「素直なポートレート」
見慣れた事務所、でもその日は私のよく知っている風景とはどこかが違っていた。
何が違うのだろう。
やはりこのピリピリとした空気のせいかしら?
私の昔馴染みの探偵さんは、相棒の若い男の子と新しいアシスタントになった金髪の女性と三人でローテーブルを取り囲み、冷えたコーヒーを口に運びながら何やらよく分からない話をしている。
どうやらポディガードのような依頼が来ているよう。
机の上には知らない女性の写真が置かれ、誰のかはわからないタプレットには地図が広げられていて、いくつか✖️印が付けられている。
よほど真剣に話をしていたようで、三人とも私が部屋に入ったことに少しの間気がつかなかった。
他の二人はともかく、彼が私に気がつかないなんてこんな事は初めてだ。
それでも最初にこちらに気が付いたのは彼だった。彼は立ち上がるとドアのところまで私を迎えに出てきてくれ、そして少しだけ申し訳なさそうな顔をして私に謝ってきた。
──── すまない、後にしてくれないか?
私は彼の横からわざとらしく顔を出して部屋の中を覗き込む素振りを見せる。
そんな私の悪戯に彼は一歩身を寄せ、全身を使って私に中を見せないようにした。彼が近づいて視界いっぱいになった事に私は気分を良くして微笑む。
──── 依頼?
──── ああ、立て込んでるんだ。すまないが話はまた、今度。
そんな他愛もない会話。
彼は言葉がいつも足りない。
なんで言ってくれないんだろう?
なんで教えてくれないんだろう?
いつも少しだけ悲しくなり、そして少しだけ意地悪な気持ちにもなる。
「ふうん、いいわよ。お買い物に行くからなにかついでがないか聞きにきただけだから。」
私は彼が困った顔をするのを知っている。
知っていてわざとこんな事を言うのだ。
きっと素直に言ってくれたのなら。
そう思うときもあるけれど、私はその切ない気持ちを無理やり押さえ込んで事務所のドアを静かに閉めた。
──── わかっている
この胸の中に淀むのは嫉妬という気持ち。
この意地悪な気持ちはきっと、あの美人のアシスタントがいつも彼の側にいるせいなんだと。
彼と彼女が微笑み合うのを見るたびに、私は彼の事を困らせてやりたくなる。
──── 自己嫌悪
歳を重ねて自分の事も彼の事も理解できるようになったはずなのに、ちっとも素直になれない自分が嫌になる。
──── 素直になれたら、なにかが変わるのかな?
そんな淡い期待をしてしまう。
そしてまた、視線を落とす
後悔を幾度繰り返しても
幾度、夢を見ようとも
もう、あの日には帰れないと言うのに。
……………
「サオリさん、本当に申し訳ないが、ここは私の顔を立ててひとつ。」
近藤刑事はそう言うと深々と頭を下げた。
父親のような歳の人に丁寧にお願いされて断れるわけがない。私は抵抗を諦めて笑顔で「よろしくお願いします。」と伝えた。
近藤さんの後ろには若い私服の警官が二人直立不動で立っていて、交代で私に挨拶をしてきた。
「最初はこの二人ですが顔も覚えてもらわなくて結構です、交代で何人か代わる予定ですので。ああ、労いもいらんですよ。」
そう言って笑うと近藤さんは見事な敬礼をして、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
吸い込まれそうな素直な瞳
「あなたのことだ。きっと大丈夫だとは思いますがこれも保険のひとつだと思って受け入れて欲しい。ご迷惑はおかけいたしません。」
なんか、私に言ってるの?と疑いたくなるくらい優しい声だった。いつもの豪快な近藤さんじゃないみたい。
優しい風に言ってるのかな?
それとも膝の上にちょこんと居座った三毛猫に?
