7.
暑い日でした。
彼は娘が日に焼けてしまうことを嫌がって連れ出したくはなかったのですが、引きこもった娘が萎れた花のように元気がなくなっていくのを見て―――彼は仕方なく娘に笠を被せて外に連れ出しました。
「千冬どの、暑くはありませんか?」
「大丈夫だ」
対して彼はいつものように顔を隠すように頭巾を被っており、じんわりと熱が染み込むような暑さに目が回りそうでしたが、心配する娘に空元気を出して手を引きます。
途中、毎日の日課である妹への祈りを捧げ―――やっと目的地に辿り着きますと、娘は「わあっ」と声を上げて川へ駆け寄りました。
「きゃあ冷たいっ。千冬どの、冷たいです!」
「あまりはしゃぐと転ぶぞ」
「大丈夫―――あ、魚っ」
まるで子供のようなはしゃぎようが可愛らしくて、無意識のうちに彼の唇は緩みます。
魚を捕まえようと追いかける娘のそばへ―――川の中へと足を踏み入れた彼は、こちらに気づいていない娘に掬った水を思いっきりかけました。
「ひゃっ」
それに驚く娘はしばらく硬直していましたが、彼がやったのだとやっと理解しますと「そいやっ」と自分も水をかけ、あえて動かずに水を被った彼を見て楽しそうに笑います。
「お返しですよ、千冬ど…わわっ!?」
「まだまだだなあ、香春」
さっきよりも多めの水をかければ、娘は驚いて川の中で尻餅を着いてしまいました。
その見事な転びっぷりに思わず笑ってしまいますと、「千冬どのはなんて意地悪な方なのでしょうっ」と言って一生懸命彼に水をかけます。
そうしますといつの間にか二人とも濡れ鼠になってしまって、風邪を引いてしまうと慌てて川から上がり、着物の袖や裾を絞った二人はお互いのぐしゃぐしゃの髪やみっともない姿に笑い声を上げながら家に帰りますと、湯を沸かして体を温めました。
それすらも騒々しくはしゃぎ回ったものでございましたから、いつもなら夕食後も何か仕事をして寝てしまう二人でしたが、その日は夕食を終えると眠気に勝てず、布団を敷いている途中で寝てしまったのでした。
*
―――辛い夏も終わり、秋になりますと、彼はよく娘を連れて山の恵みを採りに出かけました。
二人は大きな籠を背負って、鮮やかな色合いの木々の合間を手をつないで歩き、太った山鳥を射止めたり栗を集めたりとあちこちを歩き回ります。
その際に彼はよく娘に茸の見分け方などを口にしましたが、娘はたびたび毒のあるものを間違えて持ってきてしまうので、ついには「茸に手を出さないように」と彼に言われてしまうほどでございました。
「まあ千冬どの、ご覧になって。ここに山葡萄がありますわ」
「ああ、美味そうだな」
わくわくした顔の娘は思わず一粒取って口に入れますと、「う、」と顔を歪めます。
「渋い……」
「…おれのは甘い」
当たりだな、と味を楽しむ彼を恨めしそうに見上げた娘は、そっと彼が選んだ房からもう一粒取ります。
すると彼女の口に甘酸っぱさが広がったのでしょう、たちまち嬉しそうな顔になってもう一粒手に取る姿にこっそり笑った彼は、つまみ食いをしては一喜一憂する娘と山葡萄を摘みました。
「―――あ、こっちには山法師があるぞ」
「やま……?何ですか?」
「食べたことがないのか?」
おいで、と言うと娘は素直に付いて来て、彼がもぎ取った赤い実を不思議そうに見つめるばかり。
なので彼が代わりに実の皮を向いてやって、色の濃い果実を娘に齧らせます。
「美味しい!」
不安そうに齧った娘ですが、先ほどの山葡萄よりも甘いその味に幸せそうな顔をしまして、新たにもう一つ実を取ると皮を剥いて彼に差し出しました。
「千冬どのも食べましょう!とっても甘くて頬が落ちてしまいそうなほど美味ですよ」
「ああ、ありがとう」
お互いが手に持っていた実を交換すると、娘は嬉しそうに実を齧りました。
その姿が在りし日の妹と被るも、すぐにもう一つ摘んで食べる姿を見て、「いや、千春は食いしん坊ではなかったな」と頬を膨らませ幸せそうに笑む娘を見つめました。
