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 目的の場所に着いたのは、日もすっかり暮れたころだった。

 シャルム貴族の館なら、そろそろ夕餉がはじまる時刻である。


 馬車の紋章をみとめた門番が即座に城門を開き、一行は敷地内へ入った。

 多くの貴族の館の造りがそうであるように、この館も白亜の壁に藍色の屋根で、敷地こそ広くはないが落ち着いた趣の城館である。


 この館に住まうのは、ノートル領の南に隣接する土地を収める貴族。

 急ぎの旅であるにもかかわらず、リオネルらが、王都までの最短経路であるノートル領ではなく、その南方を辿ることにしたのには理由があった。


 ここは、先日王宮においてジェルヴェーズに惨殺されたカルノー伯爵の土地である。


 熱心な王弟派であり、クレティアンや自分を敬愛していたカルノー伯爵が殺されたことにリオネルは心を痛めており、また、カルノー伯爵の家族に哀悼の意を伝えるべく、この地へ立ち寄ることを決断したのだ。


 馬車から降りると、ふとリオネルはなにかを感じたような気がして、空を見上げた。

 夜空には、剣先で引っ掻いたような、かぼそい三日月が浮かんでいる。


 ――この月を、アベルもベルリーズ邸から見ているだろうか。


 青年は、恋しい相手に想いを馳せずにはおれなかった。


 彼らの到着はすぐに城主に知らされ、玄関にはすでに大勢の人が出迎えに現れていた。


「リオネル様、ディルク様。ようこそお越しくださいました。心からお迎えします」


 真っ先に挨拶したのは、父親の死後、爵位を継いだティエリーである。彼はまだ若く、二十一歳になったばかりだった。


「ティエリー殿、この度はなんと申しあげればよいのか」


 リオネルの心からの言葉に、ティエリーは瞳を潤ませる。


「貴方様がこうして我が館へ足をお運びくださっただけで、父は喜ぶでしょう。哀しい話は、今夜は厳禁です。それよりも若き勇者たちの山賊討伐の話をお聞かせください。父が生きていれば、手に汗を握って聞き入ったに違いありません。――食事の用意もできています。さあ、どうぞなかへ」


 促されて、リオネルに続きディルク、ベルトラン、マチアス、そして護衛の騎士たちも館内へ足を踏み入れた。


 外套を脱ぎ、それらを使用人に手渡すと、今夜の目的地に到着したという安堵感と解放感が皆に広がる。


 ベルリオーズ家の紋章を掲げた馬車で長旅をするというのは、護衛の騎士たちにとってはなかなか緊張することである。シャルム人で知らぬ者はないだろうこの由緒正しい家紋だからこそ、予測できぬ事件が起こる可能性があり、そのときは命をかけても主人を守らなければならないのだ。


 騎士らが外套を脱ぎ終えたころ、玄関脇の扉がゆっくりと開き、ひとりの若い女性が姿を現した。


 皆が視線を向けると、赤味を帯びた薄茶色の髪を上品に結い上げた若い貴婦人は、そっと大階段の手前で立ち止まる。喪に服しており、漆黒のドレスが彼女の肌をひときわ白く、そして哀しみが彼女の容貌をひときわ美しく見せていた。


「妹のジャンヌです。母はすでに父と同じ場所におりますので、今となっては私の唯一の肉親です」


 兄に紹介されたジャンヌは、楚々とした仕草でドレスの裾をつまみ挨拶をした。


「リオネル・ベルリオーズ様、並びにディルク・アベラール様におかれましては、当館へお越しいただき、喜びと感謝の念に絶えません。どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」


 文句のつけようのない挨拶をしてから顔を上げたジャンヌは、なにかに囚われたようにリオネルを見つめた。徐々にその頬は朱に染まっていき、黒と白の二色だけをまとっていた彼女の姿に、鮮やかな色彩を添える。


