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 そのころ、当の本人は、ラザールが想像しうるよりはるか遠く離れたところにいた。


 一頭の馬に、華奢な少女がひとり騎乗している。馬車の旅をする主人たちよりも身軽な移動であるため、徐々に彼らと距離を離し、もうすぐラテュイ領に入るあたりにまで来ていた。


 月の光を集めたような彼女の髪は、今、濃い茶色に染まっている。

 民家の主がラザールに語った、「焦げ茶色の髪に口髭のある無愛想な旅人」とは、実はアベルのことである。髪を染めたのは、万が一アベルを知る者に姿を見かけられても、気がつかれぬようにするためだ。


 今、彼女の口に付け髭はない。

 馬を購入するときに口髭をつけていたのは、子供だからと侮られたくなかったからだ。「おまえに馬など買う金などあるのか」などと言い出す者はいるだろうし、世間知らずと思われ、法外な値段を提示されたら面倒だ。


 髪を茶に染め、外套のフードを目深にかぶるアベルは、流浪の旅人風情である。


 何事もなく、さらに、できるかぎりリオネルらよりも早く王都サン・オーヴァンに到着するために、アベルは目立たない格好で、口数少なく旅をし、だが、正騎士隊に所属する騎士も顔負けの馬術で、日の出から日没までかなりの距離を移動した。


 お金はまだ充分にある。

 哀しいことだが、この世のなかは、お金さえあればなんとか生きていくことができるのだと、アベルはあらためて知ることになった。


 デュノア邸を追放されたとき、アベルはなにも持っていなかった。

 まだ十三歳で、世間のことなどなにもわからず、ひとりこの厳しい現実の世界へ放り出された。


 あのとき、今アベルが所持するほどのお金さえあれば、馬を買うこともできたし、当面の生活にも不自由しなかっただろう。


 お金とは恐ろしいものだ。

 人間はお金を「使っている」と思っているが、逆に、お金にふりまわされ、踊らされ、そのせいで大切なものを見失っているのではないかと思う。


 お金があれば、だれかの「親切」も「愛」も買える。

 お金がなければ、死きる価値も与えられない。

 それが本来の人間のあるべき姿だったのだろうか。


 けれど、なにもなかったからこそ、アベルには見えたものがあった。

 なにも持たない、ただの「アベル」という人間を、受け入れてくれる存在がいる――ということだ。

 それはたったひとりだった。

 けれど、たったひとりでいい。

 ……彼は瀕死のアベルを救い、気にかけ親切にしてくれ、さらには死を選ぼうとしたほどの哀しみと苦悩を受けとめてくれた。


 この哀しい世界で、金も地位もない人間を、だれがこのように受け入れてくれるだろう。

 リオネルは、アベルのすべてだ。

 アベルの希望であり、アベルの信じるものであり、アベルの敬愛する人だった。


 多くの騎士たちは、生きていくための方法のひとつとして主君に仕える。だが、アベルは違う。アベルは、主君に――リオネルに仕えるために、生きているのだ。

 彼の身を守れないのならば、死んだほうがいいとさえ思うほど。

 アベルの行動の根底にあるものは、それだけだった。


 だから、アベルはここにいる。――リオネルの命に背き、ベルリオーズ邸を出て。


 言い知れぬ胸騒ぎがする。

 何事もなければそれでいい。けれど、もし彼に危険が迫っているとしたら……。

 どのような形でもかまわない。

 ただ、リオネルを守りたい。





 その日、アベルがラトゥイ領最大の都市アルクイユの城門をくぐることができたのは、深紅の夕陽が、なだらかな丘陵の果てにほとんど沈みきるころだった。

 丘の上には、陽光の名残の薄紅色だけが残され、それも、次第に濃さを増す空に取り込まれていく。


 城門をくぐると、左右を木々に囲まれた人気ひとけのない道が続く。左手に水音がするのは、せせらぎでもあるのだろう。


 高い木々の枝や葉、石造りの城門、そして馬に跨る旅人の姿は、光と闇がせめぎあう幻想めいた景色を背景に、切り絵のように黒く浮かび上がっていた。


 アルクイユは、王都サン・オーヴァンと西方の地域を結ぶ主要な街道の途中にあるので、旅人や商人の姿が多く見られる街だ。宿場町として、また、旅人や商人がもたらす品々によって市場なども賑わいを見せる。


