「ミッドナイト・ブルース」
ブルースが聞こえる。
裏通り。開け放たれた窓に場末のバーから流れてくる歌がそっと届けられていた。
決して上手いとは思えない歌だった。だが不思議と心を掴まれる。夢を追って、歌って歌って、そして潰してしまったような女の声。
魂を込めてなんて表現したら大袈裟かも知れないが、涙を込めて歌うと、歌は俺みたいな奴の心にも響くのかも知れないな・・・
──── この街の夏は過ごしやすい。
俺のよく知る蒸した鍋の底のような熱帯夜とは違い、たまに心地よい風が暑さを拭ってくれる。
夜ふかししたくなるってものさ。
「何を聞いているの?」
窓の外にばかり興味を示す俺に拗ねた声がかけられる。
俺は誤魔化すかのように質問を返す。
──── なあ、人は何故歌を歌うんだろうな?
少し驚いたような、少し困ったような、そして寂しそうな微笑み。
「そうね、悲しみを忘れるため・・・かしら?」
いつもそうだった。
あいつはいつも、そうやって俺の聞きたい答えを探す。
きっとずっとそうして生きてきたのだろう。
ずっと“誰かの代わり”をしてきたあいつにとって、それは当たり前の事だったのかもしれない。
俺の名前はジョージ。
これは俺の思い出話さ。
……………
「ジョージ、いつまで寝てるのよ。お客様よ。」
甲高い子供の声が頭に響く。
勘弁してくれ、さっきソファに潜り込んだばかりだってのに。もちろん子供に朝帰りしたなんて言えないが。
「エイミー、学校はどうしたんだ?」
俺は無理矢理体を起こしながらまた誤魔化すように話をすり替える。
「日本人は日曜日も働くって噂は本当なの?本当に呆れた民族ね。日曜日は学校もお休みなの。当然わたしもお休み。
そうね、中学は楽しいわよ。友達だってできたわ。
でもなんかみんなまだ子供っぽいかな。
ここに来ている方がいいわ。
え?ダニエルなら居ないわよ。また例の「夢を買ってくる。」ってやつ。まったくあきれちゃうわよね。
に、してもジョージ、あなたまたお酒を飲み過ぎなんじゃないの?ひどい臭い。
さあ起きて。お客様の前に出る前にシャワーでも浴びなさいよ。そのよれよれのスーツも替え・・・は無いんだっけ。とにかく急いで。待ってるのよ。」
何か言い返そうと口を開きかけたらまたHurry up!だ。
やれやれ。
ソファに腰掛けながら上着を脱いでシャツのボタンを外したらまた怒られた。
レディの前でなにしてるの、だと。
そうか、そいつは悪かったな。
しかしちょっと寝起きには響きすぎる声だ。俺は少し黙らせる事にした。
そう、エイミーにも同じ質問をしたのだ。深い意味は全くない。ただエイミーには難しそうな、頭を捻らせるような問いかけならなんでもよかった。
だから軽い気持ちで口から出たんだ。
なあ、人は何故歌を歌うんだろうな?、と。
……………
あいつとはこの掃き溜めのような綺麗な街で出会った。決してロマンチックな出会いとはいえなかった。ろくに言葉もわからずに迷い込んできた野良犬を拾い上げてくれただけだ。
そんなちっぽけな縁だったが、この何もかもが虚像の街では大切にしたくなる暖かさを秘めていた。
だからこうして、ダニエルとコンビを組んで世話にならずとも大丈夫になった今でも、たまに会いに行っている。
──── あいつに会うのはそう難しい事じゃない。
アパートの下で胸元の開いたドレスを着ていたら暇な合図だ。居なかったら客が付いている。それだけさ。
あいつの値段は気分で変わる。
もっといい店に勤めれば高く売れるだろう、だが場末の相場通り安い日はたったの50ドルだ。
俺はいつも金は要らない、と言われる。
あいつと寝る金が無いことがバレているからだ。
他愛も無い話をして、近況を報告し合い、少しばかりの夢と愛を語り、そして部屋を後にする。それで金は取れないわよ、と、あいつはいつも笑って俺を見送ってくれる。
それに、仲間うちからもクライアントがついたと思われたそうだ。彼女たちにしてみたら身を守る大切な嘘だ。ま、実際はボディーガード位にしかならないが。
客じゃない男の出入りも役に立つものなんだな。
──── あいつはいつも、夢を語る時に遠い目をする。
もう夢は夢なんだと理解してしまった大人の目。
この何もない部屋にも淡い期待が灯る話。
ねぇ、もし私が死んだらさ────
あいつの口癖。
ねぇ、もし私が死んだらさ、私が一枚だけ出したCDにもプレミアがつくかな?
