世界崩壊の始まり5
真っ黒で真っ暗な世界から目が覚めると、目の前に映るのは、見慣れた、もしくは見飽きた、薄汚れた僕の部屋の天井だった。
今は、何時だろうかと身体を動かそうとすると、予想以上の身体の重さに驚く。昨日、そんな激しい運動をしたのだろうか。筋肉痛とは違った気だるさのようなものが体中を蝕んでいるようで、思い通りに動かない。
昨日の出来事を思い出そうとしてみるが、不思議な事に上手く思いだせない。正確に言うと思いだそうとすると、頭の中に白い靄が出てくるようで、イメージが浮かばない。何かに邪魔されているようななんとも不快な気分になる。
とまあ、そんな事を考えてみたりするが、ただ単に寝ぼけているだけで思いだす事ができないんだろう。
のろのろと身体を動かし、枕もとに置いてある時計に目をやる。午前8時を少し過ぎた辺りで、時計の長針は止まっている。
「……うん、まだいける」
何事もなかったかのように、また瞼を閉じる。ゆっくりと睡魔が身体を包み込んでいくのが分かる。うん、二度寝最高。
「――リンちゃん必殺、回転ヒップドロップ!」
「――っぐぼはぁっ!?」
二度目の睡眠状態に完全に入ろうとした直前、腹部に強烈な衝撃が走る。
たまらずむせ込みながら、飛び跳ねるように起き上がる。
「っげほっげほぉ……」
「あっ、お兄ちゃん起きた?」
「い、一生眠りから覚めなくなるとこだっ!」
朝っぱらから、無駄に陽気な声が耳の中に入ってくる。元気はつらつとしたその口調は、いつも通りの調子である。
深呼吸して、呼吸を整えてから、小柄で、八重歯が特徴的な我が妹を睨みつける。
「だってお兄ちゃん、また二度寝する所だったでしょう。駄目だよ二度寝なんかしちゃ。この時間で二度寝して遅刻しない時なんて一度もないじゃんか」
腕を組みながら、説教めいた口調でそんな事を言ってくる。
こいつの名前は、『中山田凛』。通称リンで、家族から呼ばれている。もちろん、僕もその呼び方である。
「よし、わかった。とりあえず、起こしてくれた事には礼をしよう。だが……何故に普通に起こす事ができないんだよっ!」
「え、普通に起こしてるでしょ?」
「お前『必殺』って言ってただろうが……」
何が可笑しいの、と言わんばかりに首を傾げて見せる。
なんともそんな仕草にすでに屈してしまいそうな僕だが、我が妹こと中山田凛は、兄の目線にしても、一般的な目線にしても、なかなかの美少女であると思う。
小柄な体に、ショートカットの髪型は、一瞬美少年を思わせがちだが、そのヘアスタイルとは対照的な、女の子特有の甘ったるい声は、なかなか男心をくすぐるものがある。
現に、リンが通う中学の男子達の間では、密かにファンクラブなるものが結成されてるとか、ないとか。実に、兄の立場としてはなんとも反応しづらいものである。
そういえば、そのファンクラブのファンサイトが最近出来たとかクラスの男子がこっちの方をちらちら見ながらそんな事を言ってたような気がする。あー、チェックしといた方が良いんだろうか、うん、しておこう。
「毎度毎度、毎回毎回、何度も言ってるかもしれないがな。少し身体をゆすって、『お兄ちゃん、朝だよ。これ以上寝たら遅刻しちゃうから起きて、もうっ』と、言えば良いところを、何故にわざわざ空中で一回転してそのまま重力に身体を任せて、僕の腹部目がけてヒップドロップする必要があるんだ!?」
「なんだ、お兄ちゃん起きてたんじゃんか」
「あれだけ大きな声出してたら、夢の中でも響き渡ってくるよ」
「どう格好良かったでしょ? ちなみに一回転じゃなくて、正確にいうと二回転半ひねりをしてからのヒップドロップだよ」
「知るか!?」
にんまりと、実年齢よりも幼く見える悪戯好きな笑顔を見せる。髪型のせいもあるが、余計に少年のように見えてしまう。
そう、我が妹の良いところでもあり、悪い所でもあるのがこれである。
運動音痴の僕とは対照的に、むしろ僕の運動スキルを全て奪っていったのではないかと思えるくらいに、リンの身体能力は女子中学生のそれを遥かに上回っている。。
特に、もの凄い筋肉があったりするわけではないのだけど、それ以外の能力がずば抜けている。
身体のしなやかさ。身のこなし。瞬発力。持久力。などなど。
本人いわくまだまだ動きに無駄がありすぎるのだとかなんとか言っていたりもするが、僕に言わせてみれば、中国雑技団にも軽々通用するのではないかと思ってしまうくらいだ。
