8.
彼は、虚ろな目で囲炉裏の火を見つめていました。
穏やかに燃える火は彼に遠い昔の家族と過ごした賑やかな記憶を蘇らせ、ふと記憶が途切れればこの小屋に辿り着いた頃の、養父を含めた三人の貧しくとも楽しく暮らしていた記憶が。
それも途切れれば妹と二人きりで身を寄せ合い冬を越した穏やかな日々が走馬灯のように駆け巡り―――最後には娘との不思議な(他人から見れば恐怖の)生活や、甘い木の実に心底嬉しそうに笑う娘の姿が彼の心を揺らします。
そうして思い出が途切れて現実に戻ってしまうと、彼は余計に孤独に押し潰されそうになりながら……「春に再会できる」ことを心の支えに、機械的に日々を過ごしておりました。
「………さむい…」
抱えた足の膝に額を乗せて、彼は薪の爆ぜる音と外の風の音、自分の小さな呼吸しか響かぬ部屋の中で呟きました。
けれども掠れたその声は一際大きく鳴った薪の悲鳴に消され―――彼は少しの期待を込めて、もう一度呟きます。
「…さむい……香春……さみしい……」
―――その声は、やはり誰にも届かず。
今度は屋根から落ちる雪の塊に、かき消されてしまいました。
*
味気のない食事、寝るか思い出に耽るかして一日が終わるのを待つ彼―――その痩せた頬を白い花弁が撫でると、彼は伏せていた目をゆっくり開けました。
娘が残してくれた、いつまでも枯れない花弁をずっと握り締めていたはずなのに、寝惚けた彼の緩んだ手から風が攫ったのか、それとも娘の知らせか―――彼はよたよたと戸に駆け寄り、痛んだ戸を乱暴に引きます。
「……春……」
雪はその姿をちらほらと残すばかりで、いたるところに春の始まりを告げるものが現れております。
彼は何年も見てきたその光景に目を輝かせると、厚着もせずにそのまま駆け出しました。
駆けて、駆けて―――あの、妖しい桜の木へ。娘が眠る場所へ―――息が切れ、息を吸うごとに肺が切れそうな苦しみを感じながら、彼は山のどこよりも冷えた桜の木の下に辿り着きます。
どの桜よりも立派な桜の枝には膨らみつつある蕾があって、彼の来訪に驚くように揺れました。
「…春…香春……あと少しでおまえに会えるのだよな?あと幾日すれば、おまえに……」
思わず幹に触れれば、どこか温かいような気がして彼は額をそっと押し付けました。
―――そうして彼は長いこと耳を澄まして待ち続けましたが、あの愛らしい声は聞こえず。……彼は思わず息を吐いて、ゆっくりと桜から離れます。
せめて声だけでも、気配だけでもと期待していた彼は、諦められずにもう一度と桜を見上げますと―――はらり、と青い空から白い花弁が舞い降りてきたのでございます。
慌てて両の手で受け止めれば、桜はすぅっと彼の手に溶けるように消えてしまいました。
「香春……」
代わりに浮かんだのは花弁の形の痣で、彼はそれを愛しげに撫でますと泣きそうな顔で桜を見上げます。
「分かったよ……あと少し、待ってるよ……」
*
彼の手にできた花弁の形の痣が見えなくなる頃。日差しは暖かく、雪の代わりに柔らかな緑が大地を覆い―――桜はだいぶ花開いて、あの並木道も遠くから見る分には華やかで美しくなりました。
あの日以降、桜の下へ通い続け、痣が薄まると同時に濃くなる春の気配に異常なほど心が高揚した彼は、娘がいつ帰ってきてもいいようにとせっせと家の掃除をし―――「これでよし」と頷くと、太刀を背負って家を飛び出します。
「きっと、今日は帰ってくる」そう直感した彼は息を切らし心臓が苦しくなっても足を止めることなく、今年も妖しい美しさのある桜の木を見つけると、倒れこむように桜の根元に駆け寄りました。
「は―――はる…っ、…こ、こはる……!」
上手く息ができないまま娘の名を呼びますと、応えるように周囲の桜がざわめきます。
ざわめく桜の枝の下を吹き抜ける風はぞっとするほど冷たく、揺れる木々の音は悲鳴のようで不気味でした―――が、彼にとってこの肝が冷えるような状況はむしろ喜ばしいものでございました。
「香春…どこだ、意地悪しないで出てきてくれ―――」
桜の木の幹に縋るように立ち上がりますと、不意にそばから衣擦れの音が聞こえました。
彼はすぐさま音のする方―――いえ、自分とは反対の、この桜の幹の向こうにいる存在を覗き込もうとしますと、それを制すようにそっと白い手が幹の向こうから出てきます。
美しいその手は躊躇いがちに幹に触れますと、おずおずと木の影から華やかな衣装を身に纏った可憐な姿を見せました。
「千冬、どの……お痩せになりましたね…」
心配そうなその声が愛おしくて、彼は強引に娘の手を引くとそのまま抱きしめて、「香春!」と叫び娘を逃がすものかと強く強く腕の中に閉じ込めます。
「ああ、やっと会えた……!香春、香春―――もうどこにも行かないな?おれのそばにいてくれるのだよな?」
「ち、ふゆどの…痛いです…」
「えっ、あ……ご、ごめん」
慌てて腕の拘束を緩めますが、彼の手は彼女の体をしっかり握ったままでございました。
「……わたくしは、千冬どのが望んでくれるなら…また冬が来るまでおそばにいたいと思います」
「冬…また、冬に……、」
娘の答えに表情が陰る彼でしたが、やがて振り切るように首を振りますと、娘に柔らかく微笑みました。
「いや、先の話はよそう。香春……おはよう。そしておかえり」
艶やかな娘の髪を撫でながら笑んだ彼に、娘の瞳は揺れ―――ふ、と幸せそうな表情で彼を見上げます。
「……はい。ただいま、です…千冬どの…、…お会いしとうございました―――」
そっと彼の痩けた頬を労わるように撫でますと、娘はふと思い切ったように彼の胸に抱きつきました。
突然の抱擁に驚いた彼ですが―――すぐに抱きしめ返すと、ほんのりと甘く香る桜の匂いが鼻をくすぐって、懐かしさに思わず頬ずりをします。
娘は大胆になった彼の背を撫でますと、その胸に耳を当て目を閉じたのでございます。
―――そうして聞こえた彼の心臓は、とても幸せな音を奏でておりました。
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