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 夕食には、キャベツと豚肉のスープ、そして掌大ほどのパンがふるまわれた。


 スープは酸味が強く、どうやら発酵したキャベツを使用しているようである。パンも、普段食べるものとは違い、挽肉や野菜を入れて焼き上げてある。どちらもアベルにとっては食べなれぬ異国の味であったが、非常に美味だった。


 狭い部屋の中央には、正方形の食卓と小さな丸椅子が置かれており、三人はそこに腰かけて食事をした。


 外套を脱いだ若い旅人を、先程からミーシャは時々顔を上げてちらと見ては、また視線を卓に落として食事を続けている。

 一方、老婆はなにを考えているのか測れぬ面持ちで、アベルが食べる様子を見守っていた。その表情は落ち着いており、とても「不安で眠れそうにない」というようには見えなかった。


「どうだいね、旅の方。パンの味は」


 老婆はアベルに尋ねる。


「とてもおいしいです」


 答えてアベルはふと思い至った。自分は今晩、この家に厄介になるというのに、名前も明かしていないのだ。それに、ずっと「旅の方」では呼びにくいだろう。


 パンを卓に置き、アベルは正面に座る二人に向き直る。


「すみません、はじめに名乗っておくべきだったのですが……私はアベルと申します」


 老婆は深く笑んだ。


「わたしはタマラ、この子は知ってのとおり、ミーシャという名だよ」


 やはり二人ともシャルム人の名ではない。


 紹介されて頭を下げたミーシャに、アベルは笑いかける。

 ミーシャは戸惑ったような表情になり、だが、ほんのかすかに笑みを返した。アベルと同じくらいの年頃だろうか。世馴れした雰囲気のない、かわいらしい少女だった。


 食器を卓に置き、ミーシャは自信がなさそうにゆっくりと話しはじめる。


「きょ、今日は、助けてくださり、なんとお礼を言えばいいのか……。アベルさんが来てくださらなかったら、わたしたちはどうなっていたかわかりません。そのうえ、こんな粗末な家に泊まっていただき、わたしたち、ご迷惑ばかりおかけして……」


 うつむくミーシャに、アベルは優しく言った。


「今夜の宿をどうしようか、途方にくれていたところだったのです。助けていただいたのはわたしのほうです」

「そうそう、旅の方」


 二人の会話に口を挟んだのは老婆である。

 名を告げても、老婆の呼び方は「旅の方」のままだった。


「タマラさん、なんでしょう」

「急ぐ旅かもしれないけど、今日のように、日が暮れてからの移動は避けたほうがいい。このあたりは女性がひとりで旅をするには物騒な場所だよ。人の行き来があるぶん、犯罪も多いんだ」

「…………」


 一瞬、アベルはどう答えてよいかわからず、言葉を呑んだ。

 老婆は「女性がひとりで旅をするには」と言った。聞き間違えかと思ったが、いや、幾度思い返してみても「女性」という言葉が耳に残っている。


 アベルの抱いた戸惑いは、ミーシャも同様に抱いたものだった。


「おばあさま、アベルさんは男性よ」

「月明かりのような髪をお持ちの、とても美しい女の人だ」

「おばあさま……?」


 水色の瞳を見開き、アベルは老婆を見つめる。

 この人は知っているのだ。

 アベルが女性であることも、そして茶色に染めている髪が、本当は淡い金色であることも。


「おばあさま、もしかして――」


 ミーシャは驚くというより、頬を紅潮させ、怒ったようにタマラを睨んだ。

 するとタマラは涼しい顔で、孫を見返して言う。


「見たんじゃない、見えてしまったんだよ」


 言い訳するようなタマラに、ミーシャは哀しげに首を横に振った。


「そんなふうだから、皆に魔女と言われるのよ。どうして見たことを黙っていられないの?」

「自然と見えたものは、神様のご意思だからさ。……伝えるべきものなのだよ」

「わたしたちはどうなるの? また今日みたいに、街のごろつきに狙われるのよ」

「神様は見ていてくださるよ。だから、旅の方が救ってくれただろう?」

「そんなの偶然よ! 神様なんていないわ!」


 泣きそうな声でミーシャは叫んだ。


 ――神様なんて、いない。

 それは、かつてアベルが心のなかで幾度も噛みしめた言葉だった。


 この大陸の各国で信仰されている三美神は、もともと北方に伝わる神話に登場する神々である。そのため神々の名前には北方地域の響きがあり、北方に住む者はことのほか信仰心が篤い。


