「化け猫 前編」
これはもう随分と昔の話になる。
そうだな、俺の事を「近藤」と呼ぶ奴より「近藤さん」と呼ぶ奴の方が多くなってきた頃の話だ。
同期で親友のケンジが刑事を辞めてもう三年。私立探偵としてなんとか生活は出来ているようだが、上手くやっているか?と言えばそうでも無いのはアイツの目を見ればわかる。
俺にはわかるんだ。
それでも俺がタッパーに入った惣菜とまだ暖かい白米をテーブルに置くと、アイツは嬉しそうに「いつもすまないな。」と笑った。一緒に置いた保温ジャーの中は熱々の味噌汁が入っている。
妻の手作りだ。俺にはこんなことくらいしか出来ないが「しっかり食って元気出せよ!」と俺はアイツの肩を叩いた。
いい食べっぷりだった。しばらく何も食べられなかったのかも知れない。私立探偵なんて職業は今の景気じゃ真っ先に煽りを食らう職業だからなぁ。世間的には好景気だが俺たち庶民は相変わらずどん底だ。
「ジョージが居ないな。」
俺はがらんとした事務所を見回した。
「しばらく帰ってきて無いな。どこかでのたれ死んでるかも知れねえ。」
こちらも相変わらずのようだ。一人息子のジョージはもう二十歳を越えたはずだが、定職にもつかず毎日フラフラとしているらしい。
本当は刑事になりたがっていたんだが、ケンジは反対した。その反動であいつは道を見失っちまったらしい。
「なあ、あいつスジはいいと思うんだが・・・どうだ?俺に預けてみる話は考えてくれたか?」
俺は身を乗り出すと口に手を当て小声でそう問いかけた。誰に聞かれるというわけでもないし聞かれて困る話でもないが俺はこの話をするときはいつもこうだ。それは問いかけというより俺の願望でもあった。今までに何度この願いを頑固親父にしたかわからないが、
──── 警察は、ダメだ。
コイツの答えは今日も変わらなかった。
まあ。わかっていた答えだ。
俺にはわかるんだ。
ケンジは三年前、最愛の人を失った事をまだ許せないままでいる。それも仕方のない事だろう。俺だって正直なところ許せない。
ケンジはあの事件で刑事という仕事、いや警察組織というものに見切りをつけてしまった。
だが俺は家族のために刑事を辞められなかった。
そこで俺たちの道は分かたれてしまったんだな。
ケンジはまだあの事件を引きずっている。
守れなかった自分自身を
裁けなかった“正義”を
俺にはわかるんだ
ケンジは片手で味噌汁を啜りながら、二本の指でスクラップの山から新聞の切り抜きをつまみ出す。そのまま俺に投げてよこしたが、相変わらずよく飛ぶな、変な特技を持っている奴だ。
「これだろ?」
もう奴さん俺の意図に気がついているらしい。
そうだ。どうしてもケンジの手が借りたくて俺はここに来たんだ。
投げてよこした紙切れは新聞の三面記事だった。
その切り抜きには最近品川区で起こった猟奇殺人事件が載っていた。俺も読んだ。一昨日の出来事だ。
「そうだ。」
俺は顔の前で指を組み取り調べをする時のようにケンジを睨みつけた。アイツの見立てを先に聞きたかったからだ。ところがヤクザでさえビビる俺の眼光を前にケンジは相変わらず飯に夢中だ。
大した奴だぜ、と俺が内心感心しているとゴクンと大きな飲み込む音に続いて俺の知りたかった答えが返ってきた。
「──── 猫、だな。」
そうそう、それを聞きたかったんだ。
……………
ケンジは俺以上に鼻が効く。
まだ俺は事件について一言も話していないのに、事件自体もほとんど記事になっていない上に情報すら出ていないはずなのに、それでも真相をピタリと言い当ててしまった。
アイツは本当に鼻が効いたんだ。
品川区で起きたバラバラ殺人事件はあまりの残酷さ故にまだテレビでは放送されていない。ケンジが見せたのはかろうじて記事になった小さな切り抜きだ。それも写真すら付いていない。
それもそうだろう。
あまりにも凄惨な現場だったので各局が自粛してしまったのだ。実際に取材に来た百戦錬磨のカメラマンがげえげえ吐いているところを何度も見た。
バラバラ殺人事件というがよくある綺麗に切り刻まれた死体ならまだ良かった。
