世界崩壊の始まり
「あら、いつの間にか夕方になるのね」
辺りは夕日のオレンジ一色に染まっていた。家も、木も、壁も、人も、犬も、全てオレンジ一色に。
うんざりする様な梅雨の時期が過ぎて、夏が始まりを告げているかのように日は長くなり、なかなか夜を向かえない。僕としては早い事、夜になって欲しいと願うばかりである。
春夏秋冬。四季の内で一番夏が好きなように思えるのは、夏の夜のおかげだと思うのはきっと、僕だけではないだろう。
うだるような暑さの日中とは対照的な、夜の風の涼しさ。あれは自然界で最上級のもてなしだと言っても過言ではない。
今日は、まだそこまで暑くない。暖かいと暑いの間の気温といったら良いだろうか。一般的に言っても非常に過ごしやすい一日だったと思える。
天気は快晴。本格的な夏の序章を告げる様な天候に、暑がりで、寒がりの僕にとっては、少し憂鬱な所だけど、雨が降るよりかは、晴れてくれた方がもちろん良い。たまに思い切り汗をかく事も、すっきりとした爽快感を感じるので悪くない。
そう、爽やかに感じれる汗であれば、だ。
「あら、なんて顔をしているのかしら? 中山田くん」
気温とは関係なく、背中には、ひんやりとした冷たい汗が走る。
背中だけではなく、ねっとりとした汗が、顔の穴という穴から噴き出している。傍から見れば、全速力で町内を一周走って来たんじゃないかと思われても可笑しくない位の汗をかいているだろう。
気付くと両手は力強く握り拳を作っていた。固く握りしめていた拳を振りほどいてみると、手のひらには滴るような汗が迸っている。
「そうね。今日は暑かったものね。それだけ汗かいてしまってもしょうがないのかしら。でも、そんな汗をかいたままの状態で、私に近づくのだけは止してもらっても構わないかしら。色々としつこい病気に感染してしまいそうで怖いわ」
さらっと、そんな毒めいた事を言ってくる。
腰にまで届く長い黒髪、深い闇を思わせる漆黒の瞳をした彼女の名前は『龍音寺麗羅』。
怖いくらいに美しいその容姿は、まるで職人が人生をかけて作った精巧な人形のようで、人間離れした美しさに誰もが身震いする。良い意味でも、悪い意味でも。
ただの美しさではない。まだ未成年の幼さの残る顔といえばそうなのかもしれないが、その顔から発せられる香りは、心惑わす魅了の魔法をかけたような妖艶な雰囲気を纏っていて、一度目を合わせてしまえば石化の呪いをかけられたのごとく身体の時は止まってしまい、現実世界に戻ってこれなくなると言っても過言ではないだろう。
美しいバラには棘がある、なんて昔の人は言ったそうだけれど、彼女は『美しい棘にはバラがある』とでも言うのだろうか。なんて、自分で何を言ってるのかわからなくなってきてしまう。
そんな明らかに住む世界が違う容姿をした龍音寺は、平凡中の平凡である僕、『中山田龍之介』に見下すような視線を向ける。
「とりあえず言わせてもらおうか龍音寺。僕は何の病気にも感染してないし、第一に人をそんなばい菌を見るような目で凝視するのは止めろ」
一応、訂正をしておかなければいけないような気が、彼女の視線から感じたので、言ってはみたが、まあ、龍音寺麗羅という美少女は、僕と話す時、いつもそんな視線だったと思い返してみるとため息がこぼれる。
さて、まあ、そんな事はどうでも良い。いや、良くはないのかもしれないけど。
まあ、とりあえずそれはどっかに投げ飛ばしておくとしてだ。
「とりあえず、聞いていいか龍音寺」
今は、なによりも優先的に聞かなければいけない事がある。
「そうね、今日の下着の色がどうしても知りたいというのなら、政治家モノマネを10連発で披露してみなさい。そのクオリティによって考えてみてあげても良いかしら」
