「そこにジャックはいたのか」
カラン、というベルの音は今日も聞こえなかった。
そして無意識のうちに想像し、鳴るはずもないその音を期待してしまっている自分に気がついて苦笑する。
重い樫の木で出来た扉には古いベルが付けられていた。親父がこの扉を潜っていた頃には恐らくまだ鳴いていたであろうそのベルも、今はただ昔を忍ばせる思い出の切れ端にしか過ぎない。
その先に見える地下へと降りるこれもまた古い階段も、壁一面に貼られたウイスキーのラベルも昔となんら変わらない。
場末の小さな止まり木。
俺はこの店が気に入っている。
階段下のホールへと繋がる扉は常に開け放たれている。これは(誰でもどうぞ。)というマスターの意思表示なのだが、それを知っている客ももう少なくなっていることだろう。
──── いつも変わらないジャズの音色
──── 掠れたレコードのノイズが心地よい
今夜は珍しく先客がいた。
いつも大抵一人でゆっくり飲んでいる俺は少しだけ驚き、そしてその客がどこかで見た顔で顔であることにまた驚く。
しかし思い出せない。どこで会ったんだ?しかもこんな地下の寂れたバーに新しい客が来るなんてな。
その客はカウンターの端に腰掛けていた。初老の男、白髪が目立つ髪には多めの整髪料が付けてありしっかりと固められている。テーブルの上にはグラスのビール。灰皿の上には電子では無い古めかしい洋モク。箱には赤い線が入っている。いかにも昭和のサラリーマンといった感じだ。
俺と同じ古い時代を感じさせる男と席を1つ開けて、俺もカウンターに座った。
マスターはいつものように、俺の前にグラスを置く。
他の客がいる前だと少し気がひけるがあまりにも俺が毎回同じ注文をするのでいつのまにかちょっとした取り決めになっている事だ。
いつものように中身はバーボン、ダブルのオンザロック。
いつものように優しい音を立てて氷が傾く。
いつもの空間。いつもの時。
しかし、その日はひとつだけいつもと違う事があった。
口の重い、しかし少しだけお節介なマスターがグラスと共に一言添えて来たからだ。
「あちらのお客様からです。」
マスターの掌はカウンターの端に座った男を指していた。
……………
「ひっ!」
マコトの情けない声が廊下に響き渡った。見ると壁にへばりついた奴の顔スレスレに包丁が突き刺さっている。
そのすぐ後に事務所のドアが乱暴に閉められる音。
これで大体何が起こったのかは推測がついた。
また、エイミーが事務所の中で着替えていたのか。
不用意に開けたマコトが怒鳴りつけられる代わりに包丁を投げつけられたというわけだ。自業自得だが、毎度鍵もかけずに着替えをしているエイミーもどうかと思うぜ。
1分待って中に入ると、平謝りしているマコトの前で殺人未遂の犯人は猫を抱いておかんむりだった。
おいおい機嫌なおしてくれよ。お客さんだぜ。
俺はそんな二人は放っておいて、連れの依頼人をソファに通した。
エイミーは少し驚いた顔をしたが急に恥ずかしくなったのか臍を曲げてしまったのか、フイと顔を背けると奥の部屋へと引っ込んでしまった。仕方ねえ、後で俺からも謝っておくか。
これもまた驚いたらいいのかどうしたらいいのかわからない顔をしている依頼人に、マコトが「すみません、お見苦しいところをお見せして・・・」と、恥ずかしそうに謝りながらお茶を出す。
だが、ふざけた空気もここまでだ。
今回の依頼、それはメールで軽く触れられていた内容なのだが、とてもじゃないが笑いながら話せるような楽なものでは無かったからだ。
俺たちはもう一度だけ、依頼人に確認した。
「はい。間違いありません。」
と、その依頼人は答えた。
「切り裂きジャックを捕まえて欲しいんです。」
と。
…
切り裂きジャック
誰もが一度くらいは名前を聞いたことがある今もなお犯人像が謎のまま迷宮入りした事件・・・ではなく、最近噂になっている連続切り裂き魔、通称“切り裂きジャック事件”の事だ。
場所は新宿区歌舞伎町。その内容は1888年にロンドン中を震え上がらせた連続猟奇殺人事件の鮮やかな手際とは似ても似つかないお粗末なものだ。
日が昇る直前。“勤務後”の女性を狙い、男が物陰から飛び出して包丁らしきもので突き刺す。もちろん明け方とは言え歌舞伎町だ。辺りは人だらけだし目撃者には事欠かない。
