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どこまで続くのかわからぬほど長い廊下は、ときに少年に眩暈を覚えさせる。
数え切れないほどの部屋に通じる幅の広い廊下であるのに、隅々まで磨かれた床、埃ひとつない彫刻、瑞々しい花が活けられた花瓶、清潔な絨毯とカーテン、輝く燭台……。
この廊下から、控えの間や客間、応接間などに入ると、彼はほとんど呆然として声も出なかった。むろん、そのような場所で声を出してはならないのだが、たとえ許されていても驚嘆のあまりに声が出ないだろう。
それほど王宮は、もうすぐ十四歳になるこの少年にとっては、現実離れした場所だった。
到着した初日、まるで天国に来たみたいだとカミーユは従者のトゥーサンに言った。
けれど王宮へ来て一週間ほど経つが、デュノア伯爵家の嫡男であり、アベルことシャンティの弟でもあるカミーユは、未だこの広さと雰囲気に慣れることができないでいた。
気軽に話ができる相手がいつもすぐそばにいるわけではない。
唯一頼れる存在であるトゥーサンは普段、カミーユに与えられた一室で待機している。近衛騎士隊副隊長であるノエルに、常に何人もがぞろぞろとついてまわるわけにはいかないからだ。
かくしてカミーユは、日中は特段の用事がないかぎり、トゥーサンに会うことはできなかった。
時間ができれば、ノエルに剣の稽古をつけてもらうし、彼が仕事のときは、同行が許される場所であればついていき、それ以外は単独で稽古や勉学などに励む。
カミーユの場合、他にノエルについている従騎士がいないので、恵まれた環境であるといえば恵まれていたが、共に励む仲間がいないという意味では孤独でもあった。
師であるノエルは、カミーユが想像していた以上に温和で物静かな人物だった。
近衛騎士隊の副隊長ともなれば、どんなにか強面で堅苦しく厳しい人なのかと思いきや、けっしてそうではなかった。母やフィデールに似ているかというと、そういうわけでもないのだが。
少なくとも、柔和な顔立ちである。
どちらかというと目立たず、口数も多くはなく、だがぼんやりとはしておらず、見るべきところはきちんと見て、把握すべきところはきちんと把握しているような雰囲気の男だった。
ノエルの歳は四十二歳。妻帯しており、相手は侯爵家の娘で、シャルム王妃グレース付きの侍女をしている。
一週間前に初めて会ったとき、ノエルはカミーユの顔をしばしのあいだ見つめていた。
不思議そうに見上げる少年に、
『きみは、姉上に似ている』
と、彼はつぶやいた。
それがどうしたのだろうとカミーユは思ったが、ノエルはそれ以上なにも言わなかった。
腹違いの姉であるベアトリスがノエルにとってどのような存在なのか、カミーユにはわからないし、疑問に思うことさえもないのだから、その微妙な空気を読みとることができなかったのは当然のことだろう。
またノエルは不思議なくらい、姪であるシャンティについては触れなかった。
「ここから先は、ひとりではけっして立ち入らないように」
そう念を押して、ノエルはカミーユを廊下の奥へと導いた。
廊下はそこからわずかに狭くなり、また天井も低くなる。
ここへカミーユが足を踏み入れるのは、初めてのことだった。
「この先には、なにがあるのですか?」
「王族の寝室や私室、書斎、それに賓客の部屋だ」
カミーユは息を呑む。王族以外には、選りすぐりの近衛兵と、一部の使用人しか立ち入ることのできぬ場所だからだ。
「賓客とは、どういった方々なのですか?」
「シャルム貴族のうちでも王の覚えのよい者や、他国の王族など、様々だ」
なかには公にできない客なども含まれていたが、そのことをノエルは少年には告げなかった。
「この先には、陛下や王妃様、そしてジェルヴェーズ様及びレオン様両殿下の寝室がある。ここで粗相をすれば、些細なことであっても処罰されることになると覚えておきなさい」
「はい、叔父上」
はじめは彼のことを「ノエル様」と呼んだが、それをノエル自身が「叔父上」でかまわないと訂正させたので、カミーユは言われたとおりにしている。