 二人が口論を始めたので、アベルは責任を感じて、遠慮がちに割って入った。


「タマラさんのおっしゃるとおり、わたしは女です。女性のひとり旅が危険なことを、充分わかっているつもりでしたが、少し気が緩んでいたかもしれません。ここで泊めていただけなかったら、わたしは道端で眠ることになっていました。それを免れたのは、タマラさんのおかげです。……あなたはすべてわかっていて、頼みこむふりをし、わたしをここまで連れてきて泊らせてくださったのでしょう?」


 言い争っていた二人は言葉を止め、そしてアベルを見つめた。

 タマラはそっとほほえみ、


「ああやって頼まなければ、あんたは泊まってくれなかっただろう?」


 と答え、ミーシャは泣きそうな顔のままうつむく。


「ミーシャさん、わたしはあなたのおばあさまに感謝しています」

「……神様なんて、いないわ」


 ミーシャはうつむいたまま、なにかを憎むように言葉を吐いた。


「そうかもしれませんね」


 ぽつりとアベルが答えると、タマラが独り言のごとくつぶやく。


「すべて、神様のお導きさ」


 だれもなにも答えなかった。

 気まずい沈黙が流れたが、しばらくしてアベルはそれを破った。


「けれど、どうしてタマラさんには、わたしの本当の姿がわかったのですか?」


 再び沈黙が降り落ちる。


 聞かないほうがよいことだったのだろうか。

 だが、アベルには不思議でならなかった。なぜ性別だけではなく、髪の色まで見破られてしまったのか。


 タマラは黙ったままゆっくりとスープをすすっており、ミーシャはアベルと自分の使い終わった皿を片づけ始めた。

 しばらくしてタマラが食事を終えると、ミーシャは煮詰めた果物を運んできた。普段から食しているとは思えないような贅沢なものなので、客人のために特別出してきたのだろう。


 アベルは申しわけないような気分で、それを少量だけ自らの皿に盛った。


「わたしたちがシャルム人ではないことは、お気づきでしょう?」


 席に着いたミーシャが、おもむろに口を開いた。

 とろとろの赤い果実を口に運びながら、アベルはうなずく。


「おばあさまは、とても不思議な能力を持っているんです」


 ミーシャが隣に座るタマラへ視線を向ける。

 タマラは穏やかな口調で語りはじめた。


「そんなたいそうなものじゃないんだ。ただ、目前にいる人の『過去』が見えることがあってね、それだけのことさ」

「過去……」


 消化しきれぬ言葉を、どうにか呑み込もうとするかのように、アベルはつぶやいた。


「わからないだろうね、おそらくわたし以外にはだれもわからないよ。過去が見えるだなんてね――それもすべてじゃない、神様が必要だと思し召されたところだけなんだ」

「思し召しなんかじゃないわ、もし神様が見せているのだとすれば、ただの気まぐれよ」

「ミーシャ」


 祖母の厳しくたしなめる声を、ミーシャは苦い面持ちで無視した。


「ここらの住人は、おばあさまの力を知っていて、それを恐れ気味悪がるんです。それなのに、おばあさまを利用して」

「利用?」


 アベルは眉をひそめる。

 思い返すことさえ悔しそうに、ミーシャは古びた食卓を睨みながら語った。


「……先日、アルクイユの街中で若い旅人が殺され、金品を盗られました。旅人が襲われるのはよくあることなのですが、たまたまそれが貴族のご子弟だったのです。ラトゥイのご領主様が躍起になって犯人探しをはじめたのですが、街のごろつきのうちだれがやったのかが特定できなくて。それでどうにもならなくなった街の役人は、最終的におばあさまの力を頼ったんです。『過去』が見えるおばあさまには、もちろんだれが犯人かわかります。犯人は捕まり、牢に入れられました。けれど今度はわたしたちが、犯人の家族や仲間から逆恨みをされて――」

