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心霊探偵ジョージ   作者: pDOG
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「こころのゆくえ」

挿絵(By みてみん)


 彼と出会ったのは大学のゼミだった。


 私が准教授としてゼミの大半を取り仕切る事になった最初の年に、生徒である彼がゼミにやってきたのだ。


 こう言ってはなんだがあまり人気のない教授で、元々の申込者が少なかった上、ゼミに出てくる子も減り、私はよく彼と二人きりでパソコンとにらめっこしていた気がする。


 彼の質問はほとんど論文の校正だった、気がする。


 そろそろ夏服を仕舞おうか、なんて考えていた季節だった、気がする。



 もうあまり覚えていない。



 覚えているのはただ、彼の手。



 私に触れてくれた、彼の手。



 彼の唇。



 震えていた、彼の唇。



 彼の声、彼の柔らかな髪、





 もう見られない、彼の、微笑み。






 私はその頃、夫とは冷め切っていた。


 結婚する前から長く付き合っていたのがいけなかったのだろうか?もう私は彼にとって都合のいい母親と同じ存在でしかなく、セックスも私がお願いしないとしてくれないような、冷めた関係だった。


 それでも私はその関係をなんとか改善できるだろうと思っていた。結婚すれば、子供ができれば、家族になれば。きっと変わるのだと思っていた。


 しかし現実はもっと冷め切っていた。


 結婚式は滞りなく行われた。しかしなにかが変わったと思ったのは最初の一週間だけで、すぐに私は“正式な”都合のいい家政婦に成り下がった事に気がついた。


 別に夫に不満があるわけではない。深酒をするわけでもギャンブル癖があるわけでも、女癖が悪いわけでもない。夫はいつも通り優しくて、もちろん長く一緒にいたわけなのだからお互いに情は深く絡み合っていた。


 ただ。そこにはもう愛が無かっただけだ。


 愛情から愛が抜けて情だけが残っていた。


 ただそれだけ。


 暴力を振るうわけでも家事をやらないわけでもない、世間一般から言ったらとても出来た夫。他の人が見たらきっとなんの不満があるのだろう?と思うだろう。


 でも私には分かってしまった。


 もう枯れ果てた熟年夫婦みたいに少なくなっていったセックス。頼めばしてくれるが、黙々と義務的にこなして行くその姿にはもちろん抱かれても最初のような燃え上がる情熱は感じない。

 夫はただ単に淡白なのだと思う。私の知る限り別に他に女がいるわけでもないし、私の事を嫌っているわけでもない。ただ単に淡白で、私は彼にとってもう空気のような存在で、母親のような、女ではありながら性的対象から外れてしまった存在なのだろう。


 そう・・・もう分かってしまった。


 それでも私は縋っていた。夫の事を愛していると思っていた。夫はもしかしたら、もしかしなくてももう私には冷めているのだろう。しかし私は夫を愛している。子供だって欲しい。抱いて欲しい。



 そう、思い込んでいただけだった。



 私は気づいてしまった。



 二ヶ月ぶりに、本当に久しぶりに夫の指が私の胸に触れた時、私の肌は感じ取ってしまったのだ。




 もう、私はこの夫の子供を欲しがっていないのだという事を。






 私は准教授という、これもまた殆ど秘書のような都合のいい存在をこなしながら、よく彼と二人きりで部屋に篭っていた。ゼミに参加している生徒は全部で六人居たが、もう一人女の子がたまに顔を出すだけで、残りの四人はあっという間に幽霊部員のような存在になってしまった。


 割り当てられた部屋が大学の中でも奥まったところにあり、来るだけでも面倒くさいと思われたのかもしれない。


 そんな中で彼だけは敷地内の反対側にある図書館から大量の本を抱えてこんな外れの部屋まで毎日通って来てくれていた。そんなわけだから研究内容も、発表する時の論文も結局私と彼の二人で殆ど作成したようなものだ。


 それでも年末に行われた研究発表会ではなんとか全員を集めて体裁だけは整えた。


 ゼミのメンバーが全員揃ったのはあれが最後だったと思う。


 発表会の打ち上げ後、報告書の作成をしている私のところに彼がやってきた。


「あれ?二次会には行かなかったの?」


 私がそう問いかけると、彼は少し酔ったような赤い顔を綻ばせて、「先生が居なくなったから探しに来たんだよ。」と言ってくれた。


 嬉しかったが、仕事もある。今日中に報告書を作成して明日には提出しなければならないのだ。君たちと違って私は発表して終わりじゃないのよ。とキーボードを叩きながら彼に伝えた。


「この部屋、寒いね。」


 そう言いながら彼が私の横まで歩いてきた。


 夏場にはクーラーの効きが弱く汗だくになってしまうほど暑い部屋だと言うのに、冬は冬で暖房の効きまで弱い。確かに言われてみればこれじゃ風邪を引きそうだな、と思い、「そうねえ。」と苦笑いしながら彼を見上げた。


