ショートショート「おいてけ堀」
俺の名は近藤、刑事だ。俺の非番の日の楽しみといえば釣りだな。
ここは「おいてけ堀」とあだ名がついた渓流だ。
釣り客の帰り際に、まるで昔話のように“おいてけ”と声がかかる。 声に従わず釣果を置いていかないと不思議なものに出会うという。
噂が広まってちょっとした名所になっている。
眺めもいいし、空気も美味い。まぁ、よくある町おこしの一環だろう。
いいところなのだが、ひとつ問題がある。
俺はここでまだ一匹も魚を釣り上げたことがないのだ。
格好の釣りスポットだし、他の釣り客は皆、山女や岩魚を釣り上げている。
だが何故か俺の針には魚がかからないのだ。
はっきり言って悔しい。
隣の男が帰り支度を始めた。クーラーボックスには山女が沢山入っている。
そのときだ、水の流れる音に混ざって「おいてけ、おいてけ」と声が聞こえた。 ほう、それなりに雰囲気だしている。
だが男は気付かなかったらしい。俺に挨拶をすると車に乗り込んで帰ってしまった。
日も暮れかかっていた。
最後に残ったのは俺だけか・・・
悔しい。
どうにも悔しい、俺は「おいてけ」と声を掛けられたことが無いのだ。
気付くと女が一人、俺の横で一緒に釣り糸の先を眺めていた。
先ほどの声の主らしい。黒髪に白い着物。
せっかくの獲物に逃げられて、今度は俺の魚籠でも見に来たのか。
女がそうっと、川の中の俺の魚籠を覗き込む。そしてこう言った。
「頑張って。」
悔しい。本当に悔しい。もちろん魚籠は空だ。
悔しくて涙が出てくる。
もう、今日は何か釣るまで帰らないぞ。
呼び出し?知らん、俺は留守だ。
俺は上着ごと煩く呼び出しを続ける携帯電話を投げ捨てた。
──── 浮きが沈んだ。
両手にかかる手ごたえ。左右に振れる糸、暴れる魚の振動、水面を走る水しぶき。
俺はやり遂げた。
たった10cmの小さな山女だったが、俺はついに釣り上げたのだ。
俺の横で女が拍手をしてくれた。
俺の顔には満面の笑みが浮かんでいたことだろう。
「さあ言ってくれ。」
俺は女の前に魚を差し出して胸を張ってそう言った。
「え・・・でも・・・やっと釣り上げましたのに。」
「いいんだ、言ってくれ。」
そして俺は聞いた。
おいてけ、の声を。
こんなに満足したのは久しぶりだ。
凶悪犯罪を解決した時だってこんな満足感は得られない。
そして俺は魚を優しく川へ放つ。
またくるよ、そう言った俺の帰り背に、女が笑顔で手を振ってくれた。
ああ今日はいい一日だったな。一杯飲んでから帰るとするか。