 一方リオネルは、平素と変わらぬやわらかな物腰で、


「ありがとうございます、ジャンヌ殿」


 と笑顔を添えて返礼し、かがんで軽くジャンヌの手に口づけを落とすと、身を引いてディルクと交代する。ディルクがジャンヌの手に触れたとき、それは細かく震えていた。


 ひとしきり皆の挨拶が終わり、ティエリーに案内されて食堂へ向かう途中、ディルクがリオネルの腕を軽くつつく。


「おい、リオネル。ジャンヌ嬢は、どうやらおまえに気があるようだぞ」

「まさか」


 リオネルは笑った。笑い飛ばしたといってもいい。


「ありえないよ」

「どうして? あの様子は、恋をしている娘以外のなにものでもない」

「緊張していたんだろう」

「かわいい子じゃないか。フェリシエを正妻に、ジャンヌ嬢を愛妾に、なんていうのはどうだ? 生粋の王弟派貴族の娘たちに囲まれる生活も幸せかもしれないぞ」


 からかう親友に困ったような苦笑を向けてから、リオネルは食堂へ入った。



 広すぎない食堂の中央には食事机が据えられており、きっちりと食器や布巾が並んでいる。

 部屋の壁の上半分は白く塗られ、文様のなかに神話が描かれており、残りの下半分は木材の色がそのまま活かされ、中心部分には濃茶色で控えめにカルノー家の紋章が記されていた。


 リオネルとディルク、そして騎士たちが席に着くと、豪華な食事が卓上に所狭しと並べられる。

 城主であるティエリーが、


「リオネル様とディルク殿、そして両家の騎士の栄誉に乾杯」


 と称えると、皆が杯を持ち上げ、ささやかな宴がはじまった。


「今夜は、哀しい話は厳禁」とティエリーの言ったとおり、カルノー伯爵の死にまつわる話題は一切出ない。代わりに、ティエリーは山賊討伐の話をしきりと聞きたがった。


「そうですか、リオネル様の臣下を無断で囮などにするとは、ウスターシュ殿も立場をわきまえぬ無礼者ということですね」


 かなり酒を飲んではいたが、ティエリーは酔っていなかった。


「ウスターシュは自信家のうえに血気盛んです。私も、何度殴り倒したい衝動にかられたかわかりません。けれど、あのときのリオネルの怒りようといったら……下手に話しかけたら斬り殺されそうな勢いでしたよ」


 二日酔いもすっかり治ったディルクは、懲りずに再び杯を片手にして陽気に語っている。ティエリーの妹姫も、客人が語る話に真剣に聞き入っていた。


「リオネル様は、ご家臣を大切にされる方ですからね」

「それはもう。彼ほど家臣を大切にする人を、私は見たことがありません」


 深い意味のなかったであろうディルクの言葉だが、ティエリーは真剣に語りはじめた。


「そのようなお方にこそ、この国の頂に立ってもらいたいものです。リオネル様は、お血筋もさることながら、私が理想とする君主の姿そのもの。神がシャルムにお与えになった宝としか思えません」


 話している途中でティエリーは葡萄酒を口に含むと、なにかを思い出したように苦い表情になり言葉を続ける。


「それに比べ……あの悪魔のような男が、シャルムの王になるなど、私には想像したくもないことです。シャルム人の平穏な暮らしが永遠に奪われるに違いありません」


 悪魔のような男とは、彼の父親を殺したジェルヴェーズ王子のことだ。


 深い哀しみと共に、その場を重い空気が支配した。

 けれどティエリーは再び明るい表情を取り戻し、杯に葡萄酒を満たすと、「哀しい話はしない約束でした」と詫びて、この日何度目かの乾杯を促した。


「正統な王家に」


 不敵に笑ったディルクもまた、杯を高く捧げる。


「リオネルと、我々王弟派の絆に」


 ベルトランも加わり、


「亡き前カルノー伯爵とご家族に」


 と言うと、最後にリオネルも銀杯を持ち上げた。


「美しいこの国に」


 そして、皆の「乾杯」の声が重なった。

 祝杯をあげ終えると、ティエリーは話の続きを促す。


「それで、囮になった従騎士殿は、どのようにして戻ってきたのですか? 山賊から逃れることは容易ではありますまい」


 彼の期待に応えてディルクは丁寧に討伐の経緯を語った。

 従騎士のアベルが戻ってきたときのこと、スーラ山での戦いのこと、ラロシュ邸が襲撃された夜のこと、そして、連れ去られた従騎士を救うためにリオネルが少数の騎士だけを伴い賊の本拠地であるカザドシュ山へ向かい、首長と一騎打ちをして勝利したこと……。