 いつもと逆の位置だ。


 いつもはPCの前に彼が座り、私が後ろから修正箇所を教えたり細かな語尾の訂正をしたりしている。



 今日は私が下で、彼が上。



 少しだけ違った。



 そしてもう一つ、いつもと違う事。



 見上げた私の唇が、彼の唇に奪われた事。



 私は抵抗しなかった。



 少しだけびっくりしたけど、それ以上に胸の高鳴りを感じていたからだ。




 私は、彼を愛していた。






 

 准教授の仕事で大学に泊まり込みになる事は今までも何度かあったので、夫は私が朝帰りした事には一言も質問しなかった。


 それは夫の優しさだったのかも知れないが、私の目にはもう私に対する無関心さの表れとしか映っていなかった。


 私が指輪を付けてない事も、きっと気づいてない。


 だがそれはとても都合が良かった。鈍感な夫に甘えて私は何度も彼の部屋に泊まった。


 あの二ヶ月は確かに存在した。


 彼のベッドに押し倒され、シングルの布団を分け合うように身を寄せている時、私は確かに幸せを感じていたし、肌が触れ合う感触と私の中に迸る彼の熱い精を感じた時に、私は確かに「子供が欲しい。」と願っていた。


 それは今まで私が知らなかった未知の感情だった。


 気持ちいいとか絶頂する感覚とは全く違う生命としての本能から沸き起こる欲望。私という雌が彼という雄の精を欲している感覚。これは同じような感覚を覚えている人にしかわからないのではないだろうか?


 だから信じられなかった。


 冬の寒さも幾分か和らいできた小春日和の午後、彼はいつもより一段と激しく私を抱き、私の中に全てを吐き出した後にこう呟いたのだ。




「こんな事、もう辞めようよ、先生。」





 目の前が真っ暗になったようだった。


 二人きりの時に彼は私の事をいつも下の名前で呼んでくれていた。




 先生────


 それはとても強い拒絶の言葉。


 私は先生で、彼は生徒なのだから。




 彼はこれ以上はもう会うのを辞めよう、と言った。大学で噂になり始めているらしい。実際には噂の前段階で疑惑と言ったところなのだろうが、私の立場も彼の居場所もこのままでは失ってしまうだろう。


 特に同じゼミのサオリちゃんにはもう気がつかれているかも知れない。妙にカンの鋭い子だから、と言った。


 私はどうしたらいいのか分からずに暫く放心状態になっていたと思う。



 泣き喚いて否定する事も出来ない。


 私は先生なのだから。


 別れたくないと頼む事も出来ない。


 私は人妻なのだから。



 きっかけはどうであれ、私は歳上の女で、彼は成人したとはいえ社会経験もない学生で、言うなれば私は彼をたぶらかして不倫させてしまっている悪い女教師だ。


 夫と別れようかと本気で考えていた。実は出しそびれていたが区役所から離婚届すら持って帰っていた。


 私は彼と新しい人生を歩むのかもと勝手に思い込み、帰り道に頬が緩んだこともあった。


 避妊具を使ったのは最初の一回だけだった。私は大丈夫大丈夫と気楽に彼を誘い、一晩に何度も精を受け止め、その度に子供が出来ないかなあと願った。




 痛い。



 強く握られた胸元に彼の指の跡が残っている。



 いつもより激しく私を求めてきたと思ったら、そうか、別れ話を切り出そうと思っていたのか。



 こういうところ、男ってズルい。



 せめて抱く前に言えばいいのに。



 私はゴチャゴチャになってぼうっとした頭のまま、下着を身につけた。



 別れの言葉は出てこなかった。



 無言でパンプスを履いて彼のアパートを後にした私を彼は見送ってはくれなかった。



 無言は肯定。



 彼はそう思っていたのかもしれない。



 無言はまだ承認していなかっただけだと言うのに。



 階段を降りると下腹部がジワリと熱くなった。



 そういえば大して拭き取っていなかった。



 彼の首筋に付けてやったキスマークはいつまで残っているだろうか?使わなくなって余ったコンドームを彼はどうするのだろうか?あ、そう言えば洗面所に私の歯ブラシが置きっぱなしになっている。今度こそ妊娠してくれないかなあ。



 フラフラと歩きながらそんな取り留めもない事をぼうっと考えていた。




 それから、よく覚えていない。






 私は今日も彼の部屋へ行く。



 行かなければならないような気がした。



 何を言われたのかよくわからない。確かめないといけないし、何より今日は危険日だ。今日は特にしっかりと子供を作らなければ。



 カラカラとアスファルトに鉄が擦れる音がしている。



 何の音だろう、うるさいなあと思っているけどいつまでたっても付いてくるのでもう途中から考えるのをやめた。



 アパートに着く少し手前で彼が来るのを待つ。



 いつもこの時間はコンビニに夕ご飯を買い出しに出ていたはずだ。私が作ってあげた夕飯を本当に美味しそうに食べていたっけ。今夜も作ってあげたいところだけど、今日は無理かな。