 アベルも以前、リオネルらと共に王都からベルリオーズ邸へ向かう途中で、ここを通ったことがあり、当時は通過しただけだったが、その賑わいは目にしている。

 特別にここを目指していたわけではなかったが、日没までにここまで辿り着くことができたので、今夜の宿はアルクイユとなったというわけだ。


 ただ、賑わうといってもサン・オーヴァンやシャサーヌには及びようがない。中心街までの道は城壁の外と変わらず、民家も商店もほとんどない寂しい風景が続いているだけであった。


 冷ややかな風が吹く。


 気がつけば、あたりは完全に暗くなっており、ただ薄い三日月が放つかすかな光だけが、ぼんやりと木の葉の影を映していた。


 水音もいつのまにか聞こえなくなっている。

 静かだった。


 闇と静寂によって支配された空間を、黙々と馬を進めていたアベルは、ふと、視線を鬱蒼とした木々の奥へと向けた。

 人の気配を感じたような気がしたのだ。


 手綱を引き、馬を止める。

 耳を澄ましてみたが、やはり静かだった。

 気のせいだったのか……。


 再び進もうと足に力を入れたとき、だが、声が聞こえた。

 今度は確かに人の声が聞こえたのだ――だれかの叫ぶ声だ。


 アベルは声がしたほうを見据え、そして馬の向きを変えると、闇のなかへ駆け出す。

 ――助けを求められているような気がした。

 あるいは、助けを求めていたのは、あの嵐の日、だれにも助けてもらえなかった過去の自分だったかもしれない。


 可能な限りの速さで、声がしたはずの方向へアベルは馬を駆けた。


 馬が発揮する能力は、本来の素質もさることながら、乗り手の技によるところが大きい。

 アベルは、剣や弓に劣らず素晴らしい騎手でもあったので、彼女が駆ける馬の速さは王宮で腕比べに出場できるほどだった。


 徐々に人の気配が強まり、そして、声が聞こえてくる――それは、複数の男たちのものだった。叫ぶような声はあれから聞こえていない。

 緊張を高めて、アベルは男たちの声を追った。


「いたぞ!」


 ひときわ大きな声があがる。


「あちこち逃げ回りやがって!」


 しばらくすると、あの声が再び聞こえてきた。


「わたしたちがなにをしたというの! お願いだから、放っておいて」

「『わたしたちがなにをしたの』だってよ、おい! よくぬかすぜ、魔女の孫のくせに。日々、魔女になるお勉強をしているんだろう?」

「おばあさまは、魔女なんかじゃないわ!」

「魔女じゃなければ、悪魔の使いか? 叩きのめしてやる!」


 一瞬の間をおいて、少女の悲鳴があがった。

 アベルは声のほうへ馬を走らせる。

 そして、見たものは――。


 松明や木の棒などを持つ五、六人の若者たちに、老婆と少女が追い詰められている光景だった。

 かばうように少女が老婆にしがみついており、二人を引き離そうと男たちは、躍起になっている。老婆はすでに攻撃を加えられているのか、手が血に濡れているのが見受けられた。


