6.
化け物から見目麗しい娘へと戻った彼女は、意外にも家事が出来ました。
なので彼が土砂降りの中帰ってくるとすでに食事の支度がされていたり、泥だらけの足をそっと綺麗に洗い流してくれたり、着替えを用意してくれたり……と、至れり尽くせりで彼を出迎えてくれたのです。
「千冬どの、直りましたよ」
「ああ、ありがとう」
彼の破けた着物を繕い終えた娘は、花のような微笑を浮かべて彼に着物を差し出します。
彼は眩しくて目が開けられないのに無理をしてこじ開けようと努力した、そんな表情で受け取るも、わずかに触れた指先に跳ねるように手を引っ込めてしまいました。
(…なんだ、これは)
化け物の姿であったときは平気で触っていたのに、娘の姿になった途端に触れれば体が動かなくなり、娘の姿を見るたびに心を狂わせられる―――この奇っ怪な現象が、彼のここ最近の悩みでございました。
「千冬どの、どうなさいましたの…?」
「あ、いや……なんでもない。気にしないでくれ」
そう言って、振り切るように着物に袖を通します。
一通り体を動かして不具合はないと伝えますと、娘はふふんと胸を張り、「縫い物は得意ですもの」と言うのでした。
「…本当だな。縫い目がとても丁寧だ。これならしばらくは暴れても大丈夫だろう」
「まあ、暴れるご予定がありますの?」
「そりゃあ…ここは山賊があちこちにいる山だ。そうあることではないが、たまに同業者の家に盗みに来る奴もいる」
なので彼は、家の周りに罠や人が来たことを知らせる仕掛けを作ったり、あまり家から離れずに行動することで妹を守ってきました。
そのためこの山にいる山賊の何人もが用心深い彼の家には近づかないのですが、この山に流れ着いたばかりの賊などは稼ぎがどうにも悪くなるとしばしば襲いかかってくることがあるのです。
「それに……」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
遅かれ早かれ、いつかは彼女の存在が山賊たちにも知られることでしょう。
若く可憐な娘がいる―――これだけで立派な動機になってしまう世界で、刀を放り投げて生きることは不可能だろうと考えた彼は、せめて半年くらいは刀を置き、喪に服したいものだと思うのでした。
「―――とにかく、外は危険が多い。あまり家を出ないで欲しい……どうしても出かける時は声をかけてくれ。あと、出来るだけおれの目の届く辺りに居てくれよ」
「……千冬どのとお出かけ、もう出来ないのですか…?」
「いや、ずっと閉じこもっては息苦しいだろう?連日とはいかないが、天気の良い日は必ず連れ出すよ。…今度は川に行こう」
「はいっ」
彼の言葉に嬉しそうな表情をする娘のせいか、胸の動悸が激しくなってきた彼は、そんな情けない自分を知られたくなくてとにかく落ち着こうと深呼吸をします。
すると少しだけ落ち着いたような気がして、また深く息を吐いた彼に娘は言いにくそうな顔で尋ねました。
「……あの、千冬どの。千冬どのはもう、……お仕事、しないのですか?」
「仕事?―――ああ、」
気を使ったのか、遠回しな言葉に一瞬なんのことかと思いましたが、「お仕事」が「盗み」であることに気づいた彼はぎこちなく笑みを浮かべます。
「……そう、だな……おれとしては、盗みをしても欲しい物はもう無くなってしまったし、…しばらくは妹の喪に服したい。だからその……食事や着るものはだいぶ質素なものになってしまうだろうが―――」
一瞬目を伏せ―――じ、と自分の言葉に耳を傾ける娘に、告げました。
「おまえにひもじい思いはさせない。もちろん危ない目にも遭わせやしない。……だから、この家に居てほしい―――ずっと、俺と暮らしてほしい」
花の色よりも美しい瞳から目をそらさずに、彼は半ば懇願するように、娘のほっそりとした手を握るのでした。
対して娘はずっと沈黙を保っているので、しばらくすると彼は耐え切れなくなって、恐る恐る顔を上げました。
娘は―――握られていない手の袖で口元を隠し、頬を染めておろおろと視線を彷徨わせておりました。
「わ、わたくし……」
震える声で、娘は言います。
