イツクシスターズ
広島、厳島(通称、宮島)
満月の夜だった。
月の周りは青白く輝き、まるで涙をためているようだった。そ
して、月の光が厳島神社の普段は朱色の大鳥居を赤紫色に染めて
いた。
静かに流れる潮は、海に突き出た社殿に向かっていた。その波
の輝きの中に白い光が見え隠れしていた。
白い光はワイシャツの一部で、人がうつぶせに浮かんでいた。
波に揺さぶられながらあてもなく漂い、やがて沈もうとしてい
た。
その時、その人はゆっくりと浮き上がり、海面から身体の全体
が見えるまで上がったところで浮遊した。
若く見える男性は、白いワイシャツに紺のズボンをはき、裸足
だった。
死んだようにぐったりとした身体が社殿の方に誘われるように
吸い込まれて行く。
社殿の前方にある平舞台には、うっすらと紅色の光を放つ人の
姿があった。それは、この神社に祭られている三女神の一柱、湍
津姫(たぎつひめ・通称タギ)だった。
髪は短くしてボイイッシュだが美しかった。
風になびく柔らかそうな衣は赤色と黒色がまるで溶岩がながれ
るように柄を変えている。あるいは、風で揺れてそう見えている
ようだった。
その目はにらみつけるように見ひらき、両手は浮遊している男
性の方に向けていた。
男性が湍津姫の前まで漂うようにやって来ると、湍津
姫は手を下ろして、社殿の方に向きをかえた。そして、
足を動かさず幽霊のように移動して行った。それについて行くよ
うに男性も移動した。
荘厳な祭壇のある斎場は、灯がないのにそこだと分かる程度の
薄暗さで、祭殿の朱色に塗られた柱全部が淡い光を放っているよ
うに見えた。
その場には、これも三女神の一柱、市杵島姫(いちきしまひめ・
通称イチキ)が立って待っていた。
細身の姿に床までつきそうな長い髪の美女で、着ていた衣は薄
い黄色に染まっていた。
湍津姫が市杵島姫の近くで、両手を動かし
て男性を床に下ろすと、男性のワイシャツやズボンからにじみ出
た海水が床に広がった。
市杵島姫が、特に驚いたり心配そうな顔もせず、平
常心でささやいた。
「タギちゃん、事故?」
「自殺よ」
湍津姫はぶっきらぼうにそう応えると、男性の側に座
り、小言を言い出した。
「まったく。潮の満ち引きを考えて飛び込めつーの。引き潮の直
前に飛び込めば向こうに流れるのに、満ち潮の直前に飛び込んだ
から、こっちに流れて来たのよ。ただでさえ私たちのこと忘れら
れてきてるのに、これじゃ、嫌がらせと同じよ」
その言葉とは裏腹に、湍津姫の片手は、男性の身体か
ら抜け出しそうになっている紫色に輝く魂を留めようと、やさし
くピアノを弾くように指を動かしていた。
市杵島姫が独り言のように言った。
「失恋かしら?」
すると、湍津姫が男性の顔をチラッと見て言った。
「この人が失恋で自殺してたら、命がいくつあってもたりないわ
よ。それに、ただでさえここは、恋人同士で来ると、私たちがや
きもちをやいて別れさせるって言われているのよ。まったく、や
きもちやくぐらい、いい男、つれて来いつーの」
そんな会話の最中に、眠たそうに目をこすりながら、これも三
女神の一柱、田心姫(たごりひめ・通称タゴ)がやって来ていた。
少しぽっちゃりとした背の低い愛嬌のある姫で、水色の衣の上
に霞のような衣をはおっていた。
「きゃ、死体」
田心姫はそう言って身をすくめた。
「だけど、まだ魂は留まっているわ」
湍津姫が言い放ち、続けて言った。
「死にたくもないのに、死のうとするからこうなるのよ。ねぇ、
知っている? この国、毎年二万人以上も自殺者がいるのよ」
「へぇー」
市杵島姫と田心姫が声をそろえて言い、男
性の側に座った。
湍津姫が田心姫を見て言った。
「タゴちゃん、悪いわね。明日、早いんでしょ。寝てていいわよ」
その言葉に、すっかり目を覚ました田心姫が言った。
「でも生き返らせるのなら私がいたほうが……」
湍津姫は、市杵島姫の方をチラッと見て、
また田心姫に向き直り言った。
「そうね。ごめんね。まったく、人間は……。この世を自分たち
で地獄にしてどうするのよ。閻魔も苦笑いよ」
市杵島姫がとぼけた声で言った。
「タギちゃん、閻魔様とつき合っているの?」
湍津姫が頬を桃色に染め、あわてたように市杵島姫
