

 言い終わらないうちにお雪の猫パンチが眩次の頬を捉えていた。

 日光と月光はようやく岸に這い上がると眩次とお雪に怒りの一瞥をくれてそのまま結界に消えて行った。


 小四郎は五郎蔵を背負ったまま結界の中を駆けた。背後から日光と月光の気配が追ってくる。短いようで長いような時間が過ぎついに二人は結界を抜けた。真冬のはずであったが隠れ里の中は春のように暖かで心地良い春の風が吹いていた。結界の出口は高台の上のやはり祠の鳥居の中だった。夜明けまではまだ間がある、眼前は漆黒の闇に覆われていた。

小四郎は暫し茫然と下界の闇を見ていたが、追手の気配で我にかえった。小四郎は追手を欺くために足跡や匂いに細工を施して山の上に昇って行き繁みに身を隠した。

 「五郎蔵さん隠れ里に入りました、追手を撒くまでもう少し辛抱してください」

 「すまんの。しかし時機に夜も明けるからしばらくここで休もう」

 日光と月光の足音が遠ざかって行くと今までの疲れが一気に出たのか小四郎も五郎蔵も眠りに落ちた。

 小四郎が気配を感じて目を覚ますと五郎蔵はすでに起きて一段高い場所で夕日を浴びながら里の景色を眺めていた。

 「なんてきれいな景色じゃ外は真冬だと言うのにこの新緑の美しさはどうだ桃源郷と言うところがあるならここがそうなのかも知れんな。長年待った甲斐があったよ」五郎蔵は眼を潤ませながら小四郎を振り返った。小四郎もゆっくりと五郎蔵の隣まで上がって行くと暫し二人で夕暮れの景色に見とれた。

 「五郎蔵さん随分と回復しましたね」

 「世話をかけたがもう一人で歩ける大丈夫じゃ。この里には体力や気力を回復させる何か不思議な力があるのかもしれんな」

 「隠れ里には入れたがこの先どうしますか。恐らくよそ者が入ったと言うことで警戒も厳重になっているだろうし」

 「わしの一族は二つ名と同じ龍勢と言う里に住んでいるはずじゃ。そこを探して行くしかあるまい」

 「探すと言ってもどうして探しますか。人に聞く訳にもいかないでしょう」

 「とにかく山を下りるとしよう。ここに居ても埒は明かんじゃろう」二人は用心深く辺りを警戒しながら山道を下って行った。幸いなことに誰にも会うことなく開けた場所まで下りてきた。どうやら近くに小川が流れているらしくせせらぎの音がどこからか聞こえている。

 「五郎蔵さん川だ」二人は今まで忘れていたのどの渇きに気が付いた。そう言えば隠れ里に入ってからろくに水も飲んでいなかった。二人はせせらぎの音のする方に駆けて行きのどを潤した。

 ひとしきり水を飲み終えると少し離れた小川の対岸で水を飲んでいる年老いたオオカミが居るのに気が付いた。対岸とは言え容易に飛び越せるくらいの川幅でもう隠れる余裕も無かった。

 「こうなっては仕方がない、腹を決めてあのご老体に道を聞こう」そう言うと小四郎は軽々と小川を飛び越えて近寄って行った。

 「もし、道を教えてはくれませんか。龍勢と言う里はどのように行ったら良いでしょうか」相手に考える余裕を与えまいと一気に喋った。相手も少し面食らった様子だったがすぐ落ち着きを取り戻したように見えた。

 「龍勢はこの川を下って行けば、そうさな夜が明ける前には着くとは思うがな。お前さん見かけない顔だがどこから来なすった」年寄のあまりにも何気ない問いかけに小四郎はつい本当のことを喋ってしまった。