あの伝説の歌手みたいに、私がこんな仕事している事も逆に評判になると思うんだよね
こんな調子だ。
あまりにもよく使うフレーズなので、俺もあまり気にしないようにしていた。
もう、歌わないのか?と聞くとあいつはいつも寂しそうな顔をした。
誰か大手のプロデューサーでも客で来ないかなあ・・・まあね、そんな人はこんな裏通りの店になんか来ないのはわかってるんだけど、さ。
──── あいつはいつも“自分は誰かの代わり”なんだと言っていた。
口うるさくて相手をしてくれなくなった奥さんの代わり
変わったプレイをさせてくれない上品な彼女の代わり
高級店の女が買えない人には高級店の女の代わり
いつか出会う未来の恋人の代わりなんて時もある
そして・・・忘れたい人の代わりもあるよね、と、あいつは俺に言った。
裏通りの娼婦達は高級店には来ないような客の相手をする。もちろん望まれてない事も知っている。
だからせめてその誰かになろうとする。
その誰かになる事なんか決して出来ないと知りつつ。
「ねぇジョージ、もし私が死んだらさ、花の一輪でもいいから飾ってくれないかな?悲しんで欲しいなんて欲張りな事は言わないから、道端の花でもいいから、私を埋めた所において欲しいんだ。
それだけできっと私は満足して天国に行ける。
なんでだろうね、別にあなたの女になったわけでもないのにさ、あなたから欲しいんだ。
ああ、別にくれなかったからって化けて出たりしないから安心して。
そんな顔しないで、あなたにしかお願いしたくないんだからしょうがないじゃない。」
そう言われた翌日、俺は安い花束を持ってあいつの部屋に行った。
違うよ、と笑われたがあいつは心から嬉しそうに笑って受け取ってくれた。
俺は花束と同じくらいの自己満足を抱えて歩き出す。
曲がり角の手前で振り返ると、あいつはちょうど新しい客と値段の交渉をしている所だった。
……………
「幽霊屋敷の調査だって?ダメだダメだそんな依頼。いいかエイミー、ここのところ妙にGhostsだのUMAだのに出くわすが俺たちは霊能者でもUFO研究家でもない、探偵なんだ、しかも国際探偵。」
「競馬場は国際的かしら?留守番をしていてくれって言ったくせに。無くした眼鏡を探して欲しいって依頼とどちらがいい?」
「それでも呪われた依頼よりはマシさ。いいかい?エイミー、俺たちの人生に必要なものは天国に行ける魂なんだぜ。」
「そうね、それと家賃が必要かしら。ずいぶん溜め込んでるそうね?」
ダニエルが天を仰いだ。
まったく、抵抗なんてするだけ無駄さ。
依頼は単純だった。
競売に掛ける前に売り家の悪い噂を払拭しておきたいらしい。俺たちが数日泊まり込んで何もなければ依頼終了だ。簡単すぎるぜ。
せっかくエイミーが取り次いでくれた依頼だし、な。
俺たちはオーシャンアベニューにある目的の家に向かった。
白い壁に丸みを帯びた屋根。窓も多い、白いベランダが太陽に反射して輝いて見える。
一家六人が惨殺された現場だと知らなければ、誰も幽霊屋敷だなんて思わないだろう。
おい、ダニー。いつまでブツブツ言ってやがる。
俺はもらった合鍵でドアを開けて中へと入った。
建物の中は綺麗に整頓されていた。競売に掛ける前に持ち主が一度業者に頼んで清掃をしたらしい。
埃一つない部屋はひんやりとしていて、人の生活臭がない点を除けばなんの違和感もない普通の家だった。
近所の評判では「悪魔の棲む家」などと呼ばれていたが、なんのことはない、いい家じゃないか。
