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 うつむいていた女中メイドは顔を上げ、自分が呼ばれたのかどうかわからず、目をまたたかせる。なかなか整った目顔立ちの娘であり、まだ十五、六歳ほどであろうと思われた。


「おまえだ、ぼんやりするな。前へ出ろ」


 おずおずと前へ出た女中は、頭を下げる。


「殿下、ご用でしょうか」

「上の女中服を脱いで、音楽に合わせて舞え」

「は――?」


 娘は瞳を大きく見開き、ぽかんとした。


「聞こえないのか。その堅苦しい服を脱げと言っている。舞って私を愉しませろ」


 驚いたのは、命じられた娘だけではない。

 ――カミーユは自らの耳を疑った。

 ジェルヴェーズの下した指示が、理解できない。

 この男は、いったいなにをこの女中に要求しているのか。

 踊り子でも、商売女でもないこの生真面目そうな若い女中に、これだけの数の近衛兵や使用人らの前で、なにをしろと。


 室内に訪れたおそろしいほどの静寂は、鼓膜を破ってしまいそうだった。

 金縛りにあったように、娘は立ちつくしている。


「早くしろ、食事が終わる」


 子羊肉を小さく切り刻みながら、ジェルヴェーズは命じた。子羊肉を切り裂くことと、この娘の心を切り裂くこととは、彼にとって同じ程度のことであるように。


 しばしの間をおいて、小さな声がした。

 震える声だった。


「……できません」


 まるで聞こえていないかのように、ジェルヴェーズは肉を切りつづけている。

 ナイフが食器と当たる音だけが、室内に響く。


 しばらく肉を切り刻んでいたジェルヴェーズだが、ふと顔を上げ、


「なにか言ったか」


 と尋ねた。

 娘の顔がまたたくまに蒼くなっていく。


「もう一度だけ死なずにすむ機会をやろう。なにも裸になれと言っているわけではない。堅苦しいお仕着せを脱いで舞えと言っているだけだ」


 うつむいた娘の肩が震え、ぽつりと小さな水滴が絨毯のうえに落ちた。

 ゆっくりと手が動き、首元のリボンをほどく。それから両手で背中の留め具を外していくと、白いシュミーズが露わになった。

 だが、できたのは、そこまでだった。


「……お許しください、このような大勢のまえでは……それに、踊りも知りません――」


 うずくまり、女中は涙を流して懇願した。


「後生でございます。どうかお許しくださいませ」

「そうか」


 表情は乏しかったが、そのなかにも忌々しげな色を垣間見せながら、ジェルヴェーズは女中から視線を外す。それから再び近衛兵や使用人らの並ぶほうへ顔を向けると、そのうちのひとりに声をかけた。


「おまえ、この女を宮殿の外へ連れていけ。そこで殺してこい」


 悲痛な叫び声があがる――死を宣告された娘の喉からあがったものだ。

 食事の匂いと泣き声が、部屋を埋めつくす。


「なにをしている、早く殺してこい。それとも、おまえが死にたいか」


 ジェルヴェーズに指名されたのは、まだ年端のいかぬ少年――ほかでもないカミーユだった。


 皆の意識が自分に向かっているのを強く感じながら、カミーユは歩み出る。

 ノエルの心配そうな視線を背中に受け、内心で詫びた。

 王族の命令に従うことはシャルム貴族としての務めである。

 だが。


 ……自らの正義に反することを、カミーユは行うことができなかった。


 地面に伏して泣く女中のそばに片膝をつくと、己の上着を脱ぎ、寒々しい彼女の肩にかけてやる。娘は驚き、泣くことを忘れて顔を上げカミーユを見た。


 だが、カミーユはもはや娘を見ていない。その場でジェルヴェーズに向かって跪き、そして言い放った。


「殿下、私は貴方の命に従えません」


 部屋に漂う空気が、先程よりも張りつめたのがカミーユにもわかる。


 ジェルヴェーズは食事する手を止め、両腕をすっと机のうえに置いた。

 そして目を細めてカミーユを見やる。


「従わないだと?」


 まっすぐにジェルヴェーズを見据えながら、カミーユは答えた。


「従えません」

「…………」

「この女性ひとがなにをしたというのでしょう。他人の前で女中服を脱ぎ、舞など披露したくないと思うことは、女性として当然のことです。それなのに殺されなければならないなんて、私は納得ができません」