(イチキ)に向かって言った。
「悪い? なによ、ミス弁天になったからて余裕こいて、美しさ
だけで勝負しろつーの」
市杵島姫は苦笑いした。(タギちゃん、ミス弁天に
なりたかったんだ)
とっさに田心姫が話題を変えようとして聞いた。
「この人、生きていたとしたら、未来はどんな人生だったのかし
ら? ねぇ、イチキちゃん、教えて」
市杵島姫は、まだにらみつけている湍津姫
を無視するように、男性に両手をかざして目を閉じた。
「そ、そうね。えーっと。もし生きていたとしても別のところで
自殺しているわ」
市杵島姫がそう答えると、湍津姫がひらめ
いたように微笑んで言った。
「だったら、生き返らせて、別のところで自殺してもらいましょ
う。そうすれば、こっちは海の安全を守ったってことで、注目さ
れるわ」
市杵島姫と田心姫がさめた目で湍津姫(タ
ギ)を見た。
「そ、それ以外、どうしようっていうのよ。まさか……」
湍津姫はそう言うと、市杵島姫の顔色を見
た。それに合わせて田心姫が言った。
「ねぇ、タギちゃん。この人の過去を教えてよ」
市杵島姫も聞きたそうに微笑んで深くうなずいた。
湍津姫は困り顔になり言った。
「えぇー。やっぱりやるのー。時間かかるのにー」
「お願いいたします」
市杵島姫と田心姫が、おねだりするように
声をそろえて言ったので、湍津姫は拒否することができ
ず、今まで男性の魂を留めていた片手に、もう片方の手をそろえ
てかざし、目を閉じた。
「この人は今、三十三歳。子供の頃は……普通のサラリーマンの
家庭で一人っ子。成績は良くもなく、悪くもなく、目だった特技
もなし。なんで学校に行ってるんだろうね。だいたいが親も学校
に行って、たいしたことのない人生なのに、自分の子供に同じ過
ちをさせるってどういうこと? 勉強なんて、やりたくなった時
にやればいいのよ。エジソンとかアインシュタインなんかを偉人
だって言ってるわりに、何も分かっちゃいないのね。ほーら、こ
の人ったら大学生の時に目の前にこの人のことを好きな娘
がいるのに、別の悪い女につかまっちゃって。あらら、やっぱり、
詐欺師に騙された。なにやってるんだか。チャンスをことごとく
逃すタイプね。それから、会社勤めを始めて、一人暮らしになっ
てもぱっとしないわね。出世しようなんて野望はないし、かといっ
て温かい家庭を築こうなんて気持ちもない。後輩に次々に先を越
されて、挙句の果てに重要な書類をトイレに置き忘れた。それに
気づいた時には手遅れで、そのまま失踪したんだ。それで、あて
もなく転々として、ここに来たと。まあ、こんな感じね。目の前
にチャンスがあって、あとほんのちょっと手をのばせばいいだけ
なのに」
田心姫が聞いた。
「タギちゃん、重要な書類ってどうなったの?」
「ああ、それね。書類は封筒に入っていて、住所が書いてあった
から、トイレ掃除の担当者が会社に連絡して、無事だったわ。まっ
たく、冷静に考えれば分かりそうなことよ。それなのに逃げるな
んて、こんな人、生き返らせる価値があるの?」
田心姫が小首をかたむけながら聞いた。
「神様はなぜ、完全な世界を創らなかったのかしら? 完全な世
界ならこうした人は誕生しなかったと思うんだけど」
それには市杵島姫が優しく答えた。
「タゴちゃん、それはね、未来が無限だからよ。どんな未来にな
るかは神様にも分からないの。私もこの人を通しての未来しか分
からないのよ。完全な世界にして、それが未来に適応しなければ、
この世界は終わるのよ。だから、多くの人間を誕生させて、どん
な未来にも適応できるようにしたの。ねぇタギちゃん、この人を
生き返らせる価値があるかどうかじゃなく、この人が生きる価値
がある未来にしなければいけないのよ」
湍津姫は少し考えて言った。
「神様でさえ完全な世界が創れないのに、人間は数人の支配者に
任せて、理想の社会を築こうとするから、この人みたいに生きる
場所が奪われてしまうんだわ。皆、誰かに命令されることに慣れ
てしまったのね。この人も常に誰かの命令を受けて行動している
のよ。人に尋ねようともせず、自分自身にも尋ねようとしない。
トイレに置き忘れた書類のことだって、誰かに尋ねれば、すぐに