少年は知る由もなかったが、それは、カミーユの母であるベアトリスとノエルのあいだに、姉弟という以上に、身分差にも近い隔たりがあることをあらわしていた。……少なくとも、ノエルにとっては。
「ここは、レオン殿下のお部屋だ」
一室一室、説明を受けながら歩いていく。
「レオン殿下はいつお戻りになるのですか?」
「あと数日でご到着なさるだろう」
「そんなに早く? まだ討伐から戻っていないのでは……」
不思議そうなカミーユに、ノエルはちらと視線を向けた。それだけが、彼の返事であった。
「ここは上の君のお部屋だ」
その部屋を守る体躯のよい近衛兵が、扉のまえでノエルに敬礼する。
扉の前を通り過ぎたとき、ノエルはわずかに声音を硬くしてカミーユに忠告した。
「カミーユ。もうひとつ覚えておいてほしいのだが」
「はい」
「ジェルヴェーズ殿下は、非常に……気性の激しい方だ。けっして機嫌を損ねるようなことをしてはならない。わかるか」
叔父の顔を見上げ、しばし間をおいてから、カミーユは「はい」と返事をした。
物静かなノエルにしては、なにか強いものを感じたからだ。
甥の返事に、ノエルは一度だけ深くうなずく。
そうして歩いているうちに、ひとつの小さな扉を通りすぎた。
それがどうしても気になり、カミーユはノエルに尋ねる。
「叔父上、この部屋は?」
「…………」
ノエルは答えない。
聞いてはならないことを聞いてしまっただろうかと思い、カミーユは気まずい気持ちになった。
「あの――」
「ここは、ジェルヴェーズ殿下の寵姫が住まわれる場所だ」
「……お妃さまですか?」
「知ってのとおり、殿下はご結婚されていない。寵姫とは、殿下が現在もっともお気に召されている女性のことだ」
「それは、どのような人なのですか?」
再びノエルは口をつぐんだ。
今度こそ答えにくいことであったからだ。
だが、すべてをカミーユに話したのは、それが王宮においてだれもが知っている事実だからだ。いずれ知ることになるのであれば、早いうちに教えておいたほうがよい。
「殿下はひとりだけをご寵愛なさらない。今はブレーズ領から連れてこられたという若い娘御がいるようだが、いつまた変わるのか、私にもわからない」
今度は、カミーユが黙る番だった。
遠くからジェルヴェーズを見かけたことはあるが、話したことはない。「気性が荒い」だとか、「短気」などと聞いてはいたが、これまで、はっきりとしたものを感じていなかった。
だがこの瞬間に初めて、この国の第一王子に対する印象というものをカミーユは抱いた。
「殿下は、騎士の称号を受けているにもかかわらず、女性を大切になさらない方なのですか?」
カミーユの口調は、あきらかに侮蔑と憤りをはらんでいる。
「滅多なことを言うものではない、カミーユ」
「……すみません」
純粋な十三歳の少年が当然抱くだろう感情は、ノエルにもわかっていた。
だが、早いうちに、この王宮における「常識」に慣れてもらわねば困るのだ。困るのは、他でもないカミーユ自身なのだから。
「目を開いたまま、だが、見えないふりをしなければならないものがある」
――むしろ、見えないふりをしなければないことのほうが多い。
そうつぶやいてから、ノエルは王の書斎を指差した。
「ここもそうだ。この奥には、陛下以外は何人たりとも立ち入ってはならない部屋がある」
カミーユが押し黙ったのは、王は王で愛人を囲っているのだと思ったからだ。
だが、それはすぐに否定された。
「その部屋に人は住んでいない。しかし、許可なく近寄ればその場で斬りすてられると思いなさい」
「わかりました」
目を開けたまま、見えぬふりをせねばならないこと。
この王宮にはそれが無数にあるのだと、カミーユは知った。
「もうすぐ陛下の甥御にあたられるリオネル・ベルリオーズ様がご到着なさり、王族としてこの回廊の一室にご滞在あそばされるだろう」
「リオネル・ベルリオーズ様……」
カミーユは、ディルクと共にいた深い紫色の瞳の、優しげな青年を思いだした。
「きみは『国王派』『王弟派』という言葉を知っているか?」
「……はい」