「違う! というか、政治家モノマネとか、無駄に難易度高いジャンルのモノマネをやらせようとするなよ!」
まず第一にそのモノマネが似ているのか似ていないのか、クオリティを見極めるのがまず難しいだろう。
「大丈夫よ。ありとあらゆる政治家の名前と顔、声、仕草は頭に入れてあるつもりだから」
「何故にっ!?」
どういう経緯でそんな情報を記憶する事になったんだよ。結構な人数いると思うんだけど、龍音寺のプライベートタイムの使い方が想像できない。政治に疎い僕からすれば、皆同じ様な顔に見えてしまうんだけど。
「そうね、それじゃあ力士モノマネを……」
「いや、ジャンルの問題とかではなくて、まず質問の内容が間違ってるんだよ」
「中山田くんが、私の下着とスリーサイズ以外の事で質問となると……どんな内容なのか検討もつかないわね、お手上げだわ」
「僕はお前のストーカーじゃない……ってそんな話じゃなくてだ!」
「なにかしら?」
平然とした顔で、むしろ偉そうにそんな事を言ってくる龍音寺に対して、大きなため息をついてから、改めて質問する。まあ、確かにこいつの下着状況も気にならないでもないが、それは今度の機会にとっておこう。
「――あれは、なんだ?」
なんで今、聞かないのか。それは、龍音寺ご所望の政治家だか、力士だかのモノマネ10連発がやりたくないとか、そんな話ではない。いや、そりゃもう間違いなくやりたくないけど。
でも、それは生憎何の関係もない。だって今、僕たちは非常事態の真っ只中にいるのだから。
「さあ、なにかしらね」
あの犬の種類は何? というどうでも良い質問を返すかのような龍音寺の態度にいささか怒りを覚える。うん、焦りというのかもしれない。
だってそうだろ。僕の視線の先に映る、『首なしの海パン一枚履いた筋肉マッチョ』がこっちに向かって猛烈な勢いで走ってくるのだから。
「……そりゃ、焦りもするだろぉぉぉぉっ!」
とりあえず、なりふりも構わず首なし筋肉マッチョとは逆方向へと走り出す。
走りながら、ちらっと後ろを振り返ってみると、恐ろしいスピードで首なし筋肉マッチョは近づいてくる。なんて地獄絵図だ。
何が起こっているのか全く理解は出来ないが、とにもかくにも、あれが危険物である事は誰にでもわかる。そんな事は頭で理解するよりも早く、肌で感じた。とにかく反射的に走る、走る、走る。
ちなみに、女の子を置いて一人で逃げ出すとは、なんて酷い男なんだ、なんて思った人もいるかもしれないけど、いくら僕がろくでなしの男でもそんな非人道的な事はしない。
当の女の子である龍音寺は、僕が逃げ出そうと走り出した時には、5メートル以上は、先に走っている姿が確認できていたから大丈夫なのである。
片手にスクールバッグを持っているために、何とも走りにくい。いっその事捨てていってしまおうか、と思ったりもするが、後の事を考えたりもすると面倒くさい事になりそうなので、なんとか片腕を必死に動かして走り続ける。
目の前で、走る姿までいちいち優雅で美しい龍音寺になんとか追いつこうと必死になっている僕とは対照的に、朝のジョギングをしているのかのような涼しい顔をして速度を合わせてくる。
「あら、中山田くん。そんな汗まみれの状態でどうしたのかしら。まるで首なしの筋肉マッチョに追いかけられているみたいじゃない」
「そ、の、と、お、りだろうがああっ!」
息も絶え絶えになりながらもなんとか声を吐き出すと、気を抜いてしまったせいなのか、地面につまづいてしまった。
全速力で走っていた事もあり、勢い余ってコンクリートの地面に打ち付けられる。