 「実は里の外から来たのだ」しまったと思ったが相手の反応は意外なものだった。

 「よそ者が入ったと言って騒いでおったがあんた達だったのか。こんなところをうろうろしてるとすぐ見つかるぞ。わしが龍勢まで連れて行ってやるから付いてきなされ」

 小四郎がどうしたものかと考えていると五郎蔵がやってきた。

 「考えても仕方がないこの人にお願いしよう」と小四郎に耳打ちした。

 「ではお願いする」小四郎が言うと老人は無表情に頷くと踵を返して小川の流れの方向に歩き出した。小四郎と五郎蔵も後に従った。

 「油断しなさんな。まだこの辺りは日光と月光の小僧がうろうろしているかもしれんからな」老人は辺りに気を配りながら下って行く。

 「もしご老体、わしは龍勢の五郎蔵と言う。父親はこの里の龍勢の出だと聞いておる。」

 「ほう、それで誰か縁者の名を知っているのか」ちらっと五郎蔵を見て老人は聞いた。

 「わしもここで生まれたらしいのだが、物心がつく前に母親もろとも里の外に出されたのだ。ゆえに知り合いはおらん」

 「お前さんの母親は外の犬か」

 「そうじゃ」

 「随分と昔になるがそんな話は聞いたことがある。ある者が里の外から犬を連れてきて子をもうけたと。しかし当時は今以上に掟に厳しく母親と子は里の外に追放され父親も共に行く事を望んだが許されずしばらく牢屋に入れられていたとな。その後の話はとんと聞かない。もう知っている者も居らんだろうな」

 「そうですか」五郎蔵はぼそっと呟くとそのまま黙りこくってしまった。

 三人は黙々と歩き続け明け方近くには龍勢の村が見えるところまで下った。幸い追手には見つからずに済んだ。

 「龍勢はもうすぐそこだ。私の案内はここまでだ、後は二人で行ってくれ。気を付けてな」老人はそう言うと元来た道を戻って行こうとした。

 「ちょっと待ってくれ。あなたの名前を教えてくれ」小四郎が呼び止めた。

 「名乗るほどの事でもない」老人はそう言い残すとすっと木陰に消えた。

 「さあ、これからどうするか。」

 「もう夜が明けるから私が一人で様子を見て来ましょう。それから考えましょう」小四郎はそう言うと五郎蔵を残して村に向かった。

 村の入り口と思しき所まで来たが人気はなく静まり返っていた。小四郎は大胆に村の真ん中を通る道を進んで行く。左右に家と思われる巣穴がいくつも見えるがどれも長い間使われた様子が無いように見えた。もうすでに皆寝ていると見えて誰にも会わずに村を一周してしまった。

 「どうじゃった」

 「どうもこうも、まるで人気が無いですよ。仕方がないから夜になったらまた行って見ましょう。何かきっかけがなけりゃどうにもなりませんよ」

 二人は岩陰で休むことにしてそれぞれ眠りについた。


 「小四郎さん、村の方から誰か来るぞ」五郎蔵に突かれて小四郎が眼を覚ますともう随分薄暗くなった村の方から誰かゆっくりとした足取りでこちらに向かって歩いて来る。まだこちらには気づいていないらしく警戒するそぶりも無い。よく見るとまだ若い娘のようだ。

 「ちょうどいい。あの娘に村の事を聞いてみよう」小四郎が出て行こうとするのを五郎蔵が引き留めた。

「のこのこ出て行って大丈夫か」

 「こうしていても埒が明かん。相手は娘一人だ何とかなるだろう」そう言うと小四郎は娘の方へ歩いて行った。

 「もし娘さん。ちょっと教えて欲しいことがあるのだが」小四郎は出来る限り静かにゆっくりと話しかけた。娘は一瞬驚いた様子だったが逃げ出すようなことは無かった。小柄だが銀色の体毛が美しい娘だ。