「リオネル様と互角に戦うとは、ラ・セルネ山脈の賊を束ねていた男は、どのような者なのでしょう。さぞかし統率力のある強者なのでしょうね」


 ティエリーの質問は尽きず、戦いの勝利を祝う宴は深夜まで続いた。


 宴のあいだ、ジャンヌは貞淑な貴婦人らしくただ静かに座っており、だが、侍女が心配になるほどの量の酒を飲んでいた。

 ……時折、魂を奪われたように、リオネルを見つめながら。






+++






 宴が終わったあと、客人らはそれぞれ寝所に案内された。この館で最も上等な部屋である。


 熱烈な歓迎に加え、最高級の食材を使用した馳走と酒、そして贅沢な寝所……恐縮するほどのもてなしである。


 寝所に入る直前、廊下で立ったまま、リオネル、ディルク、ベルトラン、そしてマチアスは会話を交わした。


「それにしても、ティエリー殿の、リオネルへの心酔ぶりは想像以上だったな。確実に熱烈な王弟派だった親父殿の後継者になるね」


 酔いをまそうと、マチアスに持ってこさせた水を飲みながら、ディルクは言った。部屋に入らないのも、そのためである。廊下のほうが涼しくて酔いも醒めやすいし、逆に部屋に入ってしまえば話も長くなり再び酒を飲むことになるだろう。


 ディルクはけっして酒に弱いわけではない。つまり今夜も相当な量の酒を飲んだとういうことだ。昨夜の教訓は、活かされなかったようである。

 かたや、リオネル以上に「酔い」とは無縁なベルトランが、うなずきながら苦笑する。


「父親を超えるかもな」

「けれど、もう二度とあのようなことは起きてほしくない」


 断固とした声音でリオネルがつぶやくと、マチアスが「そのとおりですね」と深く同意した。


「亡き伯爵のためにも、ティエリー殿はおれたちが守ろうぜ」


 ディルクの言葉に、皆が強くうなずく。

 失ったものは取り返せない。だからこそ、今あるものを大切にするのだ。


「復讐」という言葉は、だれも口にしなかった。今は、憎悪がなんの益も生みださないことを――むしろさらなる波乱を生むことを、知っていたからだ。


 そのとき、廊下の先からためらうようにゆっくりと、こちらに向かって歩んでくる姿があった。


 四人が視線を向けた先にいたのは、ティエリーの妹ジャンヌである。

 漆黒のドレスは暗がりに溶けてしまいそうだったが、白い顔と手の先だけは、はっきりと確認できる。


 ディルクはにやにやしながらリオネルの背中を小突いた。


「お姫様のご登場じゃないか」


 けれどリオネルは、不思議なほど生真面目な顔でディルクを一瞥しただけだった。


「どうかなさいましたか、このような時分に」


 心なしか牽制するようにジャンヌに声をかけたのは、ベルトランだ。


「あの――、わたくし、リオネル様とお話がしたいのです」


 ベルトランがリオネルへ視線を向けると、彼はゆっくりとうなずく。「かまわない」という意味だが、それでも束の間ベルトランは思案するような顔をしてから、ようやく答える。