分かったはすなのに。詐欺師に騙されるのも、自分になぜ親切に
してくれるのか、自分自身に尋ねれば怪しいと思うはずよ。イチ
キちゃん、そういうこと?」
市杵島姫は深くうなずいて言った。
「そうね。だから、すべての人間が支配者に任せず、自分自身が
判断して行動する未来に導くの。でも、それだと何を目的に行動
すればいいのか分からず、自分勝手な行動になってしまうわ」
田心姫が独り言のように言った。
「だから尋ねるのね」
湍津姫が目を輝かせて言った。
「そっか、人に尋ねて、その人がどういう行動をしているかを知っ
て、自分の行動を決めるのね。皆がそうすれば、人の行動を邪魔
せず、自分の行動を決めることができる。それで皆が自由に行動
すれば、それがどんな未来にも適応できるってことなのね」
市杵島姫が両手を男性にかざして言った。
「そうよ。それを響応って言うの。水の分子のよ
うに誰にも指図されず自由に動き、それでいて一体になり、流れ
を作る。この人もその一つの分子にするの」
湍津姫は身体をのけぞらせながら言った。
「イチキちゃん、始めるの? タゴちゃん、あとは頼んだわよ」
そう言って、湍津姫は男性の魂を留めていた片手をは
ずして、すぐに立ち、その場を離れて、柱の陰で見守った。
田心姫は、いつものことといった平気な顔をしてその
場に留まり、男性を凝視した。
市杵島姫が豹変して、強い口調で叫んだ。
「迷える魂よ、聞け。汝はまだ生を全うしていないのに旅立とう
とするのはなにごとか。黄泉の世界に汝の居場所はない。その苦
しみから逃げるな。この世で喜べ。怒れ。哀しめ。楽しめ。汝に
備わった喜怒哀楽を響かせよ。すべてのものが汝を必要としてい
る。そのものたちのために汝の全知全能を捧げよ。汝が響けば、
すべてのものが汝を助け、道しるべとなる。今すぐに戻り、行く
末を見よ」
魂がゆっくりと男性の身体に吸い込まれていく。それを見た田
心姫が、男性に呼びかけた。
「こっちよ。ついて来て。こっちよ。心配しなくっていいよ。さ
あ、戻るわよ」
男性に生気が戻っていくのを見た市杵島姫が両手を
天に高く上げた。すると、男性の身体が徐々に浮き上がり、市杵
島姫が両手を海に力強く振り向けると、男性は衝撃波
と爆音とともに海に飛んで行った。
柱の陰で見ていた湍津姫は爆音がする前に両耳をふさ
いでいた。しかし、衝撃波で身体がよろめいた。そこで、あわて
て柱にすがった。
男性は吹き飛び、大鳥居の下に漂っていたが、やがて息を吹き
返し、手足をばたつかせた。けれどもそこは、すでに潮が引き始
めていたので浅くなり、それに気がついてすぐに立ち上がった。
「ああ、死ぬかと思った。そうだ、帰って謝んなきゃ」
男性は自殺したことも忘れ、岸に向かって歩き始めた。
空は青白くなり、夜が明けようとしていた。
「ふぁー」
田心姫が思い出したようにあくびをして言った。
「少し眠ろうかな」
普通に戻った市杵島姫が優しく言った。
「それがいいわ。時間がきたら起こしてあげるから、おやすみな
さい」
「お疲れさん。おやすみ」
田心姫にそう言った湍津姫が、大鳥居の側を
歩く、生き返った男性を見て言った。
「こうしてよく見ればいい男ね。今度はかわいい恋人連れて来い
よ」
市杵島姫が湍津姫に近づいて言った。
「何かしたのね」
湍津姫が照れたように言った。
「アクセサリーをあげたのよ。弱い部分を補強してやらなきゃ、
また何するか分からないからね。それより、あの人だけで、この
世がどうなるわけでもないのに」
市杵島姫は男性を優しいまなざしで見つめながら言っ
た。
「それは私たちが立ち入ることはできないわ。無限の未来のどれ
を選択するかは人間にすべて託されているんだもん。でも、あの
人が響応することに目覚めれば、少しはましな世の中になってい
くと思うわ」
湍津姫はコクリとうなずいて言った。
「すべての人が誰かの指図で動くんじゃなく、響応とやらで動く
ようになればね。私たちはそれを祈るしかないのね。ふぁー。私
も眠たくなってきた。じゃあね」
そう言って、湍津姫はスーッと消えていった。
「お疲れ様。さてと、タゴちゃんを起こすまで、島を巡らなきゃ」
市杵島姫は風になって飛んでいった。
厳島にいつもの一日が始まった。
終わり