 「私は旅の者だが、娘さんは龍勢の村の人かな」しばらく間があったが娘は小さく頷いた。

 「私の連れが龍勢に縁のある者なのだがそれも随分と昔の事で誰に話を聞いたものか困っておるのだ。村に誰か昔の事に詳しい人は居らぬか」

 娘はじっとしたまま小四郎は見ていたがいくらか落ち着いてきたのか小さな声で応えた。

 「この村では家のじい様が一番の長老よ」

 「そうかそれは良かった。おじいさまに会わせてはもらえまいか」

 「じい様は知らない人とは合わないわ」娘は元来た道を戻る素振りを見せた。

 五郎蔵が追おうとする小四郎を制して口を開いた。

 「娘さん、わしの名は龍勢の五郎蔵じゃ。母親から聞いた話ではわしはこの村で生まれたと言うことだ。老い先短くなってきたこのわしの最後の望みを聞いてはくれまいか。」

 娘はこちらへ向き直って五郎蔵の顔を見た。

 「わしは本当にここで生まれたのか、もしそうなら縁の者はいないのか何としても知りたいのじゃ。おじい様に聞いてみてはもらえんだろうか」

 むすめはじっと五郎蔵の話を聞いていたが小さく頷くと口を開いた。

 「じい様に話してみるからしばらくここで待っていて下さい」と言うと小走りで村へ戻って行った。

 「大丈夫かな」小四郎は不安げに五郎蔵を見た。五郎蔵の方はもう腹を括ったと見えて道端の岩に腰を下ろして悠然と構えている。

 「なに追手に連絡されればその時さ、捕まったところで命までは取らんじゃろう。大丈夫だあの娘は、そんな気がする」いつもの五郎蔵とは違って妙に自信ありげな様子に押されて小四郎も待つしかなかった。

 辺りはもうとっぷりと暮れて山並みも見えなくなろうとしていた。暗闇から先ほどの娘が姿を現した。どうやら一人のようだ。

 「じい様が会ってもいいと言ってるから私についてきて。すぐそこよ」二人は頷くと無言のまま娘の後を追った。

 村の中心を通る道の突き当りを左に折れて直ぐのところに大きな洞窟が口を開けていた。

「ここよ」娘は小さくふたりの方を振り向くと先に立って入って行った。

 恐る恐る二人が付いて行くと少し広くなったところに出た。その壁際に年老いて痩せたオオカミが座っていた。


 「あれから一年になりやすが旦那たちはどうしてやすかね」眩次は二日ぶりに顔を見せたお雪に言うでもなくひとり言のようでも無く呟いた。

 「あんたは口を開けばそればっかりだね。そんなに心配ならあの滝で待ってたらどうだい」

 「まあそう言わないで下さいよ。ずっと四国から一緒に旅をしてきたんですから旦那がいないと何か気が抜けたと言うかね」眩次は大きな溜息をついた。

 「まったく男らしくないね。もう十分待ったんだからそろそろ四国に戻ったらどうだい」

 「姉さんは相変わらず冷たいですね。旦那が戻ってきたらどうするんです。そのときあっしがいないと不義理てえもんでしょう」

 「そうかね。それじゃまだここでしばらく暮らすのかい」お雪は呆れ顔で聞いた。

 「そうは言ったもののあっしもそろそろ四国が恋しくなってきやしてね。潮時ですかね。姉さんとお別れするのは悲しいですが」

 「何言ってんだいあたいの方は清々するよ。早いとこ四国でも何処へでも行っちまいな」

 「それじゃ、もう一度語らずの滝まで行って旦那にお別れをしてからここを引き払うとしやしょうかね。姉さんも付き合っちゃくれやせんか」

 「仕方ないね最後だって言うのなら付き合ってあげるよ。明日また来るよ」

 翌日二人は連れ立って語らずの滝に向かった。この夜も一年前を思い出させるような厳しい冷え込みの夜だ。夜空には満月が輝いている。

「姉さん、今夜は格別冷え込みやすね。猫は寒さは苦手だと聞いてますが平気なんですか」

「あんたとは出来が違うんだよ。ぶつぶつ言ってないでさっさとお行き」

この冬は寒さは厳しかったが雪は少なく、月明かりも手伝って意外と早く滝壺までたどり着いた。滝はほとんど凍り付いて大きなつららと化し、月明かりに照らされて青白く輝いて見えた。

「この滝も今日で見納めと思うと寂しいですよ。旦那、本当はあっしも一緒に行きたかったんですよ。でもあっしは狸だこの結界は通れねえ。旦那は隠れ里でオオカミ仲間とうまくやってやすかね。やっぱりあっしがいないと心配でやすね」

「大の大人が泣くんじゃないよ。名残を惜しんだらさっさと帰るよ。さすがにこの寒さは応えるからね」

「じゃあ旦那、姉さんもああ言ってますんでお暇しやす。旦那もお達者で」

眩次がゆっくりと歩きだしたと同時に後ろにいた雪が驚いたような声を上げた。

「ちょっとお待ちよ。何か様子が変だよ」

眩次が振り返ると滝の裏側が光輝いて、今まで月明かりで白く輝いていた巨大なつららがオレンジ色の光に変わっていくのが見えた。

眩次と雪が呆然と眺めていると滝の裏の結界のあたりから以前聞いたことのある声がしてきた。

「二度と結界に近づくんじゃないぞ」

眩次がつららの間を覗き込むと鳥居の結界の中に三つの影がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。

