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「アベルが、いない?」


 若者たちが旅立った日の、翌朝。


 ――ベルリオーズ公爵クレティアンの書斎。

 白い陽光が差し込むこの部屋で、主の前に跪いているのは、よく鍛え上げられた体躯の騎士である。ラザールはアベルが姿を消したことを、すぐさま、ベルリオーズ公爵に報告しに行ったのだ。


「は、館の敷地内にはいない様子」

「いつからだ」

「昨日の日中は、書庫の整理をしていたはずなのですが」

「『はず』と言うが、それは確かなことか」


 問われて、ラザールはふと心のなかで首を傾げる。


 考えてみれば、「今朝から書庫の整理をはじめています」というアベルの走り書きが、ラザールの朝食の席に置いてあっただけである。アベル本人は朝から皆の前に姿を現していなかった。


「そのように聞き及んでいただけでございます、公爵様」


 ラザールは正直に答えた。


「ということは、昨日一日、だれもアベルの姿を見ていないということか」

「……さようでございます」


 クレティアンは眉をひそめた。


「だれかに襲われたか、もしくは連れ去られた、ということはないのか」


 彼は最悪の事態を懸念したのだが、ラザールはそれを即座に打ち消す。


「部屋は整えられた様子があります。争った跡もありません。私に残された書置きといい、おそらく自らの意思で行動したものと考えられます」


 口髭をつまみながら、クレティアンは「なるほど」と納得したが、すぐに次なる疑問を投げかけた。


「そうするとアベルは、どこへ行ったというのだ?」

「……私には、わかりかねます」

「かまわない、ラザール。おまえの意見を隠さずに言ってみなさい」


 わずかにためらいを見せつつも、ラザールは口を開いた。


「アベルは――、王都へ赴くリオネル様のお供をできないことを、非常に残念がっていました。ついには、へそを曲げて、館を出て行ってしまったのではないでしょうか」

「へそを曲げてか……」


 クレティアンの顔に浮かびかけた笑みが、だが、形にならずに消える。


「どのような理由にせよ、困ったことだ。リオネルは、あの少年をことのほか大切にしている。アベルの身になにかあればリオネルは心を乱すだろう」

「すぐに使いを出し、リオネル様にお知らせしますか」


 アベルが危険な目に遭うまえに、事前にリオネルに知らせて対策をとったほうがよいのではないか。このようなラザールの提案に、クレティアンは即座に返事をしなかった。


 クレティアンは顎に手をあてたまま床を見つめ、それから視線をラザールへ移し、次に窓の外へ、最後に最愛の妻の肖像画を見上げて溜息をつくと、うつむき首を横に振った。


「いや、その必要はない」


 聞こえてきた言葉に納得できず、ラザールは黙してしまう。

 ラザールの心情を察したのか、クレティアンは繰り返した。


「知らせてはならない」

「は……」

「リオネルがこのことを知れば気を揉むだろう。王宮へ行き、五月祭を過ごし、そして戻ってくるまでのあいだ案じ続けていては、いくら気丈であろうとも身が持つまい」


 ラザールは頭を垂れたまま、二度まばたきする。

 それも親の愛かもしれぬとは思ったが、やはりリオネルにアベルのことを知らせぬというのは釈然としない。


「最悪の場合、リオネルはここへ戻ってきてしまうかもしれない」

「まさか、そのような」

「リオネルならありうる。あれは、外見以上に、内面がアンリエットに似ているのだ」

「……なるほど」


 そこでラザールは、はじめて少しばかり納得がいった。

 だれよりも優しいのに、一度決めたことはけっして曲げず、己の信念に対しては一切の妥協を許さぬ亡き公爵夫人の姿を思い浮かべると、公爵の言っていることもわかるような気がしてくる。


「事を大きくする必要はない。アベルとて考えなしの阿呆ではあるまい。むざむざ命を危険にさらすようなことはしないだろう」


 そこで言葉を切ってから、クレティアンは臣下へ視線を向けた。


「かといって、放っておくわけにもいかないことはたしかだ。ラザール、そなたはアベルがどこへ行ったのか、なにか手掛かりになるようなものはないか探しなさい」

「リオネル様を追って、王都へ赴いたということはありませんでしょうか」

「それは、私も考えた。だが年端のいかぬ少年が、単身でリオネルを追いかけてなにができる? 王宮には入れぬし、例え合流できたとしても、リオネルはけっして彼を伴うことはないだろう。常にリオネルのそばにいるのだから、そのことがわからぬアベルではないはずだ」

