第二怪 後編
「た、助けて! 助けてくれ!」
理科室から廊下に出てみると、そこにはなんとも形容しがたいモノがあった。
巨大な餅に首から下が埋まってしまっている若い男性が助けを求めて叫んでいる。
ごく簡単に表現してしまうと、そういう状態だった。
なんだこれ。新手の幻覚だろうか? おかしいな。変なクスリをやった覚えはないんだけど。
あまりにもシュール過ぎる光景に僕の脳みそが情報処理を拒否していると、室長は無造作に巨大な餅に近づく。
「消えろ」
冷たさしか感じさせない声で室長がそう言うと、一瞬で巨大餅は消え去ってしまった。
残ったのは若い男性と……ラジコンか何かの操作装置?
「さてコダマ。コイツが今回の『怪』の仕掛け人だ」
「はい?」
思わず、僕は尻餅をついて放心してしまっている男性を見る。
年齢は……二十代前半ぐらいか? 半袖のワイシャツにグレーのスラックス。
若手の新入社員か、新任教師といった風情だった。
「いやいや。序論から結論までぶっ飛んじゃって意味不明なんですけど。論理展開してくださいよ」
やれやれといわんばかりに室長は肩をすくめる。
「理科室のパンジーちゃんは偽物だ。本物は別の場所に移動させているんだろう」
は? いや、もっと訳がわからなくなってしまったんですけど。
パンジーちゃんが偽物で、本物は別の場所。そして、犯人はこの男性。
うん、わからん。
どうも顔に出てしまったらしく、室長は呆れた目で僕を見てきた。
「なんですか、その目は。室長は専門家だろうし、色々経験してきているからわかるんでしょうけど、僕は初めて関わったんですから大目に見てくださいよ」
「……ふぅ。まあ、仕方ないか。だが、もっと自分で考えてみる必要があるな、キミは」
僕と室長の会話に完全に置いてきぼりにされてしまっている男性はポカンとした様子だった。
それを室長が鋭い目でねめつける。
「……今回の肝は『なぜ標本が動いたのか?』だ。ホルマリン漬けにされてしまっている標本が動くはずがない。そして、破損したはずの壜が復活していたこと。この二点が『怪』の要だ」
男性を見下ろしながら室長はポケットから小さなパイプを取り出し、咥える。
葉は入っていないようで、火を点けることもなく咥えたままで続ける。
「答えは簡単。ホルマリン漬けの標本は動いていない。動いていたのは内部に駆動機関を仕込まれた防水の標本だ。それを水中に沈めて、入れ替えたんだ」
はっとしたようにどこか視線が定まっていなかった男性が室長をはっきりと見る。
室長の解説は続く。
「昼間には本物を出しておいて、夜になったら偽物と入れ替える。あとは好奇心に駆られたアホな中学生がやってきたら扉の隙間からでもリモコンで偽物の標本を操作する。多分、壜の底にもなにか仕込んでいるんだろうな。その内に壜が倒れて中身が外に出る。そこからは多分、逃げ出す予定だったんだろう。だが……」
一旦、室長はそこで話を切る。
天井に移っていた室長の視線が再び男性に向かう。
「想定外のことに、最初に遭遇してしまった生徒は気絶してしまった。あわてて犯人は偽物の残骸をきれいに回収して、本物を設置しておく。そのあと、女子生徒の最初の発見者になって、なるべく現場を見られないようにしたというわけだ」
男性は何も言わない。
黙って室長の視線を受けているだけだ。
「さて、この犯行が可能なのは誰なのか? 学校にいる人間なら誰にでも可能な気がしてくる。だがそうじゃない。標本の偽物を用意できて、理科室に出入りしても不審がられない人物」
僕も思い至った。路原さんの話にほんの少しだけ出てきた人物。
「新任の理科教師。お前がこの『動く標本』の元凶だ」
まるでタバコの煙を吐くように、ふぅ、という室長の呼気で解説は終わった。
なるほど。そういうことだったのか。
怪談の正体は、ラジコンを仕込んだ標本。
夜の学校なんてろくな明かりがないから、多少の違いなんてものはわからなくなってしまう。それを利用して、動いていないパンジーちゃんを動いているように勘違いさせたというわけだ。
路原さんのスカートに残っていたガラス片は偽物の標本が入っていた壜の破片だったというわけか。
こんなものが僕の母校で流行っていた、なんていうのはかなり恥ずかしい。
もちろん、この教師は処分を免れないだろう。当然の報いではあるのだが。
「さて、ハウダニイット、フーダニイットは解いた。だが、ホワイダニイットがまだだな。答えてもらうぞ。お前はなぜこんなことをした?」
ハウダニイット、ホワイダニイット、フーダニイット。事件を解き明かすには必要なものだ。
言い換えれば、動機。
教師が怪談を流行らせて何の得になるというのだろうか? 室長もさすがにそこまではわからなかったらしい。
僕と室長、二人の視線を受けて男性、いや、理科の先生はがっくりと肩を落とす。
「……怪談を俺たちの手で創りあげるのは、“彼女”と俺の夢だったんだ」