振り返って何か言っている真ん中の影がこちらに向き直った瞬間眩次は滝壺に飛び込んで一目散に向こう岸まで泳ぎ渡った。

「旦那、旦那あっしです、眩次です。」

残り二つの影は真っ白と真っ黒の身体、日光と月光だった。

「ちっ、またあの時の狸か。お前も近づいてはいかんぞ。さあ二人とも早く立ち去るのだ」

そう言うと日光と月光は結界の中に消えて行った。

「てやんでい、てめえらに言われなくても行くよ」

「旦那、本当に旦那ですよね。まさか会えるとは思いやせんでしたよ」

「よせ、眩次よそんな濡れた身体でまとわりつくんじゃない。しかしこちらは寒いな。隠れ里から出てくるとこの寒さは応えるな。しかしなんでお前がここにいるのだ」

「いや、あれから一年たちましたし雪さんと最後のお別れをしにきたんでやす。そうかそういえば今夜も満月でしたね」

「そうか、もう一年かそれにしてもお前とは腐れ縁と言うことだな」

「それはそうと五郎蔵さんはどうしやした」

小四郎は少し目を曇らせた。

「五郎蔵さんか、彼は亡くなったよ」

「え、そうでしたか。それは残念でした」

 「まあ、積もる話は後だ。ここは寒すぎる。はやく山を下りよう」


「そうかあれから一年か、もっと長かった気もするがな。それにしても眩次よまだ四国に帰ってなかったのか」

「なに、あっしが旦那をおいていなくなる訳がないでしょうが、あっしは一日も欠かさず旦那の無事を祈っていやした」

「旦那、だまされちゃいけませよ、殊勝なことを言ってますがこいつはふらふら遊びまわっていましたよ。ついこの前も東京見物だとかで出かけてましたが、日比谷公園や大手町で人間に見つかって大騒ぎだったんです。新聞にまで載ってね」

「お前も相変わらずだな」呆れ顔の小四郎だったが口元は緩んでいた。

「姉さんもう勘弁してくださいよ。それで旦那隠れ里では何があったんです」

そんなやり取りをしているうちに、もうねぐらの祠に着いていた。

小四郎もようやく人心地ついて腰を下ろすと隠れ里での出来事を話し出した。

「隠れ里には人間はいないし、ずっと春のような陽気で将に我々一族の楽園と言った所だった」

「なるほど、今こっちは真冬ですからね。旦那が寒がる訳だ」

「うるさいやつだね。いちいち口を挟むんじゃないよ」

隠れ里に入ると五郎蔵さんも元気を取り戻して、何とか日光、月光を撒いて生まれ故郷の龍勢の村へ行くことができた。そこで与兵衛と言う長老に会って話をすることになった。

与兵衛は随分と痩せて歳は取っていたが眼光も鋭く威厳もあった。たてがみも薄くはなっていたが若いころはさぞかし自慢だったと思われた。

「そなた達か儂に会いたいと言うのは」

「私は四国から来た剣の小四郎、こちらは龍勢の五郎蔵と言ってこの村が生まれ故郷だそうです」

「四国からか、よく隠れ里に入れたものだな。昨日騒いでおったのはそなた達のせいだな。五郎蔵さんとやらこちらに来て顔を見せてくだされ」

五郎蔵はゆっくりと与兵衛に近づいた。

「ここの生まれだそうだが、父親の名前は何と言う」

「父の名は知らんのじゃ。母はすみれと言う外の世界の犬だ」

与兵衛は驚いた様子で立ち上がると五郎蔵をじっと見ていたが、また億劫そうに座り直した。

「そうか、そなたの父の名はな、銀蔵と言う。そなたがここで生まれたのは間違いない。その時は儂も子供だったがあの出来事は良く覚えておる。あの時の赤ん坊にまた会おうとはな」