*
冬が近づくと、彼は毎日よく食べる娘の腹をどう満たしてやろうと悩むようになりました。
「ひもじい思いはさせない」と誓っただけに、無理をしてでも熊でも何でも狩るつもりではあるのですが、冬眠中の熊の寝床など分かるものではありませんから、やはり狩るとすれば鳥ぐらいしかありません。
悩んだ彼はとりあえず娘がたくさん紡いだ糸と獣の皮などを馴染みの商人のもとへ持っていき、干し魚や肉の塩漬けなどと交換して山に戻りました。
途中、妹に祈りとわずかに残っていた花を捧げ―――急ぎ足で家に帰りますと、いつもの元気な出迎えがありませんでした。
「…香春?どうした―――」
部屋を見渡しますと、隅で丸くなっている娘の姿がありました。
その姿に嫌な予感がして駆け寄り息を確認すればちゃんと呼吸をしておりまして、「寝てるだけか」と安堵した彼は娘に「風邪をひくぞ」と声をかけて揺り起こします。
「……香春?」
よく見れば娘の顔は青白く、「ただの昼寝」には見えません。
不安になって娘の名を叫び、冷えた頬を軽く叩き―――やっと娘が薄ら目を明けるのを見て、彼は震える声で娘の名を呼びました。
「ち、ふゆ…どの……」
「一体どうしたというんだ、こんな、顔色が……具合が悪いのか?風邪を引いたのか?」
「………」
まるでただの人間にするような心配ぶりに、娘は薄らと笑いました。
今まで喜びや幸福に微笑む娘しか知らぬ彼は、どこか影のあるその微笑が何なのか理解できないまま―――それよりも、と娘の体調を案じます。
「寒いものな、今すぐ薪を……ああいや、布団の方が先か。待っててくれ、今敷くから―――」
「…ちふゆ、どの」
立ち上がろうとした彼の袖を引いて、娘は静かな声で言います。
「わたくし…わたくし、を……少しの間、待っていてくださいますか?」
「―――え?」
袖を引く力を強めた娘は、目を見開いた彼にもう一度問いかけました。
「わたくしを、待っていて……ほしい、のです」
甘えるように彼の胸に顔を埋めてしばらく、やっと頭が働いたのか、彼は思わず泣きそうになりながら袖を掴む娘の手を握りました。
「おまえ…おまえまで、おれを置いてどこかへ行くのか…?……なぜ…?」
「ごめんなさい…でも、このまま此処にいたらわたくし―――いえ、……ほんの少しの間なのです、少しの間……あの桜の木に帰って、桜とともに眠るだけですわ」
「少しって、いつまでだ?いつ帰ってくるんだ?」
「………春」
「春?」
その言葉に思わず気が遠くなりそうになって、彼はますます強く娘の手を握ります。
「そんな―――もっと早くは帰ってこれないのか?おれは…おまえがいるから、この冬だって越せられると……そう思って……楽しみで……」
「千冬どの……これ以上、早くは戻れないのです。わたくしはあの桜に縛られた悪霊であるがゆえに、桜とともに眠らなければならない……それを破れば、わたくしは消えるしかない……」
「そ、んな………」
絶望に染まる彼の頬を、娘は宥めるように優しく撫でました。
「春になったら―――あの桜が満開になったら。わたくしはもう一度帰ってきます。……だから、待っていてほしいのです。わたくしを……」
「………」
娘の願いに、彼は唇をぎゅっと噛み締めると、目に焼き付けるように娘の儚い姿を見つめました。
そしてぎこちなく華奢な体を抱きしめ、「……分かった」と囁きます。
「待ってる……おまえともう一度会えるのを楽しみに、この冬を越すよ……だから、絶対帰ってきてくれ―――香春……」
娘が頷くと、彼はさらにその身を抱きしめました。
けれど柔らかい体はふっと幻のように消えてしまって、彼に残ったのは桜の花弁一枚でございました。
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