 カミーユが訴えているあいだ、ジェルヴェーズは眉間を寄せていただけだった。

 だが、話が終わると同時に立ちあがり、そして一拍の間をおいて卓上の食器を無造作に払いのけ、地面へ落とした。


 だれもが息を呑んだ。


 絨毯があるため、大きな音は立たない。

 代わりに、スープが絨毯の上に濃い染みをつくった。


 これから起こる惨事を想像できない者はいない。

 それでもカミーユはジェルヴェーズから視線を逸らさなかった。


 ――自分は、間違っていない。


 強い気持ちが、カミーユを衝き動かしていた。

 女性を守りたいと願う気持ちは、カミーユにとっては姉を想う気持ちと強く繋がっている。

 この想いだけは譲れないのだ。


 つかつかとジェルヴェーズはカミーユの前まで来ると、立ち止まり、そして尋ねた。


「名は」

「カミーユ・デュノアです」

「年は」

「十四です」


 ジェルヴェーズは、口端を歪めて酷薄な笑みを浮かべた。


「カミーユ・デュノア――親につけてもらった名に、別れを告げるがいい。短い命だったな」


 そう言って、長剣を抜き放つ。

 そのときだった。

 ノエルが耐えきれずに前に進み出たのと、部屋の扉のひとつが開いたのが、ほぼ同時だった。ノエルは即座にカミーユの横に跪き、そして深く頭を下げる。


「ノエル、なんの用だ」


 ジェルヴェーズの冷たい瞳が、近衛騎士隊副隊長のノエルを射る。


「恐れながらジェルヴェーズ殿下、これは私の従騎士についてひと月も経たぬ者です。まだ己の立場をわきまえておらぬ若輩者。命だけはどうか――」

「おまえの従騎士だと?」


 そのとき、たしかにジェルヴェーズを取り巻く空気が変化した。

 ノエルの従騎士――それは、彼の最も信頼する者がかつていた立場である。身分の低い者ではノエルの従騎士にはなれないはずであった。けれど「デュノア家」など、耳にしたことがない。


「殿下、私からもお願い申しあげます」


 そのとき、もうひとり、王子の前に跪いた者がいた。


 優雅な雰囲気をまとった若い騎士。

 それは今しがた入室したばかりの人物――ブレーズ公爵家の嫡男であった。


「フィデール」


 ジェルヴェーズが意外そうに名を呼んだときには、その瞳から怒りはほとんど削がれていた。ノエルについていた従騎士で、彼が最も信頼する者とは、この男のことである。


「遅かったではないか。私を退屈させたうえに、子供の命乞いか?」


 相手を詰りながらも、ジェルヴェーズの声には愉快そうな響きがあった。


「大変申し訳ございません」


 フィデールの謝罪に対して小さく鼻で笑ってから、ジェルヴェーズは見慣れぬ少年騎士を一瞥した。


「それで? この子供を、おまえたちが助けようとする理由を聞こうか」

「ご紹介が遅れましたが、この少年は、父ブレーズ公爵の妹で今はデュノア家に嫁いでいるベアトリス・デュノアの子です。私にとっては従兄弟、叔父ノエルにとっては甥にあたる者。どうか、国王陛下と殿下に生涯の忠誠をお誓いしたブレーズ家に免じ、この者をお許しください」


