「犬神」
── セピア色の時間
少年は泣いていた。
少女は少年の頭をやさしく撫で、
そしてゆっくりと、包み込むようにその身体を抱きしめた。
「タカト。」
少女は少年の名前を呼んだ。
おねえちゃんが守ってあげる───
ずっと守ってあげるから───
そしてもう一度、少女は少年の名前を呼んだ。
二人はそっと抱き合い、その小さな身体を支えあった。
それは遠い日の、二人の淡い誓い───
……………
「河野タカト、だな。」
俺の言葉に奴は身を強張らせた。
新宿、大ガードの下は今日も排気ガスと舞い上がる埃で薄く煙っている。
何故か落ち着く喧騒と、絶え間なく続くアスファルトの削れる音の中で、俺はターゲットである河野タカトを見つけた。
快晴の天気にも関わらず、薄暗い影の中に漂う饐えた臭いは夜のままだ。
「河野由美の依頼で来た。警察じゃない。」
姉の名前を出すとほんの少しだけ、タカトの瞳の色が緩んだ。
「警察じゃ・・・ない?」
「河野由美が待っている。一緒に来い。」
姉の名前にタカトは反応する。
抜き身の日本刀のようなその危うさに、僅かに穏やかな表情が戻る。
俺の呼びかけはうまくいくかのように見えた。
だが、追われる野犬はすぐに警戒を取り戻し、その牙を剥いた。
俺の後ろから警官が、奴の名前を叫びながら駆けて来たからだ。
なんてタイミングの悪さだ。
「騙しやがって・・・。」
奴の目には激しい怒りと悲しみが浮かんでいた。
タカトは少しずつ俺との距離を離し始めた。
「どいつもこいつも俺を追い回しやがって。」
タカトは顔を赤らめ、いきなり興奮しだしたように見えた。
まるで何かの発作だ。怒りをコントロールできない子供のようだ。
「俺が“犬神”だからか!そうなのか!」
タカトは力任せに立て掛けてあった看板を蹴り飛ばした。
通行人が振り返る。
ちくしょう。マコト、逃がすな。
俺の合図で背後に回っていたマコトが飛び掛る。
同時に俺も奴と向けて走り出した。
河野タカトを捕まえてオマワリから逃れる。一瞬の勝負だ。
だが奴はマコトが手を伸ばして捕らえようとしたその刹那、あり得ない跳躍を見せて目の前から消えた。
ガード下の剥きだしになった鉄骨に指を掛け、さらに遠く飛び上がる。
そのまま高架の上へと姿を消した。
呆気に取られている俺たちを尻目に見事な逃げっぷりだ。
鮮やかに追跡を振り切ったタカトを追って、警官が慌しく無線で連絡を取っている。
俺たちも姿を消すことにした。
これ以上ここに留まっていてもろくなことはないからな。
ふん
俺の名前はジョージ。獲物に逃げられた間抜けな猟犬さ。
……………
── 幼い少年と少女。
「ねぇ、なに、それ。」
手の中の小さな命。
白く震える“それ”は一見してまるで小さなハツカネズミのようにも見える。
「かわいいー。」
その言葉の主もそう思ったようだった。でも、“これ”は違う。
「かわいいでしょ。でもね。」
笑顔の中に幼い狂気が混ざる。
その小さな両手が白い命を掴む。左手は首に、右手は身体に。
そして、渾身の力を込めて捻り上げた。
悲鳴。
幼い目にもわかる。それはやっちゃいけないことなんだ、と。
「やめてよう。やめてよう。」
大丈夫、泣かないで。“これ”は死んでない。
殺せない。何をしても殺せない。
もう何度も殺したはずなのに。
もう何度も殺したはずなのに───
……………
俺たちは新宿の片隅にある寂れた個人診療所へと逃げ込んだ。
そこは金さえ積めばどんな患者でも請け負う、闇の医者の住む場所だ。
昨日、俺たちはここへと一人の女性を預けたばかりだ。
預けた患者の名前は河野由美。
俺の依頼人だ。
「様子はどうだ?ドク。」
「逃げられたようじゃの?」
俺たちの気配を察して奥の部屋から姿を見せた“ドクター”毒島は俺の質問などには耳を貸さず、意地悪くヒッヒッヒ、と笑い声を上げた。
その背後には顔を半分もマスクで隠した白衣の看護婦が控えている。
最近雇った助手と聞いたが、このじじいの傍にこんな美人が訳も無く居る筈が無い。