カミーユの返事を確認して、ノエルは小さくうなずいた。
「ならば説明する必要はないだろう」
それ以上このことに関してカミーユがなにかを尋ねることはなかったし、ノエルも余計なことを語ることはなかった。
彼らが通りすぎた小さな扉の部屋には、ひとりの娘がひっそりと暮らしていた。
彼女の名を、クラリスといった。
もとはブレーズ公爵領の片隅で生活していた下級貴族の娘であったが、貧しく、両親を失くしてからは頼れる者もなく、ようやくひとり暮らしけるだけの金も底をつき、あとは死を待つばかりでいたところ、フィデールに見出された。
貴公子然とした領主家の嫡男と話ができること自体、クラリスにとっては信じられないことだったが、彼が彼女に提供した「幸運な話」は、さらに驚くべきことだった。
説得され、連れてこられた先は王都サン・オーヴァン。
そこで与えられた役目は、シャルム王国第一王子ジェルヴェーズの相手になることだった。
たしかに、次期国王となる若者の寵愛を受けられるなら、下級貴族の娘にとってはこのうえない幸運なのかもしれない。
だがクラリスは、けっしてそれが本当に「幸運な話」だと信じていたわけではなかった。
自分がなにを求めて、なににすがるようにしてここまで来たのか、もう彼女自身にもわからない。
すべてが、幻だったような気がする。
当初、ジェルヴェーズは頻繁にクラリスのもとを訪れたが、すぐにそれは途絶えた。
所詮、自分は一時の慰みにすぎないのだということは、わかっていたのだ。
いずれ、ジェルヴェーズが次の相手を見つければ、自分は王宮を追い出されるだろう。
ジェルヴェーズの寵愛が一時的なものだったということを、悲観するわけではない。
だが、こうしてひとりきりで過ごす時間が増えると、なんのために自分はここにいるのか、なんのために自分は生きているのか、ふとわからなくなるのだ。
住み慣れたブレーズ領をフィデールと共に去った日から、なにかが変わってしまった。
否、それよりもっと前かもしれない。
フィデールが目の前に現れたときから、運命は変わっていたのだ。
同じころ、広大な王宮の西方――騎士館近くの鍛錬場では、リオネルの叔父であり正騎士隊を率いる立場にあるシュザンが、副隊長のシメオンと言葉を交わしていた。
軍事教練の休憩中のことである。
騎士たちがいる場所から少し離れた木陰へ馬を寄せ、二人は馬上で話していた。
「宮殿内は、なにやら浮足立っています」
シュザンが跨っているのは、リオネルの髪のように濃く艶ややかな茶色の毛の馬で、一方シメオンが騎乗するのは白に茶の斑模様が特徴的な馬である。
「というと?」
同じ王宮内であっても、ここ騎士館は王族らが住まう宮殿とは離れており、流れている空気感もわずかに異なっていた。
騎士の鍛錬、従騎士の指導に加え、軍事面において王の相談役を務める多忙なシュザンに代わり、シメオンは宮殿内の出来事を報告する。それは、この王宮に住まうものにとって知っておかねばならぬ、非常に重要な情報だからだ。
「リオネル殿が宮殿を訪れることも初めてであれば、ジェルヴェーズ殿下と対面するのも、これが初めてのこと。皆が、どうなることかと戦々恐々としております。お二人の関係次第で、国王派と王弟派の関係はどうとでも変化する可能性がありますから」
考えこむようにしばし黙してから、思考の世界から抜け出そうとするようにシュザンは再び視線を上げた。
「レオン殿下が帰還されることについては、なにか噂されているか」
「貴族らの話題は、もっぱらリオネル殿のことばかりです」
「…………」
シメオンの話を聞き、シュザンはややレオンに同情した。
兄ジェルヴェーズの存在感、また彼とリオネルとのあいだにある因縁があまりに目立つため、レオンの存在はいつも霞んでしまう。彼も一応、この国の王位を継承する権利を有する人物であるのだが……。
貴族らの認識は、ジェルヴェーズとリオネルのいずれかが次期国王になる、ということになっているようだ。
「ディルク・アベラール殿もリオネル殿と行動を共にされているとか。……二の君のご帰還といい、懐かしい方々が揃いますな」
