3
アベルはその日の朝、普段の彼女からは想像できぬほど早い時間に起きだした。
朝が弱いのは、以前と変わらない。
だが、この日ばかりは事情が違った。
ためらいなく布団をはねのけ、寝台を下りると、顔を洗い、服を着替える。
その最中、上着を脱ぎ、露わになった彼女の首元には、水色の宝石が朝露のように澄んだ色を放っていた。
リオネルからもらった首飾りだ。
上衣の留め紐をすべて結び終えると、首飾りは完全に姿を隠す。
それから、そもそも私物が少ないため散らかりようのない室内を、それでもきっちりと整え、最後に小さな革袋を手にとった。
右手で革袋ぎゅっと握りしめながら、アベルは昨夜のことを思いだす。
リオネルがこの部屋を訪れたのは、アベルが就寝する間際のことだった。
その時点では、まだアベルは完全に決断できないでいた。
少なくとも、衝動的な思いはあっても、計画的なものはなかったのだ。だからこそリオネルに見抜かれずにすんだに違いない。
もしアベルが昨日の時点で完全な計画を立てていたとすれば、リオネルのまえでそれを隠しきることはできなかっただろう。なぜなら、彼に対して隠し事はできないからだ。
あの深い紫色の瞳は、なにもかもを見抜いてしまうような気がする。
だからだろうか。
彼のまえでは、嘘がつけない。
昨夜、扉は遠慮がちに鳴った。
一瞬、その人の顔が脳裏をよぎったのはたしかだが、確信していたわけではない。なにしろ急な出立を明日に控えて、彼はとてつもなく多忙なのだから。
だから、開けた扉の向こうにリオネルが立っていたとき、アベルは非常に驚いたし、意外でもあった。
自分のところになど来る時間があるのならば、一刻も早く旅支度を終え、明日に備えて寝るほうがよほど賢明な行動だと思ったからだ。
なにより、話すことなどなにもなかった。
話したくなかったのだ。
口を開けば、かわいげのない、生意気なことばかりを言ってしまいそうだった。
リオネルが、今回の旅にアベルを伴わないという決断をけっして変えぬことを、アベルはよくわかっている。
ならば、話はどこまでも平行線――。
溝を深めるための会話なら、しないほうがましだ。
だから、リオネルの顔を見て、アベルはうつむいた。
そのとき彼がどのような表情をしたのかはわからない。
『アベル、少しいいか?』
優しい声音だった。
わずかに視線を上げ、アベルは主人を部屋へ通す。
リオネルはベルトランを伴ってはいなかった。
小さな卓を囲んでいる椅子のうちで、暖炉に最も近いものに座るよう勧めたが、リオネルは首を横に振って、アベルの前に立った。
なにか用でもあるのだろうかと、アベルは遠慮がちにリオネルを見上げる。
心のなかでは、どうしようもなくわだかまった気持ちを抑えつけながら。
『その――』
言いづらそうに、リオネルは口を開いた。
こういうとき、本当ならリオネルはアベルをかき抱き、「愛しているから、連れていけないんだ」と訴えることができればよかっただろう。そうすれば、言い訳よりもなによりも腕に込める気持ちだけで、なにかが伝わるはずだからだ。
だが、それができないがために、彼は言葉を探さねばならなかった。
『アベルにこんな思いをさせてすまない』
『…………』
『わかっているつもりだ。きみが、自分の体調を整えるより、おれの警護に就くことを望んでいてくれていることは』
アベルは、色の濃い絨毯のうえへ視線を落とした。
そこに描かれた唐草模様が、ぼんやりとアベルの目に映る。
次の言葉を探すことができず、リオネルは口をつぐんだ。言葉を続ければ、言い訳だけを並べ立てることになる。
一方アベルも、「そう思うなら、連れていってください」とは言わなかった。
不毛な会話に発展するだけだと、知っているから。
別れの前夜に言い争い、優しい主人を哀しませたくなかったから。
そのことが、自分を苦しめることになるということも、わかっていたから……。
『アベル』
しばらくして、リオネルは再び語りかけた。
その声があまりに寂しげに聞えたので、思わずアベルは顔を上げて、相手を見上げる。
そこには、胸をしめつけられるほどに、深く美しい紫色の瞳があった。
『王宮への招待は名誉なことだが、おれにはひとつ残念なことがあるんだ』
見返す眼差しだけで、アベルはその答えを尋ねる。
『それは』
左から受ける暖炉の熱が、リオネルの左頬をあたため、かすかに赤く染めている。
『シャサーヌの五月祭に、アベルと一緒に行けなくなったことだ』
アベルは水色の瞳を大きく見開いて、リオネルを見つめた。
思いも寄らない言葉だったからだ。
『……五月祭、ですか?』
初めてアベルは声を発した。
今宵、ようやく聞けた恋しい相手の声に、リオネルの表情も和らぐ。