「私の同席のもとであれば、かまいませんが」

「それは……」


 赤毛の騎士の硬い声音に、ジャンヌは怯えたように声を震わせた。

 そんなジャンヌに、リオネルは穏やかな口調で尋ねる。


「他の者は同席しないほうが?」

「……ええ。リオネル様のお部屋で、二人きりになりたいのです」


 リオネルを見上げるジャンヌの瞳は熱っぽく潤んでいる。

 一同は顔を見合わせた。


 この時間帯である。

 両者とも未婚の若い男女であり、それも、かなりの量の酒が入っている。リオネルはともかく、ジャンヌは相当酔っているように見える。

 そのうえ、ここにいるだれもが彼女の気持ちに気がついていた。ジャンヌがリオネルに話したいことがあるとすれば、それはただひとつだろう。

 この状況で二人だけが寝所に入れば、その先はなにがあってもおかしくない。


 だがリオネルは、ジャンヌを見つめてゆっくりうなずき、


「わかりました」


 と答えて、友人らに目配せした。


「おい、本気か?」


 先程までからかう様子だったディルクだが、まさかリオネルが本当にジャンヌと二人きりになるとは思いも寄らなかったようである。

 ディルクは小声で、


「止めなくていいのか?」


 とベルトランに確認してみたが、赤毛の騎士は眉間を寄せてリオネルと視線だけを交わし、そして諦めたようにするりと踵を返した。


 ベルトランが許したのだから、他の者が止めに入る余地はない。

 呆れたような、戸惑うような面持ちでディルクはリオネルとジャンヌに、


「お、おやすみ、なさい?」


 と別れを告げ、自室へ戻っていく。どういうつもりなのか、幼馴染みながら理解に苦しむ。

 ――幼いころからよく知ったつもりでいたリオネル・ベルリオーズという男は、実は軟派なんぱなやつだったのだろうか。

 本当にジャンヌを愛妾にでもするつもりなのか。

 それとも、よほど欲求不満だったとか……。


「ジャンヌの儚げな雰囲気がアベルに似ているから、男のアベルとはできないことを、彼女と果たそうとしているのか?」


 独り言だったはずのディルクのつぶやきを拾った従者が、主人の足を思い切り踏みつけたのは当然のことだった。ベルトランまでもが、剣を抜きかけたのだから。


 足の甲を踏まれた壮絶な痛みに、声も出せずに苦悶するディルクの背後で、リオネルの寝室の扉が閉まる音がした。







 リオネルの部屋の燭台には、すでに火が灯されていた。カルノー家の使用人が、宴の終わる頃合いを見計らって灯したらしい。


 部屋は広く、大きな寝台がひとつ壁に寄せて据えられており、残りの空間には飾り棚、衣装箪笥、小卓、そして長椅子や肘掛椅子などが並んでいた。


 大きな窓からは、細い三日月。

 触れれば溶けてしまいそうな、淡い金色――それはいつか、ひと房だけ手にとり口づけた、アベルの髪の柔らかさをリオネルに思い起こさせた。


 静かだ。


 ジャンヌは閉ざされた扉の前に立ったまま、うつむいている。


「どうぞ、おかけください」


 肘掛椅子を引き、リオネルはジャンヌに座るよう促す。だがジャンヌはそのままなにも答えなかった。


「そのように立っていては、私も座ることができません」


 冗談めかすようにリオネルは言い、ほのかに笑む。

 そのときようやくジャンヌは顔だけを上げた。リオネルの優しい冗談に笑みを返せるほどの余裕は、今の彼女にはない。


 相手がなにも言い出さないので、困ったように眉を下げてリオネルは肘掛椅子のある場所から数歩だけジャンヌに近づく。


「では、ジャンヌ殿がお望みでしたら、私たちはこのまま立って話をしましょう」


 リオネルは部屋の中央に立っていた。

 しばらくそうしていたが、やはりジャンヌはなにも言わない。


 けれどリオネルは呆れたり苛立ったりはせず、そっと視線だけを窓の外へ向ける。

 薄い三日月が、窓枠の外へ移動しようとしているところだった。


 ――月が見えなくなってしまう。


 そのことを、リオネルは無性に寂しく思った。そして、つぶやいた。視界から消えていく月を見上げながら。


「三日月には、迷子になった妖精が集まるという話を、聞いたことがありますか?」


 彼が口を開くまで、二人のあいだにはとても長い時間が流れたようだった。

 返事はないが、リオネルは続ける。


「妖精たちは月に座り、地上を見下ろして探すのだそうです、自らの帰るべき場所を」


 ついに三日月は見えなくなった。

 窓に近づけば、見ることができるだろう。けれど、この微妙な均衡を保っているジャンヌとの距離を、この瞬間に変えるわけにはいかなかった。


「今夜のような細い三日月では、迷子の妖精が多いと、支えきれなくなるのではないかと心配になります」


 話し終えたリオネルが、振り返ろうとしたときだった。

 不意にジャンヌはなにかに背中を押されたように駆けだし、そして、リオネルの首に腕をまわして抱きついた。

 大人しそうな雰囲気の彼女らしからぬ振る舞いだった。


「ジャンヌ殿?」


 驚いたのかもしれないが、それを感じさせないリオネルの声。

 一方、ジャンヌはひどく取り乱していた。


「リオネル様……っ」


 身体を寄せたまま、ジャンヌは告白する。


「抱いて下さい――」


 黄金色の三日月を雲に隠された夜空は、ひどく暗かった。










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