「そのとおりですね」


 うなずいたラザールに、ふと公爵は思い出したように尋ねる。


「ラザール、ところでそなたはアベルと共に書庫の整理をするよう、リオネルから命じられていたようだが、書庫は片付いていなかったか」


 ラザールは深く頭を垂れて、答えた。


「……か、かなり混沌とした状態でした」

「…………」


 頭を下げていたために、主人の訝る視線をまともに目にしなくてすんだことは、ラザールにとり幸運なことだっただろう。



 かくしてラザールは、ほぼ形式的な書庫の整理と同時に、全力でアベルの捜索を開始することとなった。









 同じころ、リオネルらは豪華な朝食を終え、城主が「いま少しゆっくりなさっては」と引きとめるのをやんわりと断り、馬車に乗りこんだところだった。


 前日の昼に出発したものの、ベルリオーズ公爵領は広大であり、また馬車の旅は時間がかかるので、未だに領内からは出ていない。


 昨夜から今朝にかけて滞在したのは、ベルリオーズ家に仕える身分の高い騎士の館である。その騎士の名をボーカンといい、シャサーヌからノートル領西端に至るまでのちょうど中間あたりに位置する地域の管理を任されている。


 今回の旅でリオネルらが使用している馬車は、壮麗かつ優美な装飾がほどこされているうえに、ベルリオーズ家の紋章が印されているものである。

 かように目立つ馬車では、勝手気ままに小さな町村の旅籠に寄るわけにもいかないため、王都に到着するまでは、国王の招待を受けた賓客として各地にある貴族の館で夜を過ごさねばならないのだった。


 こういった事情があって、昨夜もボーカンの居城に泊まったというわけである。


 実のところ、リオネルとしては身分を隠して地方の旅籠に泊まるほうが気楽でよいのだが、今回はそういうわけにもいかなかった。


「それにしてもボーカンは酒が強かったな」


 馬車が走りだしてすぐ、ディルクは気分が悪そうに窓の外を見てぼやいた。

 城主に勧められるままに強い酒を飲んでしまい、二日酔いなのである。


「彼はベルリオーズ領内にいる貴族のなかでも、五本の指に入る酒豪だからね」


 やや気の毒そうにリオネルは説明した。

 一方、ディルクは馬車が揺れるたびに顔をしかめ、ときおり胸元を押さえている。


「そういうことは先に言ってくれ。知っていたら、酒を断っていたのに……ボーカンの酒の進み具合にすっかりこちらは調子を乱されたよ。ああ、気分が悪い」


 困り顔のリオネルがなにか答えるまえに、ディルクへ言葉を投げかけたのはマチアスである。


「ボーカン殿の酒を断らなかったのは、ディルク様ご自身ではありませんか。旅の初日からそのような調子でいかがなさるのです。道中、リオネル様にご迷惑をおかけしないよう、ご自戒なさいませ」


 大変に厳しい言葉である。ディルクにとってマチアスは、従者というよりは口うるさい目付役といった存在だ。


「しかたないだろう。リオネルは同じ量を飲んでいたんだぞ。おれだけ酒を断るわけにはいかないじゃないか。ああ、おまえの小言のせいで余計に頭が痛い」


 体調が悪いせいもあって、ディルクはいつになく不機嫌である。

 だが、それにかまわずマチアスの厳しい言葉は続いた。


「リオネル様は、ご自身の身体のことをよく御存じなのです。リオネル様が昨夜の貴方のように、眠りこんでしまうまで酒を召されたことがありますか?」

「『底なし』なだけじゃないか」


 ディルクは苛立たしげにマチアスを睨んでから、助けを求めるようにリオネルを見やる。


「そうだろう、リオネル? ベルリオーズの五本の指に入る酒豪のだれよりも、おまえは酒が強いだろう」

「さあ」


 首を傾げながら、リオネルは苦笑した。

 たしかに、生まれてこのかた、酒そのものに「酔った」ことはない。それを「酒が強い」というなら、そうなのかもしれないが、けっして普段から浴びるように酒を飲んでいるというわけではないので、はっきりとは答えようがなかった。