「先程の男たちですね」


 静かに尋ねたアベルに、ミーシャはうなずく。


「おばあさまは、ただ役人の命令に従っただけなのに……」


 ミーシャの片方の頬に、ぽつりと滴が落ちたが、彼女はすぐにそれをぬぐった。

 幾度も涙を流してきたのかもしれない。涙をぬぐう仕種はどこか投げやりで、疲れ切っているように見えた。


「もう何度も、何度もこんなことがあったわ」

「…………」


 もう片方の頬にも涙が落ち、ミーシャはそれを苛立ったように乱暴に拭う。


 ――涙なんて流すものか。

 そんな彼女の声が聞こえてくるようだったが、同時に、アベルにはわかった。ミーシャが本当は悔しくて、哀しくて、泣きたくてしかたがないのだと。


 事情のすべてはわからない。

 アベルに語っていない不幸がまだ無数にあるのだろう。この家には二人の他にだれかが住んでいる気配がないことにもアベルは気がついていた。いったいミーシャの父母兄弟はどこにいるのか。


 ミーシャとタマラを救う術をアベルは持たなかった。自分自身を救うことのできぬ者が、他人を救えるはずないのだ。

 けれど――。


 涙をこらえるミーシャのもとへ行き、そのかたわらに膝をついて、アベルはそっと彼女の手を握った。

 椅子に座るミーシャを、まっすぐに見上げる。


 驚きの色を浮かべて大きく見開いたミーシャの瞳が、次第に溶かされていくようにうるみ、そして閉ざされた。

 その瞬間、ミーシャはアベルにすがるように抱きついていた。


 ミーシャは泣いた。

 アベルの腕に抱きとめられ、嗚咽を漏らして泣いた。


 そのあいだタマラは、床に視線を落として黙りこんでいた。――一番辛かったのは、タマラだったかもしれない。


 やがて泣き疲れたのか、ミーシャはアベルの腕のなかでまったく動かなくなり、あまりに長いことそうしていたので不思議に思いアベルが覗きこんでみると、彼女は静かに寝息をたてはじめていた。

 暴漢に追いまわされ、タマラを守りながら恐怖と緊張のなかで、逃げ回ったのだ。疲れきっていたに違いない。


 タマラに手伝ってもらいながら、アベルはミーシャを寝台へと運んだ。自分とほぼ同じ身長の相手を運ぶのは、非常に骨の折れる作業である。仕事を終えたときに、アベルは大きな溜息をついた。


 小さく、粗末な寝台である。

 働き手のいないこの家で、裕福な暮らしなど望むべくもないものだ。


「わたしに見る力があるのはね、旅の方」


 孫の寝顔を見ながら、タマラが呟いた。

 アベルはタマラのほうを向く。


「わたしたち二人だけでも暮らしていけるように、そして、この能力でだれかの役に立てるように、神様がお与えくださったんだよ」


 老婆の言うことがすべて理解できたわけではないが、アベルは小さく相槌を打った。


「けれど、時々わからなくなる」


 タマラはためらうように言葉を切った。


「――神様のご意思がね」


 意外な言葉だった。タマラの信仰心は揺るぎないものだと感じていたからだ。


「神のご意思が、ですか?」

「わたしは過去が見えるが、わたしの息子たち、そして娘――つまりこの子の母親は、もっと多くのものが見えたのさ。まるで奇跡のようだった」


 自分自身に語りかけるようにタマラは話す。


「わたしは、それも神様のお導きだと信じていたよ。将来は、どれだけ世の役に立つのかと胸を躍らせていた。けれど……、けれどそうじゃなかった。そのせいでこの子の母親は……いや、父親までもが死んだんだ」