 ここは小さな公園になっていた。もうすっかり陽は落ちて、子供達も遊んでいない。そこにある遊具の手前で私は彼が通りかかるのを待った。



 びっくりするだろうか?いや、頭のいい彼のことだ。私とちゃんと向き合って話をしてくれるに違いない。夫と別れたと言えばこの間の発言を間違いだったといい直してくれるに違いない。本当は彼も私を愛してくれているに違いない。私との間に子供ができる事を望んでいるに違いない。



 私の口からよだれが流れ出た。


 かなりの量だ。ダラダラと表現した方がいいくらい。


 口を閉じようかと思ったら出来なかった。


 何かが邪魔をしている。


 なんだ?私はなにを咥えているんだろう。




 そんな事を考えていると公園の入り口に人影が現れてこう言った。



「もう辞めよう、柴田先生。」



 それは彼の声では無かった。





 その顔は知っている。幽霊部員となっていたゼミの男の子だ。確か名前はアキヒコ君と言ったはずだ。


 彼じゃない、その事実に落胆するとともに私はこの現状を有り得ないくらい的確に、そしてネガティブに把握した。


 彼は友人であるアキヒコ君に私の事を相談したのだ。


 そして私が別れ話を拒絶する事も分かっていた。


 だからアキヒコ君は彼に頼まれて私を説得しに来たに違いない。


 私の頭にカッと血が上った。


 私と彼だけの秘密、その大切な世界に土足で入ってきた邪魔者としか見えていない。


 私は右手に握りしめたシャベルをさらに強く握った。やけに伸びた爪が手の皮を突き破り食い刺さる。



 目の前が急に明るくなった。街灯も少ない公園だというのにまるで昼間のようによく見える。



 邪魔者の顔は少し笑っているようだった。



 その顔に私はさらに逆上し、片手で大きくシャベルを振り上げた。




「そこまでだぜ。」



 その声が聞こえてきたのは私の背後からだった。




 振り向いた私の目に映ったのは、自分の顔だった。



 額は裂け、そこから黄ばんだような骨が突き出して見えている。まるでつののようだった。


 閉じなくなった口はまるで牙のように異様に伸びた上下の犬歯のせいだ。



 私は一瞬、自分の顔だと分からなかった。



 それが大きめの手鏡だという事も分からなかった。



「あんたはもう女じゃない。鬼なんだよ。」



 やけに痩せた、黒いスーツの男、顔色が悪くて目だけがギラギラとした男がそういい放ち、



 私は意識を失った。




……………



「ケンジさん、柴田先生は・・・。」


 ケンジと呼ばれた黒いスーツの男は右手の小瓶をふらふらと振ってみせた。


「鬼、いや般若となってたな。悪いがもう体に返してやるわけにはいかねえよ。コイツはただの生き霊だが体に返したら本物の犯罪者になっちまう。


 それにこのまま野放しにしていたら当然、お前の友達も取り殺されていただろうし、こうするしか無かったんだ。


 まあ、魂が半分以上抜けたんだ。先生は当分呆けて過ごすことになるだろうが、人間は強くできてる。じきに回復するだろう。」


「何があったんでしょうか?」


「知らねえな。でも推測はつくぜ。般若を生むのは嫉妬や恨み、憎しみだけだ。


 痴情のもつれってやつだろうさ。


 まったく、女は怖いぜ、アキヒコ、お前もサオリちゃんには気をつけろよ。怒らせたらもっと怖いかもしれねえぞ。」


「・・・・・。」


 アキヒコと呼ばれた青年は、少し寂しげにケンジの手の中の小瓶を見つめた。


「とても・・・いい先生でした。生徒思いで一生懸命で、甘いところもあって、サボってた僕たちを叱ることもなく、いつも笑っていました。


 そんな先生が般若になるなんて、あの優しかった先生の心はどこに行ってしまったんでしょうか?」


 そう、やり切れないといった顔を見せるアキヒコの頭を少し乱暴に小突いて、ケンジはニヤリと笑みを浮かべた。その顔はアキヒコがよく知る男の笑みとそっくりだった。


「まだまだ餓鬼だな、お前も。」


「な、何がですか?」



「そんなの、女の一面でしかないに決まってるだろう?


 ──── 色んな顔を持ってるんだよ、女は。」



 そう言い放つとケンジはポケットに小瓶をねじ込み、代わりにタバコを取り出して火を付けた。



「愛情って奴は厄介なものさ。愛しているなんて感情自体があやふやなものだからな。この先生も本当はどう思っていたかなんて、もう、誰にもわからねえよ。」



 暗闇の中でそのオレンジ色の灯りはひと際暖かく輝いていた。


 煙はまるで生き物のようにうねりながら冬の夜空に細く伸びて、天の川に溶けるように消えていった。


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