そんな身体能力であるから、色々なスポーツ高校からの勧誘も来ていてもおかしくないのだが、リンの元には一度もそう言ったものは来てないらしい。それは、自分から、その身体能力を学校で発揮するのを抑えているかららしい。
なんでそんな事をするんだ? と昔リンに問いかけてみた事がある。だってそうだろ。そんな能力があるんだから、学校中のヒーローになれてもなんら可笑しくないことなのに。
だけどリンから返ってきた言葉は実にシンプルなものだった。
『だって、面倒臭いじゃんか』
その時僕は改めて確信した。あぁ、こいつは僕の妹だ。
どこまでの身体能力がリンに秘められているのか定かではないけども、きっと瞬く間に、栄光と駆け引きにして、騒がしい毎日にその身を費やす事になるだろう。
それは人によって、最高の人生へと続く道の分け目となる話かもしれない、けど僕はそんな面倒な事はしたくない。
平凡で、平坦で、平行な人生を歩む僕からしてみれば、苦行以外の何者でもない。妹であるリンも、僕ほどではないけど、通ずる所があるらしい。
まあ、なんにせよ。
そんな身体能力があるもんだから、毎朝のごとくアクロバットよろしい動きで起こされるはめになってるわけだ。うん、実に迷惑極まりない。
「別にそんな変な起こし方してないと思うんだけどなぁ」
「お前は一度、『お兄ちゃんの優しい朝の起こし方マニュアル』でも読んでみるべきだ」
「えーそんなものどこに売ってるのさ? というか、お兄ちゃんが毎日のように寝坊しなければ良い話じゃんか」
むむ。それを言われてしまうと、何も言い返せなくなってしまう。いや、これでは兄の威厳が保てない。
「それは、だな。我が妹よ、僕はただ寝坊をしているわけじゃないんだ。お兄ちゃんはわざと寝坊しているフリをして、兄弟間のコミュニケーションを深めるスキンシップとして、こうして毎朝毎朝自分の身を削るようにして同じ事を繰り返しているんだぞ。せっかく僕たちはこうして兄弟になる事が出来たんだ。たった二人の兄弟としてな。それが、毎日のように互いにいがみ合ってるなんてそんな兄弟関係は嫌だろ? そんな悲しい現実は嫌だろう? 僕だってそんな悲しみが溢れる家族生活を送りたくはないんだ。わかるだろ、リン」
我ながらなんて見え透いた嘘なんだろうか。さすがにばればれにも程がある嘘である。まあ、身を削るという所は、間違いではないだろう。
大体、二度寝にそんな深い意味があるわけがない、ただ眠たいから、寝る。それだけだ。
そんな嘘にもならない言葉を聞くと、リンの目は見開く。
「ふーん……さすがはお兄ちゃんだね! リンはてっきり、ただ眠り足りないからぐーたら、だらしなく二度寝をしているだけなのかと思ってたよ! ごめんなさいお兄ちゃん、変な風に疑っちゃって……」
「い、いや、わかれば良いんだよ」
その通り、ぐーたら、だらしがない、お兄ちゃんです。
何故だか理由はわからないけど、僕に絶対とまでは言えないかもしれないが、この可愛らしいスポーツ万能妹は、それなりの確固たる信頼を僕に寄せているのだ。
まあ、もしくはただの馬鹿な妹なだけなのか。
平凡極まりなく、なんの特徴もないこの僕のどこにそんな信頼するようなところがあるというのか、未だにわからないが、兄としては、存外悪くない気持ちである。むしろ心地良くさえも感じる。
きらきらと光る眼差しに若干の罪悪感を感じなくもないので、なんとも歯がゆい感じでもあるのだけど。
そんなきらきらとした純粋な目をしたリンは、うんうん、と一人何かをつぶやきながらも頷いている。
「ん、どうした」
「あのね、まさかお兄ちゃんがそんな風に考えてくれているとは思わなかったんだけど、そう言う事ならリンも、もっと本気を出していかなきゃなと思って」
「は?」
何か、今聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がするんだけど。本気とは一体何を指しての本気なんだろうか。
「明日からは、もっと凄い、秘儀超絶アクロバット方式で起こしてあげるねお兄ちゃんっ!」
「た、頼むから止めてくれえええっ!」
とにかく命の危険しか感じないので、必死に引きとめる。口は災いの元とはこの事を言うのだろうか。リンの目の輝きはいっそう増していくだけである。
「お兄ちゃん、これからも絶対に二度寝してね」
これから僕は二度寝をする事がこの家に居る限り、一生出来なそうだ。妹をただ言いくるめるだけのはずが、自分の首を絞めることになるとは、人生本当に分からないものである。