俺はまずソファを調べた。掃除が入っただけあって埃一つない。しかもちゃんと陰干ししてある。
今夜の寝床は決まったな。
この家は以前から幽霊屋敷という噂があった。
一家六人が惨殺された凄惨な事件、犯人は一人生き残った長男という話だ。その事件も動機が不明の怪事件だったらしいが、それ以降この屋敷には幽霊や悪魔を見た、という話が後を耐えない。
様々な人の手に渡って、いつの間にか噂も下火になっていたのだが、今回の清掃業者がまた「見た」と、いうのだ。
売値が下がらないように、と、依頼人は言っていた。
まあ、出るはずないんだがな。
俺は幽霊なんて信じていない。きっと臆病な奴が噂話を真に受けて幻でも見たんだろう。
そんな一人のダニエルは到着するなり二階から音がするとか、俺の後ろに子供がいるとかわめき散らし始めた。だが何度振り返っても誰もいない。からかうのもいい加減にしろよ。後ろ後ろ、って、俺はお笑い芸人じゃねえよ。
まあ、今回に限っては、実は少しだけ期待もしているんだがな。
──── もしも本当に幽霊なんてものがいるのなら・・・
いや、やめておこう。いるはずがない。
俺は馬鹿げた考えに縋りつきそうになった自分自身を戒めるように、一発頬を張ると、ダニエルを呼ぼうとしてそしていつの間にか相棒が居なくなっていることに気が付いた。
太陽が沈みかけていた。
金色に染める光が俺を迷わせる。
ダニエルは大丈夫だろう。確か「こんな所にしらふで居られるか。」とか言っていたから酒でも買い出しに行ってるのかも知れない。
「おじさん、一人?」
ふいに後ろから声をかけられ、振り返るとそこにはまだ小学生くらいの歳の男の子が立っていた。
俺が丁寧におじさんじゃないと訂正すると、驚くほど素直にごめんなさいが返ってきた。
「なにしてるの?」
「仕事だ。ぼうずこそこんなところで何してるんンだ?」
「・・・わからない。」
パパとママは?と聞くと見つからない、ずっと探してるんだ、と男の子は答えた。
「ねえ、おにいさん。」
子供の声が一段低くなった。
「パパとママを一緒に探してくれる?ぼく、さびしいんだ。」
「いや、仕事中だし、すまんがお断りさせてもらう。それにこの家はさっき一回りしたが誰も居なかったぜ。内覧に来たのか知らないが、きっとぼうずのパパとママはもうここには居ないんじゃないか?」
俺がきっぱりと断ると子供の目にみるみる大粒の涙が浮かんだ。
「そう・・・
そう・・・だよね・・・、ぼくもそうじゃないかな、と思っていたんだ。ずいぶん長い間探していたけど見つからないからさ、もう居ないかもってずっと思ってた・・・
でも、パパがぼくのことおいていくなんて。
だって、いつも言っていたんだよ
父さんはいつもそばにいるよって。
たとえ幽霊になってもおまえのそばにいるよ、って。」
俺は泣きそうな子供の頭を、髪の毛をわざとくしゃくしゃにしながら撫でた。
じゃあ、なおさら早く帰んな。
きっとパパもぼうずのことを探してるはずさ。早く行ってやるんだ。
そう言ってやると子供はぱあっと明るい笑顔を見せた。
そうだよね!ありがとう!と言うと一目散にドアを開けて飛び出していった。おい、もう日も暮れるからついて行ってやろうかと追いかけたが見回してももうどこにもいない。なんて足の速い子供なんだ。
太陽がまるで女でも待たせているかのように早足で沈んでいく。
照り付けるような夏の日差しがなりをひそめると、代わりに俺の好きな風がダンスを踊り始めた。