近藤さんが帰ったあとで私はまた軽い自己嫌悪に陥った。
またはっきり言えなかったな、と。
いつからだろう?自分の気持ちを無理やり押さえ込んでまで言葉を紡ぐ事を諦めてしまうようになったのは。
テレビの電源を入れると、今一番話題になっている事件が早口の司会者の声に乗って部屋の中に溢れ出してきた。
もう、朝から晩までどの局もこのニュースで持ちきりだ。
流行りのSNSサイトを利用した連続殺人事件。
写真を投稿してコミニュケーションを取るサイトらしいのだが私は使ったことが無いのでよくわからない。
そのSNSに何枚もの女性の写真が投稿されているらしい。
テレビではモザイクで隠されているけど全部で13枚の写真がパネルに貼られていた。
うち、8枚はカラー
そして不謹慎だとも思うけど5枚はモノクロの写真に置き換わっていた。
ある人物が投稿した写真らしい、しかも写っている女性の了承も無しに。
それだけならただの盗撮なのだろう。で、済む話なのだが、早口の司会者は眉間に皺を寄せて厳しい表情を崩さなかった。
このモノクロ写真に置き換わった人たち、彼女たちが事件に巻き込まれたのだという。
「この五名が次々と謎の死を遂げているんですよ。」
と。
その、大袈裟な物言いすら今の私には視聴率を稼ぐ為のポーズにしか見えない。本当に怖がっているわけでも心配しているわけでもない。
所詮は他人であり、部外者でしかないのだ。
心配するふりをして本当は6人目を待っているくせに────
私はブンブンと頭を振って、頭の中からそんな嫌な考えを追い払った。嫌だ嫌だ、他人の好意に全て裏があると思えてしまうほど今の私は嫌な女だ。
テレビに映されている13枚のパネル
モザイクで隠されているけど
8枚目のカラーパネルに映っている女性は間違いなく私だから。
…
「犯人の特定はできているんでしょうか?この、投稿した人物は?」
昨日から同じ話を何回聴いただろう?ワイドショーには何も進展はない様子だ。近藤さんから詳しい話を聞いている私には目新しいものもなく、見る必要も無いのではないかとも思うのだが、ついついテレビをつけてしまう。
この写真たちを投稿したアカウントの人物はすでに特定できている。テレビで言える範囲では四十代、男性。
しかし数日前にこの写真の投稿が始まった直後から職場にも出てこないようになり、今は失踪中だという。
重要参考人、いや、もはや容疑者として全国に指名手配され捜索が続けられている。
いや、私にはわかっている。彼もまた被害者なのだろう。この投稿者も巻き込まれたのだ、この写真を撮ったモノに。
私はテレビの片隅に映されているパネルの私をまた見てしまった。
モザイクで隠されているけど、あれは確かに私。
このアカウントはすでに削除されもう今は見る事が出来なくなっている。しかし削除される前、この事件が世間の話題に上るようになってすぐ友人から指摘があり、私は普段使わないSNSの登録をして見に行っていたのだ。
そこに映し出された私
その姿に私は衝撃を受けた。
盗撮されていたということにも一応驚いたが、大した問題ではなかった。
それが壁側からの撮影、つまり“不可能”な角度から撮られたものである事も実は私にとってそこまでの問題ではなかった。
それが盗撮である事よりも絶対にありえない写真である事よりも、私はそこに映し出された私の表情に釘付けになったのだ。
そこには、あの人を失ってから二度とする事が無いだろうと思っていた、心を許した人にしか見せない素直な笑顔で微笑んでいる私が写っていたからだ。
…
いつの表情なのだろう?
誰に向けたものなのだろう?
写真は最近撮られたものだ。
そのシーンを元に記憶を辿るがどうしても思い出すことは出来なかった。
「密室殺人が二件、不可能犯罪と思われる事件が三件、なんと言いますか・・・これは警察への挑戦状のようですね。」
コメンテーターの一人が少しおどけてそう言ってみせたが、勿論笑いなど取れるわけはない。
そう、写真を撮る事も不可能な角度から、そして犯罪も不可能と思われる事件が続いている。ネットでは呪いとか怪奇現象扱いだ。
古い映画をもじって「呪いのカメラ」でもあるのではないかと噂されている。
うん。まあ当たらずとも遠からず
不安に駆られた私の内心を見透かしたように、膝で丸まっていた三毛猫がペロペロと私の指を舐めた。
──── ありがとうね、慰めてくれて。
私は猫の頭を優しく撫でて、そのまま首輪の内側まで指先でくすぐるように触れた。三毛猫は目を細め喉を鳴らして答えてくれる。
もしも本当に呪いのカメラがあるのなら、私のところにも近いうちに犯人が来るのだろうか?
──── ちゃんと守ってね、〇〇
私は一番身近な人の名をそこに当てはめた。
勝手だなと自分でも思うけど、それはとても自然で素直な気持ちであった。
こんな素直な気持ちになれたのは、あの呪いのポートレートのせい?
…
──── すまないな、サオリ。
あの人は最後にそういった。
──── 後のことはジョージに任せたよ。
そう言い残して静かに瞳を閉じた。
あの時ジョージ君が事務所の中で真剣な表情をしていたのは依頼人のため?
それとも、犯人を捕まえる事が私を守る事にもなるから?