あまり近づかないほうがいいぞ、マコト。
“ドク”はひとしきり俺に情けないだの悪態をついた後、やっと質問を思い出してくれたようだった。
「ただの貧血じゃよ。今は精神安定剤の効果でぐっすり寝ておる。」
「料金はいつもどおりツケでよろしいですね。ジョージ様。」
辛辣な看護婦の言葉に苦笑して、俺たちはとりあえず固いソファに腰を降ろした。
「ただ・・・。」
「?」
「いや・・・あの娘、恐らく妊娠しておるぞ。まあ、検査をしたわけじゃない。
触診だけだから確実とは言えんが儂の見立てじゃまず間違いなかろう。
その、例の事件とも、何か関係あるのかも知れんな。」
……………
由美は、俺にあの日の出来事を話してくれた。
「なんで?、姉さんはそれでいいのかよ!」
またタカトのいつもの発作が始まる。
怒りをコントロールできない弟はその感情の波に揉まれ、激しく身体を震わせた。
何かに怯え、怒りをぶつけ、衝動のままに生きている。
由美の婚約は今日、一方的に破棄された。
その理由を、タカトは自分のせいだと何度も言った。
俺が“犬神”だからなのか。
この地方では古くから犬神憑きの家との婚姻を嫌う。
古い風習だが、それは現代でも根強く人々の心に染み付いていた。
由美は何も言わなかった。
誰のせいとも言わない。笑いもしないが泣きもしない。
ただ、ありのままに、現実だけを受け止めようとしていた。
タカトはあまりの怒りに気も狂わんばかりに暴れ、泣き、吠えた。
暫く暴れた後、タカトは家を飛び出していった。
由美の元婚約者が殺されたのは、その夜のことだ。
タカトには発作が起こっている間の記憶が無い。
重要参考人として全国に指名手配されたのは次の日の正午近く。
東京で発見されたのはそれから三日後のことだった。
由美はタカトを助けるために、ツテを辿って興信所へと足を運んだ。
そう、俺の事務所に。
……………
出されたコーヒーは味はまあまあだったが、熱かった。冷えた体にはそれだけで美味い。
俺は機嫌を良くして気になっていた質問をドクにぶつけてみる事にした。
奴が逃げる前に口走った“犬神”というものを俺は知らなかったからだ。
確か、九州や四国に伝わる呪詛じゃな。とドクが答えた。
俺は呪いなんてものは信じちゃいない。俺が聞きたいのはそんなことじゃない。
そんな俺の表情はちゃんとドクに伝わったようだった。
犬神とは何だ?精神病なのか?
ドクはふん、と鼻で笑うと“ドクター”としての意見を述べ始めた。
「凶暴性を増す病気はいくつもある。狂犬病、脳炎、うつ病など精神や脳が正常に働かなくなったときに理性のコントロールが効かなくなるんじゃな。
“犬神憑き”の症状は今の若いモンが診れば間違いなく統合失調症と診断を下すじゃろうな。情緒が不安定になり、凶暴になり、幻覚を見たり幻聴を聞いたりする。
周りの人間すべてが敵に思えたり、時には凶暴性を発揮して激しく敵対したりもする。
じゃがな、真の“犬神憑き”はこの病気じゃないぞぃ。
まぁ頭の固いお前さんに言っても無駄かの。ヒッヒッヒ。」
この薮医者、一言多いぜ────
俺のターゲット=河野タカトがこの“犬神憑き”とやらだとして、河野由美の元婚約者殺害の可能性はあるのだろうか。俺が知りたいのはその一点だ。
由美の元婚約者は鋭い刃物のようなもので頚動脈を切られていた。
あんなに興奮して暴れるような奴が、果たして冷静にナイフを扱えるものだろうか。
俺にはどうしても奴が犯人だとは思えない。
……………
──── あれはいつのことだっただろう?
「私、河野君とはもう付き合えないわ。」
「・・・。」
「だって・・・河野君の家って・・・犬神の家なんでしょ。」
「!!、誰が・・・?そんなことを・・・」
「誰だっていいわ。ねえ、なんで教えてくれなかったの?」
「・・・。」
「なんで黙っていたの?
私を騙すつもりだったの?
犬神の家だってばれたら、付き合えないと思ったから?
