「幽霊電車」
俺の名前はジョージ。今回の依頼は単純な浮気調査だけのはずだった。
「しかし、本当に信じられないわ。」
満員電車を降りてげんなり顔のエイミーが呟く。憔悴しきっているがそれでもターゲットからは目を逸らさないのは大したものだ。
「まったく、日本の電車は異常だと聞いていたけどこれほどとは思わなかったわ。朝の電車なんてもう二度と乗りたくない。だいたい乗車率200%ってなによ?一人分のスペースを確保出来ないって事でしょ?50%のスペースしか割り当てられないなら運賃も50%にするべきじゃない?
・・・訴えてやろうかしら。」
俺の脳裏にはちょっと怖い女の顔が浮かぶ。この二人やけに気が合うところがあるからな、組まれると厄介だ、が、
ま、とりあえず後にしてくれ。
俺たちはターゲットの足取りを追ってO線の乗車口からS線へと向かう地下通路を歩いていた。本当によりによって特別混む路線に乗りやがる。嫌そうな顔をしているがこれ、本番は帰りの電車だからなエイミー。
ターゲットは俺とほぼ変わらない年齢のセールスマンだ。背格好も似ていると言えば似ていた。だが着ているスーツは俺でも知ってる有名なブランドものだし、靴も時計も俺の収入じゃとても買えない代物ばかりだった。一部上場企業の営業担当ってそんなに儲かるのか?と俺は少し疑ったがそういうものらしい。
顔も絵に描いたような色男だ。郊外に一軒家を構えて妻と二人で暮らし、まさに順風満帆と言った人生
──── だった。
「ふうん。」
と、エイミーはあまり興味無さげだった。理由を聞くとチャラチャラしたイケメンならダニエルでもうお腹いっぱいなんだと。
「ま、お金があるってところには惹かれちゃうけどね。」
チラチラと横目でこちらを見るエイミー。よせよ、どんなに見ても俺の財布は膨らまねぇよ。
順風満帆な人生、それは本当にそうだったんだろう。
ただし、男にとって、だけは。
ターゲットの男はとにかくモテた。独身の頃からそうだったらしいのだが、結婚して落ち着きを見せてからはさらにモテるようになったという。
元々営業職なだけあって日中は外回り中心だ。
どこでいつ、誰と会っているか、なにをしているかなんてわからねぇ。
さらにはやれ飲み会だ、接待だと帰りの時間も不規則だ。それでも妻は独身の頃からそうだったからと半ば諦めて仕方ない、仕方ないと夫の自由さを許していた。
それでも夫の愛は妻に向けられていると信じていたからだ。
そうこうしている間に事件が起こる。
今年の2月、妻が妊娠した。
その妊娠を境に夫が帰ってこなくなったのだ。
最初はやれ出張だ、飲み会で遅くなったから外に泊まると言い訳をしていたのだが、妻としては一番側にいて欲しい不安定な時期だ。何度も喧嘩になったらしい。
だが喧嘩をすると男はますます帰ってこなくなる。
いくら収入が良くても月の半分をホテル住まいなんて本当にそうなのだろうか?とこの頃から妻は疑っていた。
夫は口の上手い営業マンだ。なにを聞いてものらりくらりと躱してなかなか尻尾を掴ませない。頭もいいんだろう、どこにも証拠を残すようなヘマはしなかった。
しかしとうとう妻は疑惑が確信に変わる出来事に遭遇する。
久しぶりに会いに来てくれた友人から、帰り際の駅で夫を見た、という話を聞いたのだ。
「貴女には言おうかどうか迷ったんだけど・・・。」
その友人は目を泳がせて妻の反応をチラチラと伺いながら、夫が本来乗るはずのO線ではなく、K線に乗っていくところを見たのだという。しかも妻ではない若い女の子と腕を組んで乗って行ったと言うのだ。
人間不思議なものであれだけ疑っていたはずなのに、こういった証言が出た途端に信じたくなるものらしい。
妻も同じだった。
疑っていた間は動く気が無かったのに、いざ本当かという段階になって、「きっと何かの間違いに違いないんです。夫がそんな事をするはずがありません。夫の無実を証明していただきたいのです。」と興信所に依頼してきたんだ。
そう、俺の事務所に、な。
……………
「“火のないところに煙は立たぬ”よ。疑わしいと思った時点でだいたいクロなのよねえ。私の経験上もこういう男は全てクロ、ダニエルもクロ。」
おいおい、酷い言われようだなダニー。
「ついでに言えば奥さんに告げ口した女も多分クロよ。『言おうかどうか迷ったんだけど。』なんて嘘。こういう女は言いたくて言いたくて仕方ないんだから。」