彼ほどの名探偵が私がSNSに載っていた事を知らないはずはない。心配をかけないよう一切触れてこないし、私も素知らぬふりをして過ごしているのでまったくこの件について話をしたことは無いけど、
本当はすべて話してほしい
守ってほしい
大丈夫だと耳元で囁いてほしい
でも
そんな事は言えない。
私の気持ちはまだあの時間で凍ってしまっているから。
あの人のことを思い出すたびに、まだ私は涙を流せるから。
思い出の中のあの人が
まだ。笑っているから。
…
どんよりと重い色を落とす雲の中、私は傘を持ってアパートを出た。
いつまでも閉じこもっているわけにはいかない。新鮮なお野菜や果物だって欲しい。最近は多少改善されているようだけどジョージ君にもたまには栄養の付くものを持って行ってあげないと。
アパートを出て行こうとする私が二階の窓を見上げると、彼も少しだけ責めるような目で私を見おろしていた。
あれから三日、まだ何も教えてくれない。
このまま何も話してくれないのかな?
私のことは本当はどうでもいいのかな?
少しだけ寂しくなって俯きながら歩く私の耳に、微かに遠く猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
ハッと顔を上げる。
考え事をしながら歩いていたらいつもの道を外れて商店街の裏通りに出てしまったらしい。住宅街が広がりお店などは全く無い。そしてこの辺りは人通りも全く無い。
しまった、ルートを外れたら私服警官の人たちも追ってこられないかも知れない。早く戻ってあげないと。
と、私がくるりと踵を返して商店街の方へと歩き出そうとしたその時。
狭い路地からその人は転がり出てきたのだ。
…
夏だというのに真っ黒なコートにサングラス、白いマスク。手には黒い大きなカメラを構えている。
もちろん私はカメラなども詳しく無いのでよくわからないが、見るからに高級そうなそのカメラを見た時にとても嫌な感覚が背中を走った。
無数の小さな虫が背中一面を走り回る感覚。
直感的に理解した。
あれが“呪いのカメラ”だ。
雨がポツリ、と音を立てた
まずい、あのカメラに撮られるのはまずい
本能がそう告げている。
叫んでもいいのだろうか?叫んで助けを求めたい衝動に駆られるが余計な理性が邪魔をして声が出てこない。
相手はたまたまカメラを持って立っているだけだ。変質者と決まったわけでも無い。ましてや殺人犯などと決めつけてもいいのだろうかなどと考えてしまい、また私は素直になれていない。
パラパラ・・・
雨が立てる音の間隔がみるみる狭まっていく。
それに合わせてアスファルトがゆっくりと黒く染め上げられていった。
パラパラパラパラ・・・
男はゆっくりとカメラを構え
パラパラパラパラ
私は一歩だけ後ずさった。
ザアッ
雨がついにスコールへと変わった瞬間、横道からもう一つの黒い影が飛び出してきて、黒いコートの男に綺麗な右ストレートをお見舞いした。
降りしきる雨の中、私は私のヒーローを見つける
いつもと同じ黒いスーツ
トレードマークの黒い帽子
私の後を追って来てくれたんだ。と気づいた瞬間、私は口を両手で覆ってその雄姿に目を奪われていた。
──── 高遠だな?そのまま動くな
彼は例のSNSアカウントの持ち主と思われる人物の名前を口にした。
その手には大ぶりのナイフが握られており、男の目の前に突きつけられている。
ずぶ濡れで容疑者を見下ろすその瞳は厳しく、冷酷そのものだったがなぜか私はその表情を“綺麗だな”と感じていた。
依頼もあるだろう、でも彼は今、私のところにいる。
その事実が嬉しくて
雨では無い、暖かな雫が頬を流れるのを感じた。
…
駆け付けた警官達により男は連行されていった。
警察で事実が判明するのかどうかはわからないけど、これでもう犠牲者が出る事は無いだろう。私はそれを知っている。近藤さんなら大丈夫。
私はナイフを隠して雨の中に佇み、連行されていく男を睨みつけていたジョージ君に後ろから傘を差し伸べた。
傘は二人が入るには小さすぎる。
私は彼の腕にしがみついて身を寄せた。
──── おい、濡れるぜ。
そんなささやかな抗議の声
私は彼を見上げて、その素直じゃない瞳に微笑みかけた。
──── 今更何言ってるのよ
見上げた彼は少し戸惑っているようだった。
──── 私も貴方も、もうすっかり汚れきっているでしょう?
それは今の私が彼に伝えられる、精一杯の素直な言葉。
彼は少しだけ驚いた表情をし、何かを言いかけてそして辞め、口の端だけで笑みを作る。
いつもの癖
──── 時間を忘れられる場所に行きましょ?
そして私たちは腕を組みながら、馴染みのバーへと歩き出す。きっと優しいマスターが彼のためにタオルを貸してくれることだろう。
そして私たちは今宵もグラスだけを交わらせるのだろう。
それが今の私達には自然で素直な形なのだろう。
胸の中の痛みを押し隠しながら私はそう自分に言い聞かせた。それは儚い望みでもあり、すぐ手の届くところにある希望でもある。
いつか、あの呪いのポートレートのように微笑みあえる日が来ることを祈って────