嘘をついて付き合うつもりだったワケ?」
「・・・ちがう。おれは。」
「私、もうあなたのコト、信じられない。」
さよなら────
「タカトさんが見つかりました!」
違う男の声が混ざる。景色が急速に色を帯びて薄れてゆく。
あれは・・・誰の声?
……………
「タカトさんが見つかりました!」
マコトを俺の馴染みの情報屋へと走らせてから30分も経っていない。
いい知らせじゃないことは明らかだった。
「今、中央公園で警官隊に取り囲まれているようです。かなり派手に立ち回りをしたみたいで・・・警官が何人も負傷したって言っていました。」
ちくしょう、最悪の展開だぜ。
河野由美の依頼は弟を助けて欲しい、だった。
タカトは婚約者を殺してなんかいない。調べてもらえば解る。と由美は言った。
興奮して逃げたタカトを自首させるように説得する予定だった。もしも発作が始まり手に負えないようなら、由美の元に連れてくれば、由美が説得に当たるという手はずだった。
警官に怪我をさせたとなれば、もう何を言っても逮捕は免れない。
ちくしょう。いくぞ、マコト。
コートを掴んで立ち上がった俺の耳に、さらに追い討ちをかけるように最悪な音が続く。
あれは、ガラスの割れる音だ。
しかも間違いなく由美の寝ていた部屋からした。
開けたドアの向こうにはやはりからっぽのベッドがあるだけだ。
俺はさらに襲い掛かる悪い予感を振り払うように走り出した。
「センセは動かないでくださいね。」
まだ、居ますわ────
看護婦がわけのわからない事を呟いているのが聞こえたが、気にしている場合じゃない。
……………
──── 二人きりの景色。
欲望のままに想いを果たした弟は、姉の腕の中で今、安らかに眠っていた。
二人とも服を着たままだ。
弟はズボンと下着を半分ほど降ろしただけ。
姉はスカートをただ腰の位置まで上げ、僅かに下着をずらしただけだった。
いつもの発作。
誰にも受け入れられない弟は、いつも激しく姉を求める。
前戯も愛撫も無い、獣の欲求。
犬神の家
社会から孤立したこの家系の歴史では、それは取り立てて珍しいことではなかった。
タカトは激しかった。
激しく固い肉の欲に、由美は快感よりも痛みを覚えた。
だが、それは幸せな苦痛。
痛みも、悲しみも、孤独も
すべて彼女が
彼女だけが受け止められる。
二人きりの誓いの時間
由美は果てた弟の身体をいつまでも優しく、強く抱きしめていた。
……………
息を切らせて俺たちが人だかりに辿りついた時。そこには倒れているタカトと、タカトに覆いかぶさるように抱きつき、彼を守っている由美の姿があった。
由美はまるで子犬を守る母犬のようだった。
タカトは気を失っているようだ。由美の手と顔に血が飛んでいるのが見えた。
撃たれたのかと錯覚したが、どうやらそうではないらしい。
血まみれで運び出される警官の姿が数人見えたからだ。
二人は程無くして警官たちに逮捕された。
由美はなにも抵抗しなかった。指を咥えて見ていることしかできない俺たちを一瞥して、由美は警官たちに取り囲まれて歩き去っていった。
あの時、俺たちが辿り着くまでの短い時間に何が起こったのか。
俺は周囲の野次馬たちにしつこく食い下がったが、誰一人としてきちんと説明できた人は居なかった。
由美はタカトを取り押さえようと襲い掛かる警官たちに噛み付き、暴れ、そしてタカトを守って地に伏せた。大の大人、それも訓練された警官隊が一人の女性に次々と振り回され、投げ飛ばされ、道を譲っていく姿は信じようと思ってもなかなか信じられる姿では無かったという。
さらに彼女に近づく警官たちは何故か腕や顔を切られるために次第に包囲するのみになり、結局彼女が落ち着くまで待つことになった。と、いう展開だったらしい。
「これでよかったんでしょうか・・・?」
ひと通り聞き込みを終えた後、マコトがそう呟いた。
全てはこれからだ。疑いを晴らすのも、罪を償うのも。全てはこれからだ。
マコトはそのことを解っている。
すべてはこれから、
だが、俺は吐き捨てるように言い放った。
「いいはずねえだろ。」
俺たちがあの二人の、何の力になれたっていうんだ。