「やめて! おばあさまを叩かないで!」

「このばばあのせいで、おれの親父は牢獄にぶち込まれたんだ! 殺してやるっ」


 ついに少女は男たちに引き離され、老婆の身体は支えを失い、よろけて地面に倒れた。

 若者が木の棒を振り上げる。

 少女が悲痛な叫び声をあげた、そのとき。


 ――若者の動きが止まった。


 棒を高く振り上げたまま、凍ったように立ち尽くしている。彼の背中に感じられたのは、鋭い得物の先端だった。


 男たちの気がそがれた隙に、少女は老婆に駆け寄る。

 それを見て、老婆に襲いかかろうとしていた若者は苦い面持ちになってから、


「だれだ?」


 と、緊張と恐怖の混ざる声音で背後にいる人物に問いかける。

 だが、返事はない。

 ぎこちなく頭だけを動かし、彼は視線を背後へ向けた。


 仲間が持つ松明に浮びあがっていたのは、外套を頭からすっぽりかぶった、旅人風情の小柄な少年である。

 体格においても年齢においても明らかに自分のほうが上回っていると知ると、若者はすぐに反撃に出た。


 前進して刃物から逃れると、木の棒を旅人に向かって打ち下ろす。

 だが、旅人の動きは速かった。

 するりと棒をよけると、若者の背後にまわり、得物を相手の首に叩きつける。旅人の手に握られていたのは、鞘に収まったままの短剣だった。


 気を失った男は、その場に伏した。重たいその音が合図だったかのように、残りの男たちが一挙に旅人――アベルに襲いかかる。


 少女と老婆の目には、どう見ても小柄な少年に勝ち目はないように映った。


「死ね、ガキッ!」


 残酷な現実から逃れるように少女は硬く目を閉じたが、老婆は色素の薄い瞳をぐっと見開く。老婆の目に映ったのは、血気盛んな若者たちの攻撃を身軽にかわし、鮮やかな剣さばきで次々と相手を伸していく、しなやかな旅人の姿だった。


 最初のひとりを含めてすでに四人を倒し、残りの二人がためらい動けずにいるところへ、アベルは迷いない足取りで近づく。そして、ひとりの目前で短剣の鞘を引き抜くと、急速に二人は恐怖の色を顔にたたえた。


「今すぐここを去りなさい。再びこの二人を襲うようなことがあれば、次は抜身であなたがたと戦います。お友達にも、そう伝えておいてください」


 よく磨かれた短剣の刀身は、男の持つ松明を反射して鋭い光を放つ。もし旅人が抜身で戦っていれば、若者たちの命はなかっただろう。


 恐怖に支配された若者二人は、気を失っている仲間を雑木林のなかに残して、走り去っていった。


 その姿が暗闇のなかに完全に溶けて消えるのを確認すると、アベルは短剣を鞘に納め、木の脇に身をひそめていた少女と老婆のもとへゆっくりと歩み寄る。

 寄り添う二つの影は、まだなにかにおびえているように感じられた。


 松明はない。

 薄っぺらな三日月が放つ頼りない月明かりのもと、アベルと襲われていた二人は互いの顔も確認できぬほどの暗がりのなかで対面した。


「……大丈夫ですか?」


 遠慮がちに、アベルは問いかける。

 すると、想像するよりはるかにしっかりした老婆の声が返ってきた。


「旅の方、わしらを助けてくださり、ありがとうございました」


 少女は安堵からか、老婆の肩に顔をうずめて泣き出す。気の毒そうに彼女のほうを見つめてから、アベルは再び老婆に視線を戻した。


「おばあさん、怪我のほうは?」

「幸い、逃げるときに転んで手を擦りむいただけですよ」


 老婆はしわがれた声で笑う。


「医者へは?」

「なに、大丈夫さ。ほらミーシャ、わしはなんともないのだから、もう泣くのはおやめ。そして旅の方にお礼を申し上げなさい」


 手の甲と掌で交互に涙をぬぐい、少女は立ちあがると、すぐにアベルに向けて深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


 けれど、生真面目な様子で――むしろ、どこか哀しげにも見える面持ちで、アベルは首を横に振る。


「礼などよいのです」


 礼を述べられるほうが、心苦しかった。自分が救おうとしたのは、目の前の二人ではなく、過去の自分にすぎなかったのかもしれないのだから。


「ご自宅まで送りましょう。この闇のなかを徒歩で帰るのは、難儀でしょうから」

「そんなことまでしていただくわけには……」


 ミーシャと呼ばれた少女は断りかけたが、老婆の方は大きく幾度かうなずいた。


「おばあさま?」


 意外そうにミーシャは祖母を見つめる。


「旅の方、お言葉に甘えさせていただいても、かまいませんかね? 家はここから遠くないのですが、疲れて足がもつれてしまいましてね」

「もちろんですよ」


 遠慮を見せるミーシャを促し、アベルは二人を自らの馬のほうへ導く。そして、彼女らを馬に跨らせると、自分は徒歩で手綱を引きながら、雑木林が終わるあたりにあるという家へ向かった。