「さて、と。朝食出来てるから早くおいでよお兄ちゃん」
「へいへい。わかりましたよ」
「あ、それとお兄ちゃん」
「ん、なんだ」
ドアを出て行こうとするリンは、にやーっと、いやらしい笑みを浮かべて指をさす。いつの間にそんな顔ができる様になったんだ、けしからん。
「まあ、年頃の男子高校生なんだからしょうがないのかもしれないけどさ。どんな夢を見てたのか知らないけど、ちょっとは自制した方が良いかもね」
「はあ?」
「鏡見てみなぁー」
そう言うと、さっそうと部屋を出ていく妹を見やりながら、頭をかきむしる。少し癖のある髪が寝ぐせのせいでボンバーヘッドも良いところである。
一体何の事を言ってるんだろうか、と思いながら壁に掛けてある長方形の鏡に顔を映し出す。
「……は?」
その鏡に映ったのは、両方の鼻穴から鼻血を出して真っ赤な二本の線が出来ている僕の顔だった。なんと間抜けな顔なんだろう。
いそいで、ティッシュをつかみとり、拭こうとすると、固まってしまっていたのか、かさぶたを剥がすような痛みが走る。
「っつ……一体、どんな夢を見てたんだよ僕は」
こんな姿を妹に見られてしまったかと思うと、急に恥ずかしくなる。
どんな夢を、と思うと思いだせるのは、黒、というイメージだけ。いつの間に僕は色に興奮してしまうような性癖を持ち合わせたんだろうか。
ゆっくりと引きはがすようにして、取り残しがないか鏡で確認しながら、さらに、パジャマではなく、制服を着ている事に今更気付く。
どうして、自分は制服のまま寝てしまったのか。そんな事は今まで一度もしたことが無かったのに。
寝汗が酷いのもあり、いくらこれから学校に行くとしても、シャツだけ取り替えようと思い、肘の部分を見て、寝ぼけ眼が一気に見開く。
削れた様に歪な穴が空いている、そしてその周りには血。おかしなことに、その歪な穴から見える地肌は肌色のままで、特に傷が出来ている風には見えない。
理由は分からないけど、きっと自分のではないシャツを着ているのかと思い、急いで脱いでみると、タグには、恥ずかしいから止めてほしいと、何度も母親に申告するも、小さく書かれている『ヘビ』のマーク。母親いわく名前の代わりに『龍』のマークとのことだが、どう見ても小さい角を生やしたヘビにしか見えない。
だが、そんなチープなシンボルマークを見て、このシャツは自分のものである事を確信する。
ただ、それが自分のシャツだろうがそうじゃなかろうが、穴が空いていて、その周りが血だらけだとしても良い、きっと『何かがあってこうなった』のだから。
問題は、その『何かがあってこうなった事が思いだせない』事だ。
「……あぁ、何も思いだせない」
思い出す、というよりも、昨日の事をなんとか思いだそうとすると、いきなり靄がかかり始めて、手繰り寄せようとするも、あっという間にするりと逃げていく。
どうしたんだろうか、それも、学校での授業内容はなんとなく思いだす事が出来るのだけど、そこから先、下校中の事が思いだせない。いつも通り帰っただけで印象が薄かったからだろうか。
いや、そんな事はない。現に肘の部分を怪我している、わけじゃないけど、シャツに穴が空いて、その周りに血が付いている。どこかで転んだとか、そんな記憶が無いわけがない。
それに、何のイベントが無かったとしても、何も覚えていないなんてことありえるのだろうか。確かに僕はいつも通りの道を、いつも通りの歩幅で、無気力に一人で歩いて―――
「ん、僕は一人で帰ったのか? それとも誰かと―――」
「お兄ちゃあああああん! また寝ちゃったのー?」
「あぁ、わかった今行くよ」
何か非常に重大な、衝撃的な、何かを思い出せそうな気がしたのだが、それははかなくも、一階から聞こえてくる妹の馬鹿でかい呼び声によってかき消されて無くなってしまった。元気よく活発に成長しているのは良い傾向ではあるけども、もう少しおしとやかな部分も成長してくれれば、と密かに願うばかりだ。
ベッドから気だるい身体をどうにか立ち上がらせて、思い切り背伸びをしてから頭を左右に、もやもやとした何かを振り払おうとする。依然、巣を張った様に晴れる気はしない。
「まあ……本当に、必要な事だったらそのうち思いだすだろ」
思いだせないのは非常に歯がゆくも感じるけど、思いだせないものはしょうがない。そんな風に楽観的につぶやいて、僕は朝食を食べに部屋から出た。