出立前に、アベルの笑顔を見ることができないどころか、声さえも聞けないかと思っていたところだった。
『そう、アベルを案内したかったんだ。そして、いっしょに祝いたかった――この街に訪れた春を』
『――――』
アベルは言葉を失った。
リオネルの言葉に、少なからず驚き、そして心を揺さぶられる。
本当なのだろうかと思うほど、それは信じられない言葉であり、また、頑な気持ちでいたことが恥ずかしくなるほど、素直な言葉だった。
『言いたかったことは、それだけ……なんだ』
最後にそう言った相手の口調に、どこか迷いがあるように感じられたのは、アベルの気のせいだっただろうか。
なにも言えないでいるアベルを見つめるリオネルの眼差しは、どう例えてよいかわからぬほど深い色をたたえていた。
なにかを断ち切るように瞳を細め、
『夜遅くにすまなかった』
とリオネルは、踵を返す。
彼が扉の取手に手をかけたとき、アベルはリオネルの背中に向かって小さな声を投げかけた。
『わたしも――』
リオネルが振り返る。
『わたしも、リオネル様と共に春を祝いたかったです』
ようやくそう告げたとき、なぜだかアベルは泣きそうになって、唇を噛んだ。
どうして泣きたい気持ちになるのだろう。
自分でも、わけがわからない。
取手から手を離し、リオネルはもう一度アベルに向きあう。
『ありがとう』
切ないほど柔らかくほほえんだリオネルは、
『アベルのその言葉だけで、おれはがんばることができる』
そう言って、身長差のあるアベルをわずかに引き寄せ、月明りの色をした髪に、軽く唇を寄せた。
それはあまりに淡いくちづけだったために、なにをされたのか、アベルは気がつかない。
少し引き寄せられただけだとしか思わなかったので、不思議そうにリオネルを見上げる。
『リオネル様?』
『おやすみ、アベル』
目をまたたかせているうちに、リオネルは部屋から去り、扉は閉まっていた。
その夜、様々な思いがアベルの胸を占め、なかなか寝つくことができなかった。
決断したのは、そうしているうちに、である。
自然と決意は固くなり、けっして曲げられぬところまでになった。
そうして朝を迎えたのである。
朝陽が昇ろうとするころ。
まだ薄暗い部屋が、朝の湿った冷気に震えている。
まだほとんどの者は目覚めていない。
茶色い革袋を懐にしまい、最後に短剣をズボンの下に隠し、アベルは気配を消して部屋を出た。
革袋には、二種類のお金が入っている。
ひとつは定期的にベルトランからもらう「給金」。――リオネルに仕えるようになり二年が経ち、今やそれなりの金額になっている。
そして、もう一種類は、去年の暮れにリオネルと二人でシャサーヌの街へ行ったとき、リオネルから「預かった」金貨二枚である。
これだけあれば、金に困ることはないだろう。デュノア邸を追い出されたときとは、まったく状況が違った。
最後にちらと部屋を振り返ってから、アベルは静かに扉を閉める。
主を失った部屋は、消えてしまった気配を探るかのように、哀しいほど静かだった。
+
太陽は、この季節で最も高い位置にさしかかろうとしている。
冬が終わり、徐々に濃さを増している水色の空には、大きな雲がいくつか浮かんでいて、太陽を隠したり、現わしたりしている。そのたびに、あたりは影に包まれたり、光で溢れたりしていた。
荘厳なベルリオーズ邸の前庭もまた、光と影を交互に受けて色を変えている。
前庭には、馬車と荷車、そして騎乗した十騎ほどがそろい、彼らの出立を多くの騎士や使用人らが見送りに出ていた。
公爵は、先程居間で息子たちに別れを告げ、今は館内の窓から旅立ちを見守っている。
ほんのりと暖かい風が、ベルリオーズ邸の前庭に吹きつける。
朝夕は冷えるが、日中はだいぶ暖かくなってきているのだ。
大勢に見送られて馬車に乗りこむ間際、リオネルはどうしても気になってしかたのないことを、臣下のひとりに尋ねた。
「アベルは、どうしいている?」
多くの者が見送りに来てくれているが、だれよりも会いたいと望む相手はただひとりの少女である。
彼女の姿が、今朝方からどこにも見当たらないのだ。
リオネルが問いかけた相手はラザールだった。
「朝早くから、書庫の整理をしているようです、リオネル様」
彼の返答は、単純なものであった。
自分が命じた仕事である。それに励んでいるのであれば、喜ぶべきなのだが……。
「そうか」
リオネルは短く嘆息する。
「根を詰めないように、アベルの様子を見守ってやってくれ。無理をして体調を壊したら、王都へ伴わなかった意味がないから」
「承知しております」
恭しく答えてから、ラザールは周囲に聞えぬよう、小声でつけ足した。
「『アベルが居眠りしていても、本の整理ができていなくても、けっして咎めず、好きなように過ごさせる。逆に、がんばりすぎていたら休ませる』――ですよね」