「わたくし……殿方にそんなことを言われたのは初めてで……その…もう少し、遠回しに言って下さると、わたくしも、ちゃんと、お返事を―――その、あのぅ………」
彼は、娘がおろおろと困惑しながらも告げた返事に、頭を殴られたような気がしました。
彼はただ―――もう、一人になりたくなくて。一緒に居てくれるなら化け物であろうとかまわなくて。…なのに自分と居ても良いことなんてなくて。
色褪せた世界になど戻りたくなかった彼は、思わず必死になって彼女に縋ってしまっただけで―――求婚したわけでは、ありませんでした。
けれど娘はそうは受け取らず、彼が直球な物言いで口説いたのだと思った―――そう気づくと、彼まで顔を赤くして弾かれたように握っていた手を離し、娘から距離をとりました。
「わたくし……わたくし、その……このような身の上ゆえ、その……でも、わたくしも、千冬どののおそばにいたいと……思っております…」
袖をぎゅうっと握り、真っ赤な顔で自分を見上げる娘の姿に、彼は耐え切れずに家を飛び出し川に身を投げました。
それでも体は燃えるように熱く、彼はやっと、最近の自分の悩み―――娘を見るたびに乱れ狂う心の理由を、悟ったのでした。
*
梅雨が明けると、彼は寂しそうな娘を置いて山の中を駆け回りました。
というのも、娘はあの細身に似合わずとてもよく食べるので、彼は猪だろうが熊だろうが狩ってきては家に帰るのです。
けれども今日は大物を狩ることができず、山菜を多めに採ったり魚を釣ったりして籠をいっぱいにしておりました。
その間娘は家事の他にも今にも壊れそうな糸車で糸を紡いだりして家から出ずにいましたが、彼の足音が聞こえてくるとすぐさま家を飛び出して、「おかえりなさいませ!」と出迎えます。
なんだか子犬のようだと思いながら、彼は「今日は魚だよ」と笑って娘を連れて家に入り、重くて仕方がない籠を置きました。
「千冬どの、糸もだいぶ貯まりましたけれど、どういたしましょうか?」
彼の頬に伝う汗を濡れた手拭いで拭いながら、娘はちらっと小山になった糸を見つめます。
対して彼は想像よりも多く紡がれているのに驚いて、慌てて娘の手を取りました。
「指が―――」
あの、美しい白い手が痛んでいたら―――と心配して見れば、娘の指先は相変わらず美しく、桜の花弁のように滑らかでございました。
そのことに安堵した彼は思わず溜息を吐きますと、不思議そうな顔をする娘から手拭いを奪ってひとまず座らせます。
「…香春。お前は糸を紡いだりしなくていいんだ。あれはお前のような柔い肌に傷を付けてしまうんだからな」
「でも―――お掃除もお料理もすぐ終わってしまいますし、何かしていないと、千冬どののもとまで駆け出してしまいそうになるんですもの」
「だが……」
「それに、ここに糸車一式があるということは、かつては妹君が紡がれていたのでしょう?流石に機を織ることはできませんが、糸を紡ぐくらいならわたくしも出来ますもの」
一瞬懐かしむような、遠い過去を見つめるような表情を浮かべた娘は、どこか憂いを帯びていていつもとは違う美がございました。
その新たに知った美しさに胸を焦がし、息が詰まった彼はオロオロと視線を彷徨わせた後、ポンとその艶やかな髪に手を乗せました。
「お、おまえの気持ちは嬉しいし、助かるが……無理はしないでほしい。千春――…妹も、体調の良い日にやっていただけのものだし……何より長時間座りっぱなしなど、体にも良くないだろうし……指が、その………」
あまり口が上手でない彼は、今の自分の気持ちをもっとちゃんと伝えたいと思うのに伝えきれなくて―――諦めるように、撫で心地の良い髪から手を退けました。
そうして引っ込めようとした手を、娘は両の手で包むと、少し照れくさそうに笑みを浮かべています。
「あなたの…温かいお心遣い、とても嬉しい。……そうですね、ちゃんとお休みを挟んで、頑張りたいと思います」
「……そう、か…」
嬉しそうな彼女の声に、心が震えました。
もはや包む手が熱いのか、彼の手が熱いのか、よく分からなくなっていた彼でしたが―――それでも、今回は逃げるように手を引っ込めることなく、その熱さを受け入れていました。
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