 黙すジェルヴェーズの前で、ブレーズ公爵家の嫡男と、同じくブレーズ公爵の弟であり、王の信頼厚い近衛騎士隊の副隊長が跪き、ひとりの従騎士の助命を嘆願している。

 前代未聞の状況であると同時に、ジェルヴェーズに断る道はなかった。


 剣を鞘に納めると、「もういい」と短くジェルヴェーズは言い捨てる。


「陳謝いたします」


 礼を述べるノエルとフィデールの声が重なった。


「だが今後は、その者の教育を徹底しろ。次はないと思え」


 二人は深く頭を下げたが、カミーユはまだ納得できないでいた。けれどノエルとフィデールの努力を無駄にするわけにはいかない。

 無言でカミーユは視線を床に落としていた。


 本人から謝罪の言葉はなかったものの、少年の気勢を削がれた様子が、かろうじてジェルヴェーズの怒りを抑えたのだろう。


「早くその生意気な面をつまみだせ。フィデール、おまえはこいつの説教がすんだら私の部屋へ来い」


 煩わしげに命じてから、ジェルヴェーズは扉口のほうへ向かっていった。


 引き続き警護をするためにノエルは他の近衛兵を伴いジェルヴェーズのあとを追い、一方カミーユは、フィデールに促されて女中と共に別の扉から部屋を出る。



 扉を閉めたフィデールは女中の姿を一瞥してから、カミーユへ向きなおった。


「カミーユ」


 淡々とした声だったが、そのかすかな響きから、彼が怒っていることがわかる。

 だからこそ、カミーユは先に意見を述べようとした。


「ごめんなさい。ですが、私は間違っていたとは思っていません。この人はなにもしていないのですから」

「…………」


 フィデールの沈黙が重い。


 ……そうなのだ。

 わかっている。

 どのような言い訳をしても、自分はあと少しで死ぬところであったし、叔父と従兄弟に助命してもらったことで、多大な迷惑をかけた。その事実に変わりはない。


「わかっているのだろう?」


 心のうちを見透かしたように、フィデールが言った。

 カミーユはうつむく。


「あと少しで、きみは叔母上をこのうえなく哀しませるところだったんだ。シャンティに続いてきみまでも失くしたら、あの方はどうすればいい? よく考えて行動しなさい」


 カミーユは、うつむいたままだった。


「私の力できみを救えるのも一度きりだ。殿下の言葉どおり、二度目はない。わかったか?」


 うつむいたまま黙りこくっていたが、かすかに――それは確認できるかできないかというほどかすかに、カミーユはうなずく。


 フィデールはカミーユの肩を軽く叩き、それから女中を一瞥してひとりそこから立ち去った。


 一瞥された娘は、身震いする。

 冷たい視線だった。まるで「すべておまえのせいだ」と言っているような――。


「ごめんなさい」


 震える声で、だれにともなく娘は謝罪する。

 すると、そこでようやくカミーユが顔を上げた。


「……謝るなよ」


 ひどく驚いた顔で、女中はカミーユを見つめる。


「きみはなにも悪いことをしていないじゃないか。そうじゃなくて、『ありがとう』って言ってくれたほうが、おれも死にかけたかいがある」


 娘はなにも答えない。

 カミーユは苦笑した。


「なにが正しいかなんて、おれにはわかんないや。でもわかることが、ひとつだけある。それは、あのとき命令どおりにきみを殺していたら、おれは死ぬほど後悔していたってことだ。カミーユ・デュノアは生きながらに死んでいたんだ」


 娘は不思議そうな顔でカミーユの話を聞いている。


「どうせ死ぬなら、自分の信じる道を選んで死んだほうがいいだろう?」

「…………」

「おれは立場に縛られているけど、きみはもうこんなところで働くのはやめて、別の仕事を探したらいい。きみは自由なんだから。おれの上着は明日にでもトゥーサンに返しておいてくれよ。彼は、近衛騎士隊の使う寝所にいるから」


 疲れた顔に笑みを浮かべて、カミーユは女中に背を向け歩きだす。

 その後ろ姿を、女中は最後までなにも語らずに見送った。――『ありがとう』を、言うことができないままに。




 歩きながら、カミーユは考えていた。


 女中に語ったことは、本当はフィデールやノエルに言いたかったことだった。

 わかってもらいたかった。


 だが、わかってもらったところでしかたのないことだとも、カミーユは知っていた。


 彼らは、母ベアトリスから自分のことを頼まれているのだ。どのような信念があるにせよ、どのような事情があるにせよ、カミーユを守らなければならない――そのことはカミーユ自身もよく理解していた。


 母を哀しませたくない気持ちは、カミーユとて同様である。死ぬつもりで先程のような行動に出たわけではない。


「正解」はなんだったのだろう。

 ……自分は、あの憐れな娘を斬るべきであったのだろうか。

 それが正しい道だったのだろうか。


 そうは、思わない。

 思いたくない。


 彼女を殺していたら、いつか姉のシャンティに再会したとき、自分はまっすぐに顔を上げていられないだろう。

 ――シャンティなら、きっとあの娘を助けたと思うから。


 いつのまにか、己の奥底にある小さな、だが確固たる理念は、あの強く澄んだ眼差しを持つ姉の影響を強く受けていたのだと、カミーユは気づくのだった。








+++









 ベルリオーズ領の中心都市シャサーヌの街外れ。


 高さのある木組みの建物が途絶え、代わりに石や煉瓦で建てられた低い民家が、長閑のどかな雰囲気を醸し出している。家々の庭先では、林檎の木が蕾をつけて、開花の春を待っていた。

 雛罌粟ひなげしの花が咲く草原くさはらのうえで、鶏はしきりと首を細かく動かしながら地面をつつき、放たれた馬が草を食んでいる。


「本当か?」


 普段は静かなこの場所に、大きな声が響いた。

 驚いた鶏が、羽根をばたつかせて飛び上がる。それを騎士は横目で見やったが、民家の主は気にとめなかった。


「十五歳くらいの、細身で金髪の少年でしょ。騎士様、うちにはそんな人、来ていませんよ」

「言わないように口止めされているのではないのか? 別に罪になどならないから、正直に答えてごらんなさい」


 民家の主に、体躯のよい騎士が話しかけている。声は大きいが、その騎士は威圧的ではなく、むしろ気位の高い貴族とは思えぬほど気さくな様子だった。


 鶏は、落ち着かない様子で、足早にあたりを歩き回っている。


「おかしなことをおっしゃらないでくださいまし。本当に来ていないんですよ。この数日のあいだで馬を買いに来たのは、焦げ茶色の髪で、口髭のある無愛想な旅人だけ。最近、客が少なくてね」


 民家の主はそう言いながら、大きく首を横に振った。


「そうか」


 騎士は溜息をつく。


「時間をとらせたな。もし、私が言ったような少年が現れたら、連絡をくれ」

「もちろんですよ」


 民家から離れて、騎士は自らの馬に跨った。アベルを探す、ベルリオーズ家の騎士ラザールである。


 彼はアベルを捜索するにあたり、まずはシャサーヌにある宿という宿を訪ね歩いたが、アベルの姿はなかった。ならば馬を入手してどこかへ向かったのかと、馬を扱う商人や、馬を飼育している者の家を回ったが、どうやらアベルに馬を売った者はこの街にはなさそうである。


 こうなると、どこかの民家に住まっているのか、それとも徒歩でどこかへ向かったかの、どちらかなのだが。


 さて、どこでなにをしているのやら。


「まいったな」


 まったく糸口のつかめぬラザールは、途方に暮れていた。









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