リオネル、レオン、そしてディルクは、シュザンについて共に従騎士として修業し、騎士に叙せられた者たちである。シュザンにとっては三人ともが大切な生徒であり、彼らとの再会を嬉しく思いつつも、複雑な気持ちでいた。
山賊討伐を終えたばかりの三人を王宮へ招くことにどのような意味があるのか、シュザンは測りかねていたからだ。
近頃のジェルヴェーズの態度は、以前と比べて落ち着いている。
そのような彼のそばで度々見かけるようになったのは、「切れ者」と噂されるブレーズ家の嫡男フィデールだ。
フィデールの存在が、ジェルヴェーズの行動に影響を及ぼしているのかどうかは不明だが……。
シュザンは、幾度かフィデール・ブレーズを見かけたことがあった。どのような人物なのかはまだ定かではないが、一筋縄ではいかない、なにか底知れないものを感じたことはたしかだ。
手強い相手が姿を現したような気がした。
ジェルヴェーズとリオネルの対面が、王宮内――ひいてはシャルム国内に、波乱と混乱を巻き起こすことにならなければよいがと願わずにはおれない。
真っ向から国王派と王弟派が対立する事態は、できうるかぎり避けたいのだった。
「しかし、ディルク殿がリオネル殿と共にいることが、今回は両者の対立を深めるかもしれませんな」
「どういう意味だ?」
ついでのようにつけ足されたシメオンの言葉に、シュザンは反応した。
シメオンの言う「両者」というのはむろんジェルヴェーズとリオネルのこと、つまり国王派と王弟派のことである。
「小耳に挟んだのですが……亡くなられたディルク殿の婚約者殿というのは、ブレーズ公爵殿の姪にあたる方だったようで。彼女の死の原因がディルク殿の婚約破棄にあるという噂もあります。もしそれがまことであれば、王の側近であるブレーズ公爵、並びにジェルヴェーズ殿下の寵臣であるフィデール殿にとられては、ディルク殿の存在は甚だ不愉快でしょう」
「なるほど。考えたこともなかったが」
――なかったが、たしかにそのとおりだ。
二年前の経緯を知っているからこそ、シュザンは今まで考え至らなかったが、シメオンの指摘したことはおおいにありうることである。デュノア家令嬢の死が、ディルクの「婚約破棄」のせいだという噂が真実であれば……ではあるが。
シュザンは大きく溜息をついた。
ディルクはリオネルの幼馴染であり、無二の親友である。
そのディルクの存在が、対立する両者の関係を余計に複雑にするかもしれないとは……。
逆にもし――もしも、ディルクの婚約者が生きていて、何事もなくディルクと結婚していれば、ディルクと彼女の存在が「国王派」と「王弟派」を繋ぐ重要な要となったのだろうか。
と、そう想像してみてから、シュザンは首を横に振った。
違う。
そうは、ならなかっただろう。
ディルクには「王弟派」としての迷いはないだろうが、婚約者の娘はどうだろう。両派のあいだに挟まれ、悩み、苦しんだ可能性のほうが高い。彼女が純粋であったなら、純粋であるほどに。
だからこそ、ディルクは相手を苦しませないために、婚約を破棄したのだから。
だが、少女は死んだ。
――死、という言葉によって、シュザンの脳裏に、血に染まって死んでいったカルノー伯爵の最期が浮かぶ。
そして、涙ながらに訴えた伯爵の息子ティエリーの悲痛な訴え。
すべての原因はなんであったのだろう。
なぜ、こうも多くの者が苦しまねばならないのか。
前王の庶子であるエルネストが、正統な後継者であるクレティアンから王座を奪ったことが、すべての発端――諸悪の根源だったのだろうか。
けれどエルネストにしても、しばしば彼のうちにある苦悩が垣間見られることもたしかだ。
では、それ以前に前国王が、若かりしときに女中になど手をつけねばこのような事態にはならかったのか。もしくは前国王が、エルネストを自らの子として認めなければよかったのだろうか……。
すべての発端は、些細なことだったのかもしれない。
わずかな、歯車の「ずれ」。
だがその「ずれ」は、歯車が回るにつれて徐々に大きくなり、今、多くの者の心や命を無残に砕きながら、奇妙な音をたてて軋んでいるような気がした。