「私の父を知っているのか」

「知っているも何も、そなたの父銀蔵はこの村の長だったからな」

「父のことを教えてくれないか」

与兵衛は悲しげな目つきで五郎蔵を見ていたが、重そうに口を開いた。

「知りたい気持ちは分らんではないが、恐らくそなたが思うような話ではないぞ。それでも聞きたいか」

「銀蔵と言うのが父の名か。いや、ようやくここまで来たのだ、どのような事でも父のことならば聞いておきたい。教えてくれ、頼む」

与兵衛はしばらく五郎蔵を見つめていたが重そうに口を開いた。

「銀蔵が村の長だったことは話したな。先代の長が早くして亡くなって銀蔵は異例の若さで長となった。お坊ちゃん育ちだったこともあって事あるごとに騒ぎを起こしておった。最も皆をハラハラさせたのは結界の番人の目を盗んでは外の世界に出かけていたことであったよ。出かけるのはまだしも次の満月の日まで帰らぬことも度々あって村の者は皆何か起こらねば良いがと心配しておった」

話に熱が入って来たのか与兵衛は座り直して話を続けた。

「そうこうする内、銀蔵はピタリと外の世界に出かけなくなった。やれやれようやく我らの長の腰も据わったかと噂しておったが、どうも様子がおかしいことに気が付いた。頻繁に一人で村外れの洞窟に入る姿を見るようになったのよ。ある日村の若い衆が銀蔵がいない時を見計らってこっそりとその洞窟を覗いてみると、なんと犬と赤ん坊がおったのだ。もちろん村は大騒ぎになった。なにせ頻繁に外に出かけるのも問題なのに、

外の者を隠れ里に入れしかもそれが犬なのだから。ましてや子まで居るとは。村の者が聞いても見ての通りだと言うばかり」

「それで父はどうなったのです」

「隠れ里の掟は絶体だ、村の長と言えども逃れられん。周りの村にでも知られればただでは済まん。死罪の可能性もある。村人が三日三晩話し合って子供が歩けるようになったら三人を外に逃がすことに決した。それまでは近隣の村に知られぬよう箝口令がひかれた。しかし人の口に戸は立てられんのたとえ通り、じきに隣村の知る所となり三人は捕らえられ牢に入れられた。隠れ里の評定が開かれ母子は追放、銀蔵は無期監禁と決まった。死罪にならなかったのは母子を憐れんでのことだったんじゃろうて。母子は子供が一人で歩けるようになった頃を見計らって隠れ里から追放された。その時の銀蔵の悲嘆にくれた遠吠えは今でも耳に残っておるわ。その子がお前さんと言うことだ」

「母は、父はオオカミで隠れ里の龍勢に居ると言うこと以外は何も言わず亡くなった。それで父はどうなりました」

「銀蔵はそれから一年も経たぬうちに病がもとであっけなく亡くなった。死の間際には自分の墓は外の世界に作ってくれと言っていたらしいが叶う訳もなく、丘の上の墓地に弔われたのじゃ」

五郎蔵はそれを聞くと緊張の糸が切れたのかその場に倒れこんでしまった。

「五郎蔵さん大丈夫か」

「なに、少し眩暈がしただけじゃ。それより与兵衛さん銀蔵のゆかりの者はおりませんか」

「今はもう銀蔵の一族は絶えてしまって居らん。明日、墓に連れて行ってやるから今日はもう休むが良かろう。茜よ二人を三峰様の裏の洞窟に人目に付かぬよう案内してあげろ。」

「はい。何か食べ物も用意します」

「我々を匿ってくれるのか。それは嬉しいが迷惑をかけてしまうのではないか」

「もうすでに迷惑はかかっておるが、番人のやつらに義理立てすることもない。任せておけ」

小四郎と五郎蔵は礼を言うと茜の後に続いて神社の裏まで行くとなるほど人目に付かぬ場所に洞窟があった。

二人は横になると疲れがどっと出たのかすぐに眠ってしまった。


 日も暮れて、小四郎はそろそろ五郎蔵も起こそうと思っていると、入り口に気配がして

誰か入ってくるのを感じた。

 「誰だ」小四郎は身構えると同時に五郎蔵を揺り起した。

 「私です。茜です」

 「茜殿か、失礼した。長い間の旅暮らしでなかなか気が休まらないものでな」

茜は優しく微笑むと持ってきた食べ物を置いた。

 「よく休めましたか。となり村からきた人のはなしでは結界の番人たちがあなた達を探し廻っているそうなのです。この村に来るのも時間の問題ですから、村の者もあまり知らないもっと山奥の隠れ家に移ってもらいます。急いでください」