引きちぎられたのだ。
首には背骨が付いたままだった。
皮膚と血管と神経が糸のようになって垂れ下がるところなんて、刑事人生長い俺でも初めて見る光景だった。
とてもじゃないがこれをした奴は正気じゃない。そしてとてもじゃないが人間業とは思えなかった。
人の身体は割と頑丈に出来ている。
刃物で切断するならともかく引きちぎるなんて、両側から電車にでも引っ張られないとそうそうできるもんじゃない。
それが六畳ひと間のアパートで起こった。
被害者は俺たちが追っていた人物だった。大麻の栽培をしているとタレコミがあった人物で、結構大掛かりなグループらしい。以前からその噂は聞いていたがなかなか尻尾を掴めずにいたグループだ。タレコミのお陰でやっとその尻尾の先端に触れる事が出来た。
俺たちはもちろんすぐに捕まえるような真似はせず泳がせることにしていた。尻尾だけ捕まえたところで何の意味も無いからな。
その夜も刑事の一人が張り込みを行い、奴が売人や仲間、それか元締めと接触するのを俺たちは待っていた。
夜も更けたころ、まだターゲットの部屋には煌々と明かりが灯っている。
めっきり冷え込むようになったこの季節の夜風に張り込みをしていた新人がクシャミを噛み殺した瞬間、
短い悲鳴と共に窓ガラスに鮮血が飛んだのだった。
よく現場が血の海という表現をする事があるがあれは大抵の場合かなりの誇張を含んでいる。
しかしこの事件では大袈裟でもなんでもなかった。壁も床も天井もほぼ全てが血の色に染まるなんて事が現実に起こるなんて想像すらしていなかった。
生きた、生きていた人間を引きちぎったのだ。
噴水のように吹き出した血が部屋中を染め上げたのだろう。
これをした奴は人間じゃねえ。
俺は直感的にそう思った。
事実、人の手によるものではないのだろう。
張り込みをしている刑事の目の前で犯行が行われ、出口も全て封鎖されている。その上ドアにも窓にも内側から鍵がかけられていたというのに
どこにも犯人の姿は無かったのだから。
刑事たちも鑑識も誰もが首をひねる密室で事件は起こった。
自殺は有り得ない。生きながら自分で自分の身体を引きちぎるなんて、例えガイシャがヤク中だったとしても不可能だ。
有り得ない場所で、有り得ない力で行われた犯行となればそれはもう有り得ない存在が行ったのだろう。
俺は血に染まった床を眺めながらそう思った。
わかるんだ。
俺には。
……………
ケンジは小さなスクラップひとつから、只ならぬ雰囲気を感じ取っていたらしい。
刑事をしていた頃からアイツは色々と鼻が効いた。俺とコンビを組んだのもそういった事件がきっかけだ。それから俺たちはいくつもの難事件を解決してきた。俺たちにしか解決できなかった筈だ。
だが現場をこの目で見てきた俺でさえ、ホシが“猫”だろうと推測するまでに時間がかかった。それを小さな切り抜きひとつから読み取ってしまったらしい。もしかしたらケンジの嗅覚は刑事時代より鋭くなっているかも知れん。
人ならざるもの、と言っても色々あるのにな。
それを指摘するとケンジは笑いながら「こいつのおかけだな。」と弁当箱をうやうやしく持ち上げた。
確証を得た俺は捜査一課の聞き込みとは別に独自の調査を始めることにした。
ケンジも一応誘ったが、タダ働きになる事を見透かされて断られてしまった。まぁ、次の機会を待つさ。
猫と言えば大井埠頭だ。現場からも近いしあそこに行けば大抵話の通じる奴が一匹や二匹はいるもんだ。
もう事件は解決したようなもんだ、と、俺は膝をポンと叩いて立ち上がろうとした、が、
「ちょっと待てよ近藤。」
と、その時アイツはメシを食う手を休めてヨレヨレのスーツのポケットに右手を突っ込んだ。不意を突かれて俺はソファにどしんと腰を落とす。
「これを持っていけ。」
取り出したのは二発の銃弾だった。
コイツ、こんなものをまだ隠し持っていたのかと呆れながらも受け取り、
──── 俺はその理由に気がついた
コイツ、どこまでわかってやがるんだ。
……………