何かを懐かしむような口調で教師は口を開いた。
その表情は重荷を降ろしたかのようにすっきりとしたものだった。
「“彼女”? 誰だそれは」
「中学からの俺の友達だよ。一緒に怪談話ばっかりしてたんだけどな。卒業前に約束したんだ。二人で作った怪談、『動く標本』をいつか本物にしようなって」
十年以上前から九臙脂中学校に存在している怪談。その正体はどうやら二人の男女による創作だったようだ。
そして、その創作を本物にするために今回の事件は起きた。
それが、真相のようだった。
一歩、二歩と室長は先生に近づき、その胸ぐらを掴む。
「答えろ。その“彼女”とやらの名前を」
「ぐ……何を……」
「いいから答えろ。私は見た目以上に気が短いぞ」
「……練西由良々」
室長の迫力に負けたのか、あっさりと白状する。
それだけ聞くと、用無しだとばかりに室長は先生を解放する。
「さて、つまらん真相だったな。帰るか、コダマ」
「いや、あの……『動く標本』のほうはどうするんですか?」
「放っておけ。路原クンには私から話しておく。なに、女子のネットワークをなめるな。明日中には九臙脂中学の女子の半数はこの話を知っているだろうな」
パイプを咥えたままで、室長は歩き出す。
置いて行かれないように、慌てて僕はその後に続く。
「なあ、約束を果たそうとするのはいけないことなのか?」
先生は、いや、約束を果たそうとしてできなかった男はそう訊いてきた。
「……約束に他人を巻き込んじゃいけませんよ」
僕の答えはそれだけだった。
「……」
「……」
九臙脂中学校から戻る道中だが、僕も室長も沈黙したままだった。
めちゃくちゃ気まずいのだが、どうも室長の機嫌が悪そうなので声をかけづらいのだった。
なんでこんなに僕が配慮しないといけないのだろう?
かなり理不尽に感じる。
「コダマ」
「は、はい!」
いきなり室長に呼びかけられてしまい、けっこう元気よく返事してしまった。
「『怪』の正体なんてこんなものだ。誰かの勝手、エゴ、自己満足。そういったモノがほとんどだ。例外も当然あるがな」
足を止めずに室長はそんなことを言う。
「は、はぁ……」
どうにも僕には曖昧な返事しかできない。
まあ、いきなりざっくりした話をされても困る。
だってまだ百怪対策室、というか室長の助手になってからの初めての事件だ。右も左もわからない状態なのに、いきなり深そうな話を始められても困る。
「私は、そういった迷惑かけまくるクソ野郎が嫌いでな。だからこんなことをしている。キミにはそれを手伝ってもらいたい」
……不覚にも少しだけ共感してしまった。
「どうだ? 今なら辞めてもいいぞ、コダマ」
振り返った室長はほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
僕は、仕方なさそうに肩をすくめる。
「まったく、しょうがないですね。僕でよかったらお手伝いしますよ。ただ、ちゃんと給料は払ってくださいね」
「いいだろう。明日からこき使ってやる」
笑った室長は、今までで一番好感の持てる顔だった。
9
「コダマ、早速キミに任務を言い渡す。書店に行ってこのメモにある本を買ってきて欲しい。私は日中に出かけられなくもないが、キミ以上にかゆいからな」
『動く標本』を解決した翌日、昼頃に訪れた百怪対策室。
いきなり室長からそんな指令を受けた。
二つ折りにされたメモと一緒に万札を渡される。
「はあ……まあいいですけど。『怪』のほうは?」
「今日はまだだ。とりあえずはそのメモを店員に渡せば持ってきてくれると思うから頼んだ」
ソファに座ったままで葉巻をふかす室長に送り出されて、僕は書店へと向かった。
まあ、買い物ぐらいは楽なもんだ。
到着した書店で、言われたとおりに店員さんにメモを渡す。
一瞬、店員さんの笑顔がこわばったのはなぜだろうか?
謎はすぐに解けた。
四冊ほど僕の目の前に文庫本が並べられ、次々にレジで計上されていく。
それはいい。
問題はその本のタイトルだ。
『鬼畜執事、夜は旦那様の上に乗る』
『童顔のボクに、大人のセカイを教えてください……』
『俺がいいと言うまでお前は俺のモノ』
『ショタ☆ショタ☆らぶりーず』
全部男同士がやけに接近している表紙だった。
いや、言われなくてもわかる。っていうか小唄のやつが持ってる。
BL本じゃねえか!
店員さんがやや引き気味なのがわかる。
ありったけの自制心を動員して購入したBL本を丁寧に受け取ると、僕は全力で自転車をこいで百怪対策室に向かった。
「こんなもんは自分で買えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!」
全力で叫びながら。
もちろん、本を渡した後に室長に喧嘩をふっかけて返り討ちにあったのは言うまでも無い。
迷惑かけまくるのはアンタだ。少なくとも僕にとっては。