 道中、三人はなにも語らなかった。馬が地面を踏みしめる音と、かすかな風に揺れて擦れる木の葉の音だけが、世界を支配しているようだった。


 そのあいだアベルはぼんやりと考えていた。今しがた目にした光景のこと、そして今夜の宿や夕食のことを。


 どこにでも、弱いものを痛めつけようとする者はいるものだ。抵抗する術のない老人や子供をあのように襲う者がいる――その事実が、アベルの心に影を落とした。

 いつだって信じていたいのは光だ。人のうちにある、思いやりや、優しさ。


 ……だが哀しいかな、現実は無情なものだ。

 だから、思い浮かべる――あの人を。

 優しいあの人の眼差しを、あの人の声を、温もりを。


 思い浮かべて、胸がちくりと痛む。彼の思いやりを無下にし、命礼に背いて自分はベルリオーズ邸を出てきたのだ。

 アベルは目を閉じた。


 ――今は考えるまい。

 自分を突き動かしているのは、ただひとつの信念なのだから。


 もやもやとする思考を断ち切るために、アベルは今夜の宿のことを考えることにした。

 旅人が多い街である、宿の数は多いだろうが、客の数も同様に多いだろう。特に、五月祭を控えたこの季節である。普段に増して混雑するに違いない。

 夕食はなんとかなるはずだが、運が悪ければ宿探しは難航するかもしれない。


 そんなことを思っているうちに、目的地に到着する。


 少女と老婆の家は民家の集まる界隈から外れたあたりに位置し、遠くに家々の明りを見ることはできたが、隣近所と言えるほどの距離にはないようだった。


 光は遠く、寂しい場所である。


 馬から降りる手助けをしてやり、さらにアベルは二人が家に入るところまでを見届けようと思った。事情はわからないが、物騒なことがあった夜である。少女と老婆が扉を完全に閉めるまでは安心しきれなかった。


 少女が扉を開け、先に中へ入る。

 それから老婆が足を踏み入れ、けれど途中でアベルを振り返った。


「旅の方」


 呼ばれて、アベルは外套のフードの奥から老婆を見た。

 少女が灯した燭台の炎が、はじめて三人の顔を照らす。


 アベルはわずかに目を見開いた。

 老婆の髪は白髪といってしまえばそれまでだが、瞳の色は淡く、そして少女の髪や瞳も非常に色素の薄い色であった。

 シャルム人ではない。

 ――大陸の北方には、このような容姿の者が多いと聞いたことがある。


 詮索するつもりはないが、先程の若者たちに「魔女」などと言われていたのは、二人のこの容姿のせいだろうかと、アベルは思った。


 ところでアベル自身も、淡い金糸の髪と水色の瞳、透き通るような肌の持ち主だ。アベルのような風貌の者はむろんシャルム人にもいるが、どちらかといえばローブルグ人に多い。

 けれど、目前の老婆や少女ほど淡い髪色――金色というよりは銀色と呼ぶべき髪の色は、やはり大陸の南方に位置するシャルムやローブルグでは珍しかった。


 老婆はなにかを感じとろうとするかのように目を細め、そして、扉が閉まれば別れを告げようとしているアベルを呼び止めた。


「旅の方」

「……なんでしょう」

「今夜は、なんだか不安で眠れそうにないのですよ。どうか一晩だけ、ここへお泊りくださいませんかね」


 思わぬ願い出にアベルが驚いていると、ミーシャが慌てて老婆の背中に声を投げかけた。


「おばあさま、これ以上はご迷惑よ。旅の方もお困りになっているわ」


 だが、老婆は孫の言葉が聞こえぬ風情で、アベルに再び頼みこむ。


「どうですかね、簡単な夕飯なら用意できるし、温かい布団もあります。どうか年寄りを助けると思って泊ってくださりませんか」

「だからもう、おばあさまってば! 無理を言ってはだめよ」

「無理かどうかは、聞いてみなければわからないだろう? まだ返事をもらっていないのだから」

「そんなふうに言われたら、断りにくいに決まっているでしょう?」

「それは旅の方が決めることさ」


 アベルは笑った。

 そしてうなずく。

 どのみち、アルクイユの街なかで宿探しをすれば苦戦を強いられるだろう。二人のことも心配だ。アベルにとっては断る理由のない話だった。


「厚かましい願いで恐縮ですが、一夜の宿をお借りしてもよろしいでしょうか」


 なにやらひそひそと言い争っていた少女と老婆が、いっせいにアベルを向く。

 一瞬の間をおいて老婆は微笑み、少女は申し訳なさそうに頭を下げた。









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