転んだ表紙に肘を思いっきり擦りむいてしまい、ワイシャツに穴があいた。血のにじんだ地肌が見えてしまう。
「いっ痛……っは!?」
肘の痛みを忘れるさせるくらいに、巨大な何かの気配を背中に感じる。ゆっくりと恐る恐る、振り返る。
そこには壁が、否。筋肉が、首の無い肉の塊が、そこにはそびえ立っていた。
筋肉隆々という言葉はこの物体に対して作られた言葉なんだな、と思いながらも、その状態から動けないでいた。転んだ時に頭でも打ったのか、それともあまりにも表現しがたいそのフォルムのせいで襲われた吐き気のせいなのか。
とにかく、生まれて初めてかもしれない死の予感というものを感じた瞬間だった。
「き、気持ちわ……――」
ゆっくりと、巨木のような腕を振り上げる首なし海パンマッチョ。きっとあの腕を振り下ろされれば、熟しすぎたトマトみたく、一気に潰されてしまうんだろう。それは嫌だな、僕はトマトが嫌いだ。とかちょっと呑気すぎるだろうか。
あまりにも常識外れの事から頭の回転がついていけていないだけなんだろう。そりゃそうだ。僕はこんな『非日常的』な状況に陥ることなんてなかったし、そうならないように努力してきた。何か起こる事を避けてきた。ただただ平凡を望んできた。
平凡に生きて、平凡に死んでいく。
普通なんて、人それぞれ定義付けが違うから、普通なんてものは存在しない、って前に言われた事があったけれど、それじゃあ僕はその中で一番平凡な普通でありたかった。
そうやって今まで思いこむ事で、幸運な事にそれなりの平凡な人生を送れて来たと思う。
榊原西高校というこれまた偏差値が良くも悪くも無い平凡な高校に入学し、そりゃある程度のアクシデントもあったけど、特別、僕の世界というものを揺るがす何かが起こる訳でもなく一年が過ぎ、二年目が始まった。
無事に二年生を迎えた僕は、きっと今年も何も起こらず、何も変わらず、平凡で平坦で平行的な脈絡のない一年を過ごしていけると思っていたんだ。それが、当たり前の事だと信じて、疑う事すらしなかったんだ。
「邪魔よ」
ふわり、と柔らかい風が吹いたかと思えば、鼻の中には、甘い香りが届く。
僕の頭の上を腰まで長い黒髪をなびかせながら龍音寺が通り過ぎる。
衝撃的な瞬間に、コマ送りのスローモーションの様にゆっくりと時間が流れて、目の前で首なしマッチョにドロップキックをもの凄いスピードで蹴り放つ。
的が大きかった事もあるのかもしれないが、見事に鳩尾の辺りにクリーンヒットして、筋肉の塊は数メートル後方へと吹き飛ばされる。
当のドロップキックした本人は、髪をなびかせながらも、キックした反動で空中で一回転して、体操選手のごとく優雅に美しく着地してみせる。
息を吸う暇もないくらいの展開に唖然としながらも、隣に降り立った、天使のような、いや、すみません。魔女のような、妖艶な美しさを持つ龍音寺に顔を向ける。
相も変わらず汗一つかかないその表情は、いつも通りの雪女も真っ青な透き通る白い肌で、血の通ってない人形のようだったけれど、ゆっくりと手を差し出してくる。
「大丈夫かしら、中山田くん」
「あ、ああ……ありがとう。なんとか……大丈夫そうだ。ちょっと頭を打ったのかもしれないけど」
「それは良かったわ。それ以上、劣化品の中山田くんの脳みそが可笑しくなってしまったら、もう世界中の国々の科学力を結集してもどうしようもないものね。もしそうなってしまったら大丈夫よ、私がきちんと引導を渡してあげるから、安心して逝ってちょうだい」
「僕の脳みそは劣化品ではないし、勝手に引導なんて渡すんじゃないっ!」
つい、差し出された手を握ろうとする手を引っ込めてしまった。厚意を素直にありがたく受け取ることができない。
