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第30章・「おやすみ」

「まったく、この病院はセキュリティがなっとらんのぅ。出るのも入るのも簡単すぎるわ」


「そりゃ普通勝手に出ねぇからな。病人は」


 夜季は病室のベッドに”じぃ”を寝かせる。


「ふーっ。ようやく落ち着いたわい。……さてさて、お前ら今からなにをするつもりだ?」


 同じく忍び込んでて来た一同を見渡す。


「じぃ……ゴメン。あたし、みんなにしゃべっちゃった。じぃの体調のこと……」


「僕たちの方から問い詰めたんです。どうしても心配で……」


 凛の表情は暗い。壬織や有田もだ。


「なに、構わんさ。むしろ今は心配してくれて嬉しいぞ」


 ”じぃ”がそう言った時、低い声が聞こえた。


「あと、どのくらいだ?」


 そう言ったのは、夕紫だった。


「ユーシ? どのくらいって……」


 雛子が聞き返すが、夕紫は答えない。


「……フフ。ワシが答えんでも薄々感じておろう。」


 ”じぃ”はかすかに笑う。


「もう、まもなくだな。明日の朝日も拝めそうにない」


「お、おいジジィ!」


「じぃっ!?」


 夜季と雛子が同時に声を上げる。


「しーっ。静かにしとかにゃ見つかるぞ」


「どのくらいって……まさか」


「ん? ワシの寿命のことかと思うたが、(ちご)うっとったか? ユーシ」


 夕紫は答えない。


「じぃ、ダメだよそんなこと言っちゃ……。ちゃんと退院して、クリスマス楽しもうって言ったのに……。そんなこと言っちゃダメ……」


「スーコ」


 ”じぃ”はベッドの横に座り込んだ雛子の頭をなでる。


「ワシは楽しかったぞ。この3か月、生涯のうちでもっとも充実した日々だった。スーコやヨキ達のおかげでな。……もうこれ以上、何も望むことはない」


「そんな……じぃ……」


「ワシが話したいことは、全てヨキに伝えた。あとはもう……」


「唖倉先生っ!」


 凛が言葉を遮る。


「なに言ってんスか!」


「先生……」


 有田、壬織、も声をかける。


「じぃさん、俺はまだ、アンタに償いきれて……」


 暮越もだ。


「そう言われてもな。今更どうにもならんこっちゃ」


「ジジィっ!」


「じぃ!」


 ベッドの周りを若者たちが囲む。”じぃ”は一人一人の顔を見ながら口を開く。


「……3か月前まで、想像もしとらんかった。ワシの死に際にこれ程の人間が集まってくれるとはの」


 その声にはすでに覇気がなかった。舞台に幕を下ろすような、そんな声だった。


「人は生きていれば必ずいつか死ぬ。そして生きている者は、その人間の死を越えて生きねばならん。……人の命は重い。だが、大勢で背負えば負担は減る」


 雛子の頭に置いた手を、すっと引いて布団の中に戻す。


「ワシの人生はマイナスから始まった。なにをしたわけでもなく、髪が白いというだけで虐げられてきた。それでも、どんな苦境でも、あきらめずに前を目指せばいつかはプラスになる。日陰に落ちた種でも、花を咲かせることは出来るのだ」


 すすり泣く声がする。壬織だ。


「今、ワシは親友たちに囲まれている。人並み以上の幸福のなかにいる。……このまま眠ることが出来れば、これに勝るものはない」


「じぃ……」


「実感があるんだ。次に目を閉じれば、二度と目覚めんという実感がな。」


 ”じぃ”の瞳が、孫を見据える。


「スーコ。お前は一人じゃない。ワシがいなくなっても、リンやユーシ、マモルや壬織がおる。これからは暮越とも仲良く出来る。そして……」


「……俺がいる。後は任せろ」


 夜季は静かに、けれども力強く言った。


「フフ……そうだな。ヨキ。全ては……お前さんに託したぞ」


「……ああ。……おやすみ、ジジィ」


「ヨキ!?」


 雛子が驚いて顔を上げる。


「なに言ってんの!? ヨキ!」


 すると、今度は夕紫が口を開いた。


「……おやすみ」


「ユーシ!?」


 思わず声が大きくなる。


「……ククク。おやすみ、か。さようなら、よりはありがたいな。……ほれ、残りのもんも言うてくれるか?」


「じぃっ!」


 沈黙の後、有田が、続いて暮越が言った。


「おやすみなさい」


「おやすみ……じぃさん」


 そして、凛がすすり泣く壬織の肩に手を置き、別れの言葉を促す。


「おやすみなさい……唖倉先生」


「おや、すみ……なさ、い……」


「リン……ミオちゃん……」


 残るは雛子一人となった。


「スー……」


「イヤっ!」


 雛子は”じぃ”の腕にすがり、頭を伏せる。


「いやや……。じぃ、死なんでよ……。ウチ、ウチ、じぃがおらんと……っ!」


「スーコ。ワシがいなくなるんはイヤか?」


「いやに決まっっちょんやん!」


「そうか……。わかった」


 ”じぃ”はわざと明るく口調を変えた。


「それじゃあ、ワシはどこにも行かん。体はのうなっても、ずっとスーコの近くにおる」


「ウチの、近く……?」


「そうだ。約束する。ワシはいつまでもスーコを見守ってやる。だから……」


 ニヤリと笑ってみせる。


「今は……眠らせちくり。ちぃっと疲れたわ」


 そう言われても、雛子はベッドに顔を伏せたままだ。


「スーコ」


 その背に、夜季が手を触れた。そして雛子の耳元に口を近づけ、二人にしか聞こえないようにつぶやく。


「ジジィは、お前に笑っていてほしいんだぞ」


「あっ……」


 雛子は顔をあげ、”じぃ”を見る。目が合った”じぃ”は微笑んだ。


 それを見て、雛子もまた、静かに笑みを浮かべた。同時に、少しだけの涙も。


「約束、だからね。じぃ」


「ああ」


「それじゃ……」


 ゆっくりと、その言葉を放つ。


「……おやすみなさい。じぃ」


 老人の目にも、かすかに光るものがあった。


「おう。おやすみ……」


 そして朝浦義朗は目を閉じた。その日は、雪は降らなかった――

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