犯人は走って逃げるがあっという間に捕まり、いざ現場検証、という段階になると今度は被害者の女性が居ない。調べられたら困る理由だらけのこの街の人間にはよくある話だが、被害者がいない以上逮捕するわけにもいかず、厳重注意の元、犯人の男は釈放された。
1回ならまだ「仕方のないやつだ。」で、済まされる話なのだが、これが3回も続くと流石にニュースにもなる。噂はすぐ野次馬達に拡散されて周囲で働く女たちにとってはいつ襲われるかわからない恐怖の対象にもなるわけだ。
問題はここだ。
この事件が話題になった理由は犯人が何度捕まっても逮捕されない特殊性にあった。
人を刺すところ、女が倒れるところを目撃したという人も多く、薄暗い道路に横たわる女性らしき写真もSNSに上がっている。
どうせ悪戯だろう、事件性は低いという主張もある。しかもその写真をアップしているのは赤の他人であり、犯人本人には世間を騒がせる気はないらしい。そちら方面での逮捕や書類送検も難しい。
動機は判明している。よくある嫉妬、そして逆恨みだ。
本人も殺人を認めており凶器も押収してあるのだがいかんせん殺人の証拠がない。被害者も居ない、血の一滴すら付いてない包丁を見せられて「人を殺してます。」と言われてもそれは警察の範疇ではない。危険人物と思われたとしてもそれは逮捕するわけにはいかなかっただろう。
だがいつまた事件を起こすかもしれない人物をそのまま釈放した事に世間は反発した。
何故そのまま逮捕または 留置しないのか?刑事でも民事でも裁けないとなるとそれはもう法律に問題があるのではないか、いやそもそも逮捕するべきではない、注意しか出来ない、いやしかし、と物議を醸し出している。いっそのこと誰か被害者が名乗り出てくれないかと呼びかけも続いている。
これが近藤さんから教えてもらった今三面紙の片隅を賑わせている“切り裂きジャック事件”の全貌だ。
ちなみにこのセンスの無いネーミングはゴシップ紙の記者が付けたタイトルから来ている。
そして今日、そんな不安に駆られた女が一人、俺の事務所の扉をノックしたんだ。
──── ノックは出来なかったがな。
……………
グラスを手に取り俺が会釈をすると、その男も軽く頭を下げた。
どこかで見た顔のような気もするが思い出せない。
向こうはこちらを知っているのだろう。俺は自分の目の前に置かれたバーボンのグラスに添えられた意味を測りかねていた。
仕事柄、俺に恨みを抱く奴は多い。
命を狙われたことも実際に死にかけた事も一度や二度じゃない。俺がこのバーに出入りしている事、そして好きな銘柄も決まっている事まで調べているなら、もうなにもかも知られているんだろうな。
俺はグラスをすこし持ち上げてもう一度中の琥珀色の液体を眺める。
冷えきった時の流れを思わせるグラスの中を、傷ひとつない透明な氷が泳ぐ。
この世界に落とされた最も美しいもののひとつ
俺はそう信じている。
俺はその美しい琥珀色の液体をためらいなく喉の奥へ流し込んだ。
オーク樽の香りに嘘偽りなど無いと信じて。
そして俺はあの事件を思い出したんだ。
……………
歌舞伎町はこの目まぐるしく移り変わる東京という街で、ある意味最も変わらない街なのでは無いかと俺は思う。
今も昔も、この街に集まる人の欲望は何一つ変わっちゃいない。
金と女という甘い蜜に吸い寄せられた男たちを狙って、また男と女が群がり重なってゆく姿はまるで巨大な蜂の巣のようだ。
午前4時、俺達2匹の働き蜂はそんな欲望のカスが吐き捨てられたまだ薄暗い路地裏のゴミ溜めに潜んでいた。
ここには生ゴミと吐瀉物の強い臭いに混じって、微かに血の匂いが残っていた。
遠い空はもう白み始めていたのかも知れない、けどこの街のまるでおもちゃ箱のような建物たちがその光を遮り、朝を迎えることを拒む。
「きたぞ。」
俺は身を縮めて顎をしゃくった。
ケバい化粧と、まだ肌寒いというのに露出の多い派手な服を着込んだ依頼人が区役所通りに現れた、という合図だ。
仕事帰りの依頼人は歩いているだけでここまで酒の匂いが漂ってきそうなほど酔っ払っていた。ふらふらと千鳥足になっているくせに上手く通行人は避けている。慣れたもんだ。
『あの連続切り裂き魔・・・あの人、私、知ってます。きっと私を狙ってるんです。』