 まだ疲れの見える五郎蔵を励ましながら、山を登っていくと大きな洞の開いた椎の木の大木が見えた。

 「この洞の奥が広くなっているからそこに入っていて下さい」

 茜はそう言うと急いできた道を戻って行った。

なかなか居心地の良い場所でしばらくここで暮らすことになった。


「そうでしたか、あの白いのと黒いのを見ていると隠れ里の中の様子も心配でしたが良い人たちに会えて良かったでやすね。これもあっしが毎日旦那の無事をお祈りしていたお蔭ですよ」

「なに言ってんだよ、そんな訳ないだろ。それで旦那、それから今までどうしてましたか」

「与兵衛殿と茜殿によくしてもらったが五郎蔵さんは気落ちしたのか体調が戻らず、残念ながら一か月後に亡くなったよ」

「五郎蔵さんはかわいそうでしたね、せっかく生まれ故郷に帰ってこられたのにすぐ亡くなっちまうなんてね」

「そうでもなかったぞ。死に顔は私には満足そうに見えた。望み通り最後に生まれ故郷を見ることが出来たのだからな。与兵衛殿の計らいで父親の隣に墓も建ててもらったしな」

「やっぱり最後は誰しも生まれ故郷に帰りたくなるんでしょうかね。あっしもますます阿波の国へ帰りたくなってきやがったぜ」

「別に私を待たずに早く帰れば良かったではないか」

「そうは行きやせんよ。それじゃ旦那への義理が立たないじゃありやせんか」

「よく言うよ、もう明日には帰ろうとしていたくせに」

「姉さん、それは内緒にしてくれる約束でしょうが、ひどいな」

「自業自得だよ、それから旦那はどうされていたのです」

「うむ、龍勢の村も若者が減って難儀をしておったので普請や力仕事をしておった。そんなこんなでもうここに骨を埋めようとまで考えていた矢先、気の緩みもあったのだろう、あの日光と月光に見つかってしまってな」

「またあいつらですか、嫌なやつらですね全くもって。男の執念深いのは嫌われるのを知らないんですかね」

「評定では死罪の可能性もあったが与兵衛殿が尽力してくれて追放処分となった」

「旦那は残念だったかもしれませんが、あっしは嬉しいなまた旦那とこうして会えたんですからね」

 「なに、そうでもないさ。本音を言うと私も剣の山が恋しくなってきたところだ。それに里の中で聞いた話では同じような隠れ里が他にも何か所かあるそうだ」

 「そうか」話を聞いていた眩次は突然立ちあがって叫んだ。

 「なんだい、驚くじゃないか。突然大声出しちゃ」

 「姉さん申し訳ない。それより旦那、もしかしてオオカミの噂があったところは隠れ里の入り口があるんじゃないでしょうかね」

 「私もそう思っていたのだ。お前にしては上出来だ」

 「こいつは面白くなってきやしたね。九州や紀州にもう一度行って確かめなきゃいけませんね、旦那」

 「そうだな、でも一度阿波に戻ってからだ。隠れ里は逃げないからな」

 「そうしやしょう」

 「なんだかんだ言っても二人は良い取り合わせだね。でも寂しくなるね」

 「姉さんも一緒に来ませんか。皆で阿波踊り見物でもしやしょう」

 「そう言ってくれるのはありがたいけど、やっぱり止しとくよ。あたいは三峰の縄張りを守らなきゃいけないしね」

 「じゃ旦那、善は急げって言いますから早速出発しましょう」と言うや否や眩次は表に飛び出して行った。

 「待て待て眩次よ、もうそろそろ夜も明ける。出発は明日にしようじゃないか」

 「それじゃ今日は姉さんとじっくり名残りを惜しみやしょう」

 「あたいは湿っぽいのはごめんだからこれでおさらばするよ。それじゃ旦那お達者で」

 「お雪さん、世話になった。お前さんも元気でな」

 「眩次、あんたもしっかり旦那のお世話するんだよ。じゃあね」

 「姉さんおさらばです。姉さんまた会いに来ますよそれまで待ってて下さいよ」

 お雪は振り向かないまま尻尾で最後の別れの挨拶をした。

 二人はお雪の姿が消えるまでずっと東の空を眺めていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーが感動モノですね。 これまでのニホンオオカミらしき動物「秩父野犬」、「祖母野犬」。また、戻し交配によりオオカミを出す「戻りオオカミ」の計画とその唯一の生き残りも踏まえており、一オ…
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