──── 幽霊になっても、か。
まったく、あんな小さい子供に心配かけさせるんじゃねぇよ。
俺はタバコに火をつけた。喫煙は許可されてなかったが家の外なら文句もないだろう。
幽霊になっても
そうだな
幽霊でもいいから、さ
たとえ幽霊でもいいから・・・もう一度・・・
……………
あいつはよく海が見たいと言っていた。
最後の言葉も、そう言えばそうだったか。
最後の最後、真っ暗なあいつの部屋にはベッドとあいつの痩せた体しか残ってなかった。
持ってるもの全てを売っても薬が買えなかった。それだけさ。
──── 海が見たいな、ジョージ
か細い声であいつはそう言った。
それが最後の言葉だった。
俺はあいつの手を握りながら、ベッドの脇に腰かけていた。
帽子を目深におろし、小さく一言だけ祈りの言葉をつぶやいた。
くそったれな神様とやらに、この時だけは祈りたい気分だった。
今夜も窓の外からブルースが聞こえる。
涙をこらえているようないつもの声。
俺の代わりに泣いてくれるような、いつもの歌が聞こえていた。
馬鹿野郎────
俺の祈りの言葉は、あいつに聞こえただろうか。
……………エピローグ
「ジョージ、起きて。起きなさい!ダニエルも!お客様が来てるのよ。まったくあなたたちは私が居なかったら何人のお客様を逃しているのかしら?早く起きてせめて顔くらい洗ってきなさいよ。」
またエイミーの甲高い声が響く。
その声に釣られてベッドからダニエルが顔を出した。
この間の幽霊屋敷事件から、俺たちの名前は妙に売れた。ただ、探偵としてではなくエクソシスト扱いなのが気になるが。
あの有名な幽霊屋敷はあれからピタリと怪現象が収まったそうだ。まあ、そもそも何も無かったわけだが、依頼人が本当に喜んでくれて俺たちの事を言い回ったらしい。
まったく、余計な事をしてくれるぜ。
あいつは海の見える墓地に埋葬された。
無縁仏同然の扱いだったが、それだけはあいつの望みを叶えてやれた。
だが、俺は葬式以来一度もあいつの墓に行っていない。
結局あいつの望みだった花を一度も墓に添えていない。
こんな馬鹿げた気持ちになったのは初めてだ。
──── 花を添えたら、あいつが行ってしまう。
なんて、馬鹿だな、俺も・・・
でもまだ伝えてない事がある。
伝えなければならない事がある。
幽霊でもいいから・・・もう一度・・・
エイミーのHurry up!が響き渡り、ダニエルがYes ma'am!と敬礼をしながら飛び起きた。
あいつらは一体何をやっているんだ。
彼女は俺のところにも歩いてきて、お得意の腰に手を当てるポーズで仁王立ちになった。
その姿は初めて出会った時と変わらないが、あれから驚くほど背が伸びたエイミーは時折どきりとするような大人びた表情を見せる。
──── ジョージ、私わかったわ
エイミーはちょっとはにかみながら、ちょっと得意げに、俺にだけ聞こえるように小さな声で言った。
──── 人は、前を向いて生きていくために歌を歌うのよ
俺はびっくりしていたらしい。
エイミーの「大丈夫?」という言葉に我に返り、ソファに座りなおして帽子を目深にかぶった。
哀しさと悔しさに支配されていた時には流れなかったものが、今、溢れ出そうとしていた。
もう二度と出会えない赤いピアス。
絶対気づかれたくない俺は、それからしばらくエイミーに怒られながらもそうして狸寝入りを決め込んだのだった。