何か嫌なことでもあったのか?エイミー。
俺は何やらおかしな気配を感じながらも普段より輪をかけて機嫌の悪いエイミーをなんとか宥める事に必死だった。
そう、俺はこの時、気がつくべきだったんだ。
妻の友人が見たという証言を信じるなら、動くのは恐らく退社直後だ。相手の女性は同じ社内、ならば逆に日中社内ではそんな素ぶりは一切見せないだろう。他の社員には気付かれないようにターミナル駅までは動かないはずだ、と。
これもエイミーのカンだとよ。
女のカンに異論はねぇよ。事実、男はエイミーの言った通り新宿駅で女と待ち合わせをしていた。服装だけはOLの地味なスーツを着ているが、気の強そうな顔立ちに少し派手な化粧、二十代の若い女だ。
二人とも残業で遅くなったのか、時間はすでに終電間近だった。
「お腹すいてない?何か食べて帰ろうか?」
「ヤダァ、今から食べてたら帰れなくなっちゃう。」
「え?ダメ?」
などと腕を組み笑いながら話す二人を「クロよ、クロ。真っ黒じゃない。」とブツブツ言いながらカメラに収めるエイミー。
まあ、二人の距離感から体の関係があるのは間違いないだろう。奥さんには悪いが、これは慰謝料請求する計画を練った方が良さそうだぜ。
などと考えながら尾行を続けると、情報通りターゲットは自宅のあるO線ではなく、隣のK線へと歩みを進めた。恐らくそちらに女の家があるんだろう。俺たちも後に続く。
実際に家に入り、朝出てくるところをカメラで抑えて依頼完了だ。
「信じられない。浮気なんて絶対許せないわ。」
なんか相変わらずブツブツ言っているエイミーに私情は禁物だぜ、と諭すと「わかってるわよ。」と渋々引き下がる。今回妙にイライラしてるな。
俺たちはK線のホームの隅から見つからないようにターゲットを監視した。
終電間近のK線ホームは驚くほど人でごった返していた。
やがて電車がゆっくりと入ってきて停車する。入れ替えの人に揉まれながらターゲットが乗車する。俺たちも人混みの中位置を変えて近づいて行く。
二人は7号車、俺たちは8号車に位置取った。
しかし、朝と変わらない狭さだぜ。K線ってこんなに混むのかよ。初めて知ったぜ。
などと思っていたらエイミーと目が合った。こちらもターゲット同様抱き合うように密着してしまっているが、彼女は気にしていない様子だ。と、言うより何か別な事に気を取られているようだな。チラチラと車内のあちこちに目を向けている。
「どうした?お前はただでさえ目立つんだからよ。しっかり俺に隠れておけよ。」
と、さらに腕を回してエイミーの姿を隠す。エイミーは輝くような金髪の上、超が付くほどの美人になった。ただ歩いているだけで周りの男が振り返るほどだ。
「えっと、うん、多分大丈夫。ちょっとね、気になることがあったのよ。」
「なんだ?」
「もういいわ、とりあえずこうしていて。駅に着くまででいいから。」
そう言うとエイミーは俺の胸に顔を埋めて瞳を閉じた。
車内は静かだった。
誰も一言も喋らない。よくあるスマホの音が漏れてくることもない。
俺と、エイミーの心臓の鼓動だけが響き合っていた。
その時だ。
何やら小さな声でブツブツと呟く声が聞こえた。
またエイミーが喋っているのか?と思ったが、彼女は俺の胸の中で、かつて少女だった頃の面影を残したまま瞳を閉じている。彼女ではない。
誰だ?何を言ってるんだ?
俺はなんとか耳をすませて聞き取ろうとするが、誰も喋らない車内でもその声は電車の騒音に紛れてなかなか聞き取れなかった。
それでも俺が苦労して聞き取った音は、身の毛もよだつ呪いの声だった。
「許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない。」
その言葉を聞き取った時、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
いる!
この声は依頼人、あの奥さんの声だ。間違いない!
近くにいる!満員電車の中じゃ姿を見つけることなんて出来ないが、呟きが聞こえるくらい近くにいる。そして事実を知ってしまっている!
追ってきたのか!
俺は嫌な予感が膨らむのを抑えきれなかった。
修羅場は何度も見てきている。最悪の結末も見たことがある。
この奥さんが凶器を持ち歩いていないなんて保証はどこにもないんだ。
どうする?