彼女は俺たちにそう話してくれた。
『あの人は・・・私に囚われてます。
──── そして私も。」
無差別の障害事件では無かった。噂通りに嫉妬と逆恨みで彼女を狙った犯行のようだ。しかし彼女はこうしてピンピンしている。欲に目が眩んだ男にはどうやらラメやスパンコールの入った服を着たの女というだけで同じに見えているのだろう。
ふっ、と俺の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
水商売の女に惚れるなんてな。
夢見がちな男なんだろう。
俺は建物の暗がりから暗がりへと身を潜めながら依頼人を追う。
周囲を見渡して警戒心を最高潮にまで高める。
肌にピリピリとした電気が走る。
気配を殺して尾行をする俺の周りはきっと、空気が凍りついたように止まっていた事だろう。
だが、その俺たちの目の前で
惨劇は起こったのだった。
……………
『あの人を裁いてあげてください。』
依頼人はそう言った。
『きっと裁かれたいんだと思います。自分では決められない、弱い人だから。』
──── 俺はヘマをした。
依頼人に近づく人物は全て警戒していたし、おかしな素振りを見せる者も、危ない気配を漂わせている者も居なかった。
そちらに関しては全くの落ち度はない。
だが俺は依頼人の方を一瞬見失ってしまったんだ。
目を離したつもりはない。しかし緊張からか依頼人の後ろ姿が意識の外に出てしまったのだろう。気がついた時には辺りに悲鳴が響き渡っていた。
依頼人の姿は100メートルも離れたところにあった。
どうして一瞬のうちにそんな遠くに移動できたのか、本当に謎だ。一瞬と思っているのは俺とマコトだけで二人ともかなりの間居眠りでもしていたらしい。
そう、
居た、のではない、あった、だ。
依頼人は血塗れで地面に横たわっていた。
「ふひひっ、やった!ついにやったぞ!」
その横でサラリーマン風の男が気味の悪い笑い声を上げていた。
「くそっ!」
俺は走り出した。急げばまだ助かるかも知れねえ。数人の野次馬が騒いでいるがほとんどの通行人は素知らぬ顔だ。俺は人ごみを掻き分けながら依頼人の元へと走った。
依頼人の口から血が流れ出す。
くそっ、アイツやりやがった。本当にやりやがった!
不思議なことにかなりの距離があったはずなのに、犯人の声と笑い声も、そのあと依頼人が発した言葉も全てはっきりと聞こえた。
哀れな犠牲者=俺の依頼人は“ジャック”に向かって確かにこう言ったんだ。
「本当に良かった。もう貴方は自由よ。」
「やった!やったぞ!あんた、確かに見たな?俺は本当にやったぞ!」
犯人はそう叫ぶと迫る俺から逃げるように人ごみの中へと消えた。
ちくしょう、なんてザマだ。
そして俺が「どいてくれ!」と人を掻き分けて依頼人の元へと辿り着いた時。
そこには血塗れの依頼人も、地面に広がった血の跡も、何も残ってはいなかった。
……………
あれは何年前の出来事だったんだろう。
俺が思い出そうとしていると、初老の男は実に穏やかな微笑みを見せて手に持ったグラスを掲げた。
そこにはかつて見た狂気や愛に溺れた哀れな男の面影などどこにも残っていなかった。
俺はあの後、全く依頼人と連絡が取れなくなった。繋がっていたはずの携帯電話も、依頼を受けた時開封したはずのメールも消えていた。きっと愛想を尽かされたんだろう。
どうしても詫びを入れたくて依頼人の事を調べたが、一年以上も前に死んだ女の名前が出てきただけだった。そもそも偽名での依頼だったらしい。
俺は失敗したんだ。
その炎は俺の中で今でも燻っている。
俺にバーボンを奢ってくれた初老の男は、俺に向かって少しだけ話してくれた。
奴も当時のことはまるで夢の中のようでよく覚えていないそうだ。
夢に縛られた哀れなジャック
俺は気づいたんだ
きっとジャックなんて始めから居なかったのだと
「私はまた、あの女性に逢えるでしょうか?あれだけ憎んでいた女のはずなのに、最近、また心のどこかで逢いたいと願っている自分が居るんですよ。
そしてね、あの人はまだ、あの街で私を待っている ──── そんな気がしているんです。」
男はほんの少しだけ俺に夢を語ると、今でも過去に囚われて苦虫を噛み殺したような顔をしていた俺を置きざりにして、宵闇の中へと消えていった。