「リオネル、おまえ意外と薄情なやつだな」


 ディルクが渋い顔で親友を眺めやる。

 それを前にして、リオネルはさらに苦笑を深めた。


「ごめん、いや、あまり考えたことがなかったから。とにかくディルクは、ゆっくり過ごしたほうがいい。気分が悪かったら、馬車を停めて休もう」

「ああ、ありがとう」


 親友の気遣いをありがたく受け止めつつ、すぐ隣から感じる従者の冷たい空気に、ディルクは頭痛がひどくなってくるような感覚を覚えた。あるいはそう感じたのは、ディルクの自意識過剰であったかもしれないが……。


 ベルトランは外で馬に跨り、他の騎士らと共に馬車を守っている。

 一方マチアスは、車内で二人を守る役目を負っていた。


 これまで常にリオネルのそばにいたアベルは、いない。

 今頃は膨大な書庫の本を整理しているはずであった。


 ――アベルがいないと、なにかが欠けているような気がする。


 それは馬車のなかにいる三人、そして、外にいるベルトランにとっても、同様に感じられることだった。


 例えばレオンならば、近くにいなくても不思議と違和感を覚えない。いつでも再び会えるような気がするのは、共に修業した日々があるせいか、もしくは彼には他人に不安を感じさせぬなにかがあるのか。


 だが、アベルは違う。


 二年前、突然彼らの前に現れたアベルは、目を離したすきに、気がつけばまたどこかへいなくなってしまいそうだった。


「アベルは、元気にしてるかな」


 外の景色を眺めながら、リオネルはつぶやく。


 幾重にも連なる丘と森、長閑な田園風景が馬車の窓枠に縁取られ、一枚の風景画のようだ。牧草をはむ羊たちの群れが、広大な大地に浮かんだ雲のように見えた。


「なにかあれば知らせがくる。大丈夫だよ」


 遠い場所を見つめるリオネルの横顔に、ディルクは励ますように語りかけた。


 だれも、「離れてまだ一日も経っていないじゃないか」などとは口にしない。皆が、館に残してきたアベルのことを案じていたからである。

 いつのまにかあのまっすぐで澄んだ瞳の少年――否、少女は、ここにいる若者らにとり、なくてはならない存在になっていたのだ。


 リオネルは胸がざわつくような気がして窓に外へ目を向ける。

 昨夜の酒は、まったく身体に残っていない。それなのに、鼓動がいつもより早いような気がした。


 出立前夜に会ったときのアベルの姿が、目に焼きついている。

 唇に触れた、羽根のように柔らかいアベルの髪の感触。


 ――わたしも、リオネル様と共に春を祝いたかったです。


 そう言ってくれたときの声。

 すべてが、甘く切なくリオネルの胸を埋めつくす。


 父や、勇敢な騎士らのそばで、愛しい少女が何事もなく過ごしていることを、リオネルは心のなかで祈った。







+++








 カミーユが彼を見かけた回数は、すでに片手で数え切れぬほどであったが、これほど間近に見るのは、初めてのことである。


 食欲をそそる香りがする。

 焼き立ての子羊肉と香辛料の匂いだ。民衆の手からは程遠い、特権階級だけが知る香りであるが、この宮殿内では日常的なものであった。


 豪華な食事は、第一王子ジェルヴェーズのために用意されたものだ。

 日もとうに暮れた時分の夕餉である。夜勤の者でないかぎり、城内の多くの者はすでに就寝している時間だった。


 なぜジェルヴェーズがこのような時分に食事をとっているのかカミーユにはわからなかったが、隣に立つノエルはおそらく事情を知っているのだろう。


 この部屋で食事をしているのは、ジェルヴェーズただひとりである。

 王族は、たとえ通常の食事の時間帯であっても、普段は家臣らと同じ食卓を囲まない。

 正騎士隊に所属する騎士は騎士館の食堂を、宮殿に常駐する騎士は宮殿内の大食堂を利用する。王族と同席できるのは、一部の高位の貴族か賓客だけだ。


 カミーユがこの日、王族が食事する部屋に立ち入ることができたのは、彼らを警護するノエルの「お付き」としてであったが、と同時に、この時間の晩餐というのは変則的なものであるため、近衛兵の数が足りず、その穴埋めとして起用されたのであった。