ターゲットに知らせるか?それとも奥さんを抑えるか?糞!どちらにしても依頼は失敗だ!
「大丈夫よ、ジョージ。」
俺が一人で最悪の状況に冷や汗を流していると、腕の中から天使のような声が響いてきた。
「大丈夫、私たちは次の駅で降りましょう。明日になったら報告して、それでおしまい。アフターサービスは料金に含まれていないはずよ。」
けどよ、今夜流血沙汰になっちまったら報告もクソもねぇよ。
と、言い返そうとした時、列車はガタンと大きく揺れ、スピードを落としながら駅へと入っていった。
しかし、何かがおかしい。
俺が知るK線の駅は地下が多かったがその分いつも電気が煌々と点いて明るかった筈だ。
しかし電車は真っ暗な世界の中、どんどんスピードを落として行く。まるで事故でもあったかのように。
そして電車はゆっくりと真っ暗なホームで止まった。電気をつけ忘れたなんてレベルじゃない。停電でも起きたのかと思うくらい真っ暗だ。電車の灯りが漏れてやっと足元が見えるくらいだった。
しかもすし詰めの車内から誰も降りる気配が無い。
俺はエイミーに押し出されるように、無理矢理人混みを掻き分けてホームに降りた。もうドアが閉まる寸前だった。
車内にいた他の青白い顔をした乗客が、虚ろな目でじっと俺たちを見つめていた。
そしてターゲット達と、そして恐らくターゲットの奥さんを乗せた電車は真っ暗なホームから、さらに暗い闇の中へと走り去っていった。
「もうすぐ上りの電車が来るわ。それに乗って帰りましょう。」
俺はわけもわからずエイミーの言う通りに待っていると、程なくして真っ暗な駅に上りの電車が入ってきた。それに乗り込んでまた新宿に戻るが今度は驚くほど人が少ない。まあ、この時間から上りの電車に乗る奴はそうそう居ないってことか。
俺が車内の椅子に腰掛けるとエイミーは隣に座って俺の肩に頭を預けてきた。
「奥さん、いたね。」
「ああ。」
「知ってたんだね、いや、もう確信してたんだね。言ったでしょ?ああいう男は最初からクロなのよ。それでも信じたくなくて私たちの事務所に来たんでしょうけど、やっぱり最初からわかってたんだと思う。
ああ、心配しないでジョージ。ジョージが思ってるような最悪の結末にはならないわよ。あの奥さんはきっと何もしない。
浮気なんて許せない
絶対に許さないって気持ちが来ただけだから。
その気持ちがあの電車を呼び寄せただけだから。」
男の俺には分からないことがこの世界には沢山あるらしい。正直、言ってることの半分もわからないが彼女のカンがそう囁いているなら俺が口を挟む事じゃないんだろうな。
女のカンに異論はねぇよ。
俺はエイミーに肩を貸しながら、ただ頷く事しか出来なかった。
──── エイミーは囁く
「ジョージは浮気なんてしないよね?」
それはまるで子供のような無邪気な声で
「ああ、した事ないな。」
それは少年のような悪戯声で
「馬鹿。誰とも約束なんてしないくせに。」
それは眠りに落ちていきそうなほどか細い声で
俺たちを乗せた電車はゆっくりと、煌々とネオンが灯る新宿の街を目指していくのだった。
……………エピローグ
俺とエイミーは依頼人に包み隠さず全ての報告をした。報酬はきっちり規定の額が振り込まれた。
俺が心配したような惨劇も、修羅場も、離婚話も無かった。
なぜならあの夜から、夫はちゃんと家に帰るようになったからだ。
残業も減り、定時に自宅へと戻る日々が続いているという。
これは奥さんもまだ聞き出せていないが、何か恐ろしい目にあって心を入れ替えたのだろう、と俺たちに笑いながら報告してくれた。
夫の浮気癖も治り、今ではお腹の子供のために一生懸命働いている。浮気相手がどうなったのかは知らないがそこまで調べる義理もない。
全てのわだかまりが消えたわけではないが、この依頼は一応丸く収まったようだ。
だが、ほっと胸をなでおろした俺に奥さんは、
「この報告書は何かあった時の切り札として保管しておくわ。」
と囁いて、ファイルを大切にタンスの奥へと隠した。
まったく────
「いま、女は怖いぜ。って思ったでしょ?」
エイミーは黄金の髪の毛をかき上げながら俺の顔を覗き込んでくる。
「そうよ、女は怖いんだから。」
その微笑みはもう、子供だなんて馬鹿にできないほど艶っぽく、そして恐ろしかった。