苦笑しながらリオネルはうなずく。
それは、密かにリオネルがラザールに命じておいたことだった。
「心得ております。それにしても、アベルは果報者ですね。リオネル様にこれほど大切にされているのですから」
屈託なくラザールは笑った。
その横で、ベルトランが咳払いをする。
「……では、出発しようか」
リオネルは馬車に乗りこみ、車内で待っていたディルクに声をかけた。
「待たせてすまない」
「あれ? いいのかい、アベルと別れの言葉を交わさなくて」
「いいんだ」
視線を落として、リオネルは言った。
「昨日、話したから」
「そうなのか」
最後にリオネルに確認をとり、馬上のベルトランが御者に合図する。
一目で高貴な者が乗っているとわかる、装飾の美しい馬車が走り出した。
紋章が描かれているので、見る者が見れば即座にベルリオーズ家に連なる貴人を乗せているのだと気がつくはずだ。
今回は、シャルム国王による公式な招待である。途中でリオネルの身になにかあれば、それは王の沽券に係わる。つまり、刺客に狙われる可能性が低いので、堂々と紋章をかかげた馬車を使用できるというわけだ。
馬車のなか、リオネルは目を閉じた。
瞼に浮かぶのは愛する娘の姿ばかりである。
おそらく、この館に戻るまで自分は彼女のことを考えてばかりいるだろうと、リオネルは諦めたような心境になった。
――離れているほどに、気になってしかたがない。
とんでもないほどに自分はアベルに惚れているのだと、リオネルはあらためて思い知るのだった。
若い跡取りと、その親友の青年、そして二人に従う騎士らを送りだした前庭では、喪失感や虚脱感にも似た寂しげな空気が流れていた。
だが、それを一瞬にして吹き飛ばしたのは、ラザールが両手を打つ大きな音だった。
二度ほど手を叩いて、
「さあさ、リオネル様がいないあいだ、しっかり仕事に剣の稽古に励み、公爵様をお支えして、ひと月後には胸を張ってお帰りをお迎えしよう」
と大声で言う。
すると、その場にいた皆の顔に、次第に明るい表情が戻っていった。
使用人や女中らは、
「そうですね、仕事はあとからあとから押しよせてくるのですから。なんやかやしているうちに、リオネル様はお戻りになりますね」
「館を以前より美しくして、お帰りを待とう」
と。
また、勇名名高いベルリオーズ家の騎士たちは、
「鍛錬を積んで、ひと月のあいだにどれだけ腕が上がるか、競争しようじゃないか」
「それは名案だ。お戻りになったリオネル様にご覧にいれよう」
と、口々に言った。
波が引くように、人々が館に向かって流れているときだった。
若手の騎士のひとりが、ラザールを呼び止める。
「ラザール殿、少しよろしいですか」
「なんだ?」
若い騎士は、ある相談をラザールに持ちかけた。
彼が言うには、ラザールの言うとおり鍛錬し、剣の腕を磨きたいのだが、なかなか上達のコツがつかめない。自分の立場でクロードや、ベルトランに教えを請うわけにはいかないし、どうすればよいのかわからないので、この機会にひとつ、ラザールが稽古をつけてはくれないか、と言うのである。
迷った末に、ラザールは若い騎士の願いを聞き入れた。
自分で言った手前、若い者が稽古に励む手助けしてやらないわけにはいかなかったのだ。
「少し書庫に寄ってくる。アベルにひとこと声をかけてくるから、それからでもいいか?」
「もちろんです」
そうして、ラザールは書庫へ向かったが、そこにアベルの姿はなかった。
自室で昼寝でもしているのだろうかと、ラザールはそれ以上アベルを探さなかった。
なぜなら、アベルの馬は厩舎につないであったのを、つい先程たまたま通りかかったときに見ていたからだ。
馬がいるのならば、館のなかのどこかにいるのだろう。
ラザールだけではなく、馬に乗って移動することが常である貴族ならだれもが同様に考えたはずだ。
こうして、アベルの居場所についてさほど深く考えることもなく、ラザールは若い騎士に剣の稽古をつけてやった。
なにやら様子がおかしいとようやく思いはじめたのは、太陽が西に沈んであたりが漆黒の闇に染まり、そして東の空から再び陽が昇ったころのこと。
一度も書庫に現れることなく、昨夜の夕餉にも現れず、一晩中部屋にも戻らず、夜が明けても姿がなく、アベルは霧のように消えてしまっていた。
アベルの馬はある。
騎士館の厩舎からも、馬は一頭も減っていない。
「アベル、もしかしておまえ――」
ラザールは呆然とした。
「…………身一つで、家出か……?」
リオネルに置いていかれたことに反発して、「家出」をしたのだとラザールに思われていたころ。
アベルはとっくに街で馬を買い、シャサーヌの街を出ていた。