 近衛兵は部屋にある三つの扉の脇で王族を守り、また、壁際にはずらりと使用人らが居並び適宜、主人の身の回りの世話や給仕をしたり、指示や命令に備えたりしている。


 この空間において主役はジェルヴェーズただひとりであり、他の者はけっして私語を交わしたり、ましてや食べ物を口に運んだりしてはならず、ジェルヴェーズの身辺を警護し奉仕するだけの存在であった。



 部屋の中央に据えられた装飾美しい楕円形の食卓で、ジェルヴェーズは気だるそうに食事をとっている。その様子を、カミーユは扉の脇に立ったまま観察していた。


 顔はなるほど、兄弟であるだけあってレオンと似ているところもある。

 だがその瞳に浮かぶのは、レオンの瞳には見ることのなかった、他者を見下すような冷たく傲慢な色だった。


 使用人を呼びつけ、ジェルヴェーズは次のように命じた。


「退屈だ、だれかおれを愉しませる者を――そうだ、道化師を呼んでこい」

「今、城にはピエール・ヴァンサンしかおりませんが、よろしいでしょうか」


 頭を下げながら、使用人が確認する。

 するとジェルヴェーズが嘲るように言った。


「ピエール・ヴァンサンだと?」

「は、はい……」

「本気で言っているのか? あの男はおもしろくない。レオンは気にいっているようだが、あいつはどうかしているのだ。常識的に考えろ。ヴァンサンの他にはいないのか」

「申しわけございません。すぐに城外へ呼びにいかせましょう」

「呼びにいくだと? そのあいだに食事が終わるぞ」


 明らかに王子の声に苛立ちが混ざりはじめたので、使用人はいっそう恐縮した。


「浅はかなことを申しあげました」

「まあいい。では楽師はいないのか。楽師を呼べ」

「かしこまりました」


 使用人はすぐに下がり、深夜の音楽会の準備にとりかかった。

 二人のやりとりを、皆が微動だにせず見守っていたが、そのことにカミーユには違和感を覚える。


 ――だれもなにも感じていないのだろうか。自分は、ジェルヴェーズの言動のひとつひとつに、反感を覚えてしかたがないというのに。


 しばらくして、寝ているところを叩き起こされた楽師たちが揃い、楽曲がはじまった。

 つい先ほどまで眠っていた者たちが奏でているとは思えぬほどに、美しい音色である。


 これでジェルヴェーズの退屈も紛れると皆が安堵したとき、思わぬ追加の指示が下った。


「踊り子はいないのか。音楽だけではつまらない」


 先程の使用人が、身を硬くして返答する。


「宮殿内にはおりません」

「踊り子でなくともいい。なにか芸のできる美しい娘はいないのか」


 宴の席や祭りなどではあらかじめ踊り子を呼んでおくが、彼女らを普段から城に住まわせているわけではない。このような時分に突然「芸のできる美女」を所望されても、それは無茶というものである。

 中年の使用人が答えうる言葉は、やはり次の台詞くらいしかないのであった。


「街へ呼びにいかなければ、そのような者は――」


 言いかけたところで、使用人は顔を背けて黙りこむ。ジェルヴェーズが手にしていた葡萄酒の杯が、彼の頭に投げつけられたのだ。


 静かだった室内がさらにひっそりとし、この部屋だけではなく、宮殿内の時間がすべて止まってしまったかのような感覚にだれもがとらわれる。


 カミーユは、自分が呼吸する音さえ、周囲に響いているような気がした。


「街へ呼びに行っているあいだに、食事が終わるとさっき言っただろう、この腑抜け!」

「は、申しわけございません」


 葡萄酒に濡れた髪や額には血の色が混ざりはじめていたが、使用人はそれを拭うことなく、項垂れていた。


 腹立たしげに「下がれ」と命じてから、ジェルヴェーズは使用人らの居並ぶ壁際へ視線を向ける。使用人のうち半数は女中であり、さらにその半数は若い娘であった。

 若い女中のひとりに視線を留めると、ジェルヴェーズは、


「そこのメイド


 と顎で娘を呼んだ。








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