「でも、仏様も中山田くんみたいな、男子高校生を送られてもしょうがないって、さっきメールが来たからやっぱり止めておくわね」
「まさかのメル友!?」
僕の隣にいる美少女は、すでに仏までもその色香で籠絡していたようだ。
「嘘よ」
「わかってるよ!?」
「それにしても、今日は本当に暑いわね。下着を付けて来なくて正解だったわ」
「え、あ、そ、それは……」
「嘘よ……私、嘘つきなの」
「あ、うん」
腰に手を当てて、振り向きざまにポーズを決める。いや、なんでだ。
「あら、中山田くん――」
頭が、というより顔が熱い。全速力で走ったおかげで、背中に走る冷たい汗は止まったようだけど、今度は頭がぼーっとする。本当に転んだ拍子に頭でも打ってしまったのか、それとも余りにも衝撃的な出来事に、混乱しているだけなのだろうか。
いや、本当はその理由が何であるのか、自分自身で気づいてはいるけども、なんとか他の事を考えてごまかそうとする。そうしなければ、自分の中にありちっぽけなモラルが音もなく崩れ落ちてしまいそうだからだ。
でも、そんな僕の努力も虚しく、身体は素直で正直である。
「――……鼻血が出てるけど、大丈夫かしら?」
龍音寺が僕の顔を覗きこむようにして、顔を近づけてくる。
自分の意思とは関係なく溢れ出る鼻血を、ハンカチで抑える。だってそれもしょうがない、僕の頭の中で今、一つの衝撃映像が自動的にリピート再生され続けているのだから。
―――何度も言わせてもらおう、人形の様に無表情ながらも美しい彼女の名前は、龍音寺麗羅。
僕が通う榊原西高校に時期外れの転校をしてきた黒髪長髪の美少女。
電撃的に何の前触れもなく転校してきた彼女は、その言葉の通りに榊原西高校に『美しさ』という強烈な電撃を走らせ、瞬く間に榊原西高校のマドンナ的存在にのし上がった。
そして、恐ろしいのは、特に彼女自身が何か、支持を得ようと行動したわけではない、むしろ彼女は周囲に誰かが存在する場所では、基本的に無口であり、目立ったアクションを起こすことはない。皆無である。
さながら人形の様に、ただ、そこにいるだけで、圧倒的な存在感。その人気は男女問わず、同学年に留まることはなく学年全体が骨抜きにされてしまっている。
だが、その恐ろしくなるまでの誰もが認める美貌とは対極に、彼女の特技、というか、性質、とでも言うのだろうか。僕は、そんな彼女の内面を知っている。
『嘘』と『毒』。
これが彼女の9割を占めるといっても過言ではないと思う。
嘘をつき、人を欺き。
毒を吐き、人を追い払う。
そんな周囲からの反応とは、対極な内面を持っている事を、クラスの生徒はおろか、学校で知っている人は、僕以外はいないのかもしれない。
そんな誰も知らない情報を何故知っているのか、また何故、こんな平凡極まりない僕と仲良く二人でいるのか、それは偶然が偶然を呼んで、あれよあれよと成り行き上というか、それよりも僕たちの間柄が『仲良くしている』というカテゴリに当てはまるのかどうか、と言われれば、実際の所、不明だ。
だからこそ、今日の衝撃的な出来事が、僕のこれから過ごす平凡で、平坦で、平行的な人生にどんな影響を及ぼすのか、考えれば考える程、暗雲が募るばかりだ。
でも、今というこの時ばかりは、そんな些細な事はどうでも良い。平凡だろうが非凡だろうが、奇妙でも、摩訶不思議でも、なんでも構わない。アドレナリン前回、ナチュラルハイな気分とはこの事を言うのだろう。
うん、どうやら僕は今回、モノマネ10連発なんていう苦行を積まなくても問題を解決出来たようだ。
「いや、なんでもない……です」
龍音寺麗羅。彼女の今日の下着は黒だった。