 なにを言えばよいかわからず、アベルはただうつむいた。


「欲に目のくらんだやつらが、他人の土地を血に染めるためにわたしの子供たちの能力を欲しがったのだよ。娘は嫌だと言った、人を殺すための手助けはしたくない――と。その結果は、想像できるだろう? ミーシャが七歳のときに軍隊が来てこの子の母親をさらっていき、そのとき、母親を守ろうとしてミーシャの父親は殺されたんだ」


 いたたまれない思いでアベルはミーシャの寝顔に視線を移す。幾度も「神様なんていない」と言っていた彼女の台詞が、今更ながらに胸に突き刺さった。


「けれど、それから一年も経たないうちだった、娘の死が知らされたのは。なにがあったのかはわからなかったが……悔しくてしかたがなかった。大事な娘だった。あのときだけは、神を恨んだよ。神の存在さえ疑ったさ。だからわたしは、幼いミーシャを連れて逃げたのさ。とても遠い国へね」

「辿りついた先が、ここ、シャルムだったんですね」

「……そうさ」


 たしか、タマラは初めに、娘と「息子」がいると言ったはずだ。彼がどうなったのか、アベルには聞く勇気がなかった。

 代わりにこう尋ねた。


「けれど、あなたはそれでも神を信じていらっしゃるのですね」


 老婆は静かに首を横に振る。


「信じているんじゃない――わかるんだ。感じるんだ、とても大きな存在を」


 アベルは黙した。辛い経験こを経ても、深い信仰心を持ち続けることができるタマラの強さに心を打たれる。


「旅の方。あんたが今日ここに来たのも、神のお導きさ」


 そっとアベルはほほえむ。

 ――そうかもしれないと、自然に思えた。


「とても深い苦悩と哀しみ、そして絶望が見えたんだよ。あんたの過去にね」

「…………」


 どこまで具体的に老婆がアベルの過去を見ることができたのかはわからないが、それは打ち消したい――否、すでに死したはずの過去である。そこに触れられることは、ひどく怖かった。


「けれど、それと同じだけの、愛と希望も見えた」

「愛と……希望?」

「あんたと同じくらい美しい、光さ」

「わたしは美しくなんて……」


 老婆は笑みをたたえながら、幾度もうなずいた。まるでアベルがそう答えることをよく知っていたかのように。


「不思議なことがひとつあってね、旅の方。わたしがあんたと話していて真っ先に見えたものは、水だったんだよ」


 アベルは目をまたたく。


「水……」

「――水と泡だ。たくさんの泡。そして、激しい水しぶき。あんたは手をばたつかせ、まるで溺れるようだった」

「おぼれる?」


 なにかが思いだせそうな気がして、だが、突如アベルはひどく頭が痛むような気がして、顔をしかめた。


 おぼれたことはない。けれど、夜に見る悪夢のひとつに溺れる夢があることも事実だった。

 繰り返される悪夢を思い出すと、アベルの心に暗い影が落ちる。


「それが見えたとき、わたしはとても苦しかった。旅の方も苦しかったに違いない。記憶にないのなら、思い出さないほうがいいということさ。すべて、神様がお定めなるのだから」


 もやもやとした感覚が残ったが、けれど、これ以上そのことについて考えるのもこわかった。

「すべて、神様がお定めなるのだから」という、老婆の言葉を、アベルは頭のなかで繰り返し、そして力のない笑みをタマラに向ける。


「大丈夫、旅の方、あんたには『愛』がある。愛のある者を、神様は見守ってくださる、必ずだ」


 老婆の言うことが完全には理解できず、アベルは曖昧にうなずく。


「必ずだ」


 自らに言い聞かせるようにもう一度タマラは繰り返し、そしてアベルをしっかり見つめてから、狭い寝所を出ていった。









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