夜を迎えた大井埠頭はまるで血のようなライトに照らされて美しかった。しかし遠くに見える巨大なクレーンはそれそのものが立ち並ぶ巨人の群れを思わせ、俺の背筋に秋の夜風とは別の何かを忍ばせてくる。
俺はいつもと違うその“何か”を感じ取っていた。
猫達の様子がおかしい。
この辺りの猫は人懐っこい。人を恐れないし餌をもらい慣れているので普段なら逃げようなんて素振りも見せはしないのだが、この夜は違った。
見慣れているはずの俺の姿を見てどの猫も暗がりへと隠れてゆく、中には威嚇してくる猫もいる。明確な敵意ではないが人の目を避けようとしている。何だこの警戒心の高さは。
こんな事は初めてだ。
俺の手は無意識のうちに左胸のホルスターを触っていた。そこには愛用の銃がしっかり収まっている。
俺が持つ拳銃は今でもニューナンブ。若いモンには笑われるが俺はこれしか撃てん。
ケンジがくれた弾もそれに合わせて38口径用だった。ちゃんと最後の二発に入れてある。
俺はゆっくりとコンテナとコンテナの間を覗き込んだ。
ライトの明かりも届かない青黒い、闇の世界
そこにヤツは居た
小さな三毛猫だった。
よく目を凝らせば暗がりでも微かに見える毛並みが俺にその正体を教えてくれる、が、その存在に気づけたのは爛々と光る二つの双眸のおかげだ。
ただの猫じゃないのは一目でわかる。俺にはわかる、と言いたいところだが今回は誰でもわかる。
「待ちなよ。」
と、その猫が喋ったからだ。
俺は咄嗟にホルスターから拳銃を引き抜き、左手を添えて腰を落として正眼に構えた。その流れの中で撃鉄はもう起こされている。『今時、そんな構えで撃つ人なんて近藤さんだけですよ。』と射撃場で若い奴らに笑われた構えだったな、くそっ、なんでこんな時に昔の事なんて思い出しているんだ。
俺の額には大粒の汗がいくつも浮かんでいた。
「この先に進んじゃあ、いけないよ。」
猫はそう、俺に警告した。
まるで人と話しているかのような滑らかな声だった。声色は猫なのだが、しっかりと聞き取れるのが不思議だ。
震えては、いなかったと思う。
だが俺は指にかけた引き金を引くことすら出来なかった。その小さな三毛猫に気圧され、ピクリとも動くことが出来ない。
そのちっぽけな生き物の前で、俺は無力な鼠でしか無かった。
猫又を見るのは初めてじゃない。実家で飼っていたキジトラも30年目にしてしっかり言葉を喋ってくれたし、この大井埠頭にも顔見知りは何匹かいるはずだ。
だが、この三毛猫はそれまで俺が出会ってきた猫又とは明らかに違った。何が違うって聞かれても上手く言えないが、これが“格”ってやつなのかも知れない。
「これはアタシ達がケリをつける問題だよ、人間は引っ込んでな。」
そう言うと三毛猫はくるりと背を向けて暗がりへと歩いていこうとした。
「ま、まて、」
と、声を掛けられたのは俺の刑事としての意地があったからだ。
過呼吸になりそうな程荒い呼吸の中で、
「お前がやったのか?」
それだけをカラカラになってへばりつきそうな喉から絞り出した。
だが、俺はすぐにその自分の勇気を後悔することになる。
「──── だったら何だい?」
と、振り返った猫の瞳が血の色に染まっているのが見えたからだ。
──── 殺される
俺は反射的に引き金を引いていた。
弾が当たったのか外れたのか、どこに飛んで行ったのかもわからない。
だが鈍い銃声がコンテナヤードから立ち去った時には、俺の目の前から猫の姿も消え去っていた。
俺はその場にへたり込んでしまった。
どうやら腰が抜けてしまったらしい。
俺はこういう仕事をしているし、他人と比べて危ない奴とは出くわしてきた方だと思う。
もちろん犯罪者も、そして人ならざるものにも。
しかしここまで命の危険を感じたのは初めてだ。
どうやらホシはとんでもない相手らしい。
俺はコンテナの壁に寄りかかって、遠く真っ黒い海を眺めながら、自分の命と追いかけ続けた正義を天秤に乗せて、暫く揺らして遊んでいたんだ。
臆病な俺にはそれが精一杯だった。
to be continued....




