5.
櫛を貰ったその日から、化け物は暇さえあれば髪を梳くようになりました。
何度も何度も梳きすぎて、傷んでしまうのではと思っていた彼ですが―――逆に、梳けば梳くほどその髪に艶が戻り、……さらさらと繊細に揺れるのを見ると、不思議な気持ちになってきます。
不思議すぎて、思わずその髪に触れてみれば化け物が首を傾げて彼を見つめるのですが、その髪の隙間から見える眼差しすらも彼を不思議な気持ちにさせてくるので、だんだん不安になってきた彼はなるべくその髪に触れないようにしよう、と心に決めました。
「……おまえ、怪我が多いなあ」
毎日毎日、冷たいその腕にくっきりと残る打撲や擦り傷―――どころか、髪が綺麗になったことで分かるようになった顔にある傷に、彼は水に浸した手拭いで清めてやったり、薬を揉み込んでやったりと世話を焼きます。
人ならざる身には効かないだろうか、と思われたその治療ですが、葉が青々と日に照らされる頃には綺麗に消えてしまって、彼は少し物足りなく思いました。
なので今度は化け物の体を清めてやろうと大きな桶に湯を張ると、髪を梳いていることに夢中の化け物を呼んで手招きをします。
「……ァに?」
「傷もなくなったから、風呂に入ろう」
だんだんヒトの言葉を話せそうになっている化け物に、彼は「おいで」と大きな桶の中へ招きます。
化け物はといいますと、恐る恐る桶に近づくも何やら躊躇しておりまして、怖がっているのだろうかと考えた彼は自分の手を桶の中に入れ、「丁度いい加減だよ」と笑いました。
「…………」
化け物は、意を決したという雰囲気でお湯に足を入れると、そのまま座り込んで体を湯に浸します。
するとその冷えきった体に温もりが戻ってきたのか、化け物は忙しなく腕や胸に湯をかけ始めました。
「気持ちいいか?」
「ん」
振り向いて頷く化け物に、「そうか」と笑って、彼は新たに沸かしたお湯を小さな桶に入れて手拭いを浸します。
そして「体を洗うから、着物を脱いでくれ」と言おうとして、すでに着物を脱ぎ捨て白い肌を温めている化け物の姿に、慌てて顔をそらしました。
「お、おい。……自分でやれるか?」
「…?」
煩悩を搾り取るように固く絞られた手拭いを不思議そうに見つめた化け物ですが、いつものようにそろそろと受け取ると体をゴシゴシと拭き始めます。
彼は可能な限り化け物を見ないようにしながら湯を沸かし、丁度いい具合になったそれを化け物にかけて汚れを流します。そうして長い艶やかな髪もお湯で何度も綺麗に洗い落としたために二人の周囲は溢れ出したお湯の名残に満ちていて、彼の心をしっとりと温めていきました。
やっと髪を洗い終わり、最後に化け物が丁寧に顔を洗うと、いつも顔にかかっていた髪をそっと横に分け―――ふふ、と微笑んだ顔を彼に向けました。
「ありがとう」
初めてはっきりとヒトの言葉を話した彼女は、この世のどの花よりも鮮やかに彼の瞳に焼きついたのです。
*
あの、妖しくも美しい桜の木に棲む化け物は、まるで全ての汚れを落としたように美しい娘の姿に変わりました。
……いえ、本来の姿に戻った、というのが正しいのでしょう。
どこかやんごとない雰囲気漂う娘に血と泥の付いた襤褸を着せることが耐えられなかった彼は、妹が着なくなっていた着物を着せてやりました。
わずかに娘には小さいそれは、そこそこ良い生地の物でございましたが、娘の美しさを欠かせるように思えて彼を苦しませます。けれど娘は気にせず着心地の良い着物を撫で、髪を慣れた手つきで梳いては彼を悩ませるのでした。
「あの、あの」
「……ん?」
髪をまとめた娘は、鳥を射ていた彼の袖を引っ張ると頬をほんのりと染めて彼を見つめます。
そして背中に隠していた黄色い花束を差し出すと、「お礼、です」と言うのでした。
「…妹に?」
「はいっ」
そう無邪気に笑うものですから、彼は艶やかな娘の頭を撫でてしまいます。
もちろん無意識だったものですから、すぐに我に返って手を引っ込めるのですが、娘はそのたびに少し寂しそうな顔をします。
「あ、ありがとう…きっと喜ぶ」
そうして彼は誤魔化すように咳き込むと射止めた鳥を拾い、娘の手を引いて妹の元へ向かいました。
娘の歩調に合わせて歩いていると、だんだんと癖で繋いでしまった娘の手が熱いのか自分の手が熱いのか分からなくなって、もうそのまま手が溶けてしまいそうな気さえしました。
「……寒くないか?」
「大丈夫、です」
「…そうか」
―――あの妖しい桜は全て散り、今はどこか黒く見える葉を茂らせて道に大きな影を作っています。
何より、枝の下を吹き抜ける風はひどく冷えていて、彼は熱くてしょうがない手を離し難く思いながらもそっとその手を離しました。
「………」
彼は膝をつき、妹を暗い地下に閉じ込めている土を撫でます。
春の頃はまだ剥き出しの土しかなかったのに、すでにそこには白くて小さな花が咲いて蝶を誘っていました。
彼はそっと妹に娘がくれた黄色い花束を置くと、手を組んで静かに祈りを捧げます。
その間、何故か風が当たらないなと不思議に思って目を薄ら開けますと、いつの間にやら足音もなく娘がそばに立っていて、彼の風避けになってくれていました。
すると心が凍りついてしまいそうなこの場所も、少しだけ温かいものに思えて、彼はもう一度目を閉じ、「まだまだ寂しいけれど、なんとかやっていけそうだよ」と妹の墓前の前で初めて笑みを見せました。
「……寒くないか?」
―――祈りを終え、蝶が優雅に空へ飛び去るのを見送ってからやっと腰を上げた彼は、ずっとそばにいてくれた娘に尋ねます。
娘はふるふると首を振り、「…ありがとうな」と冷えた手を握る彼に微笑んで、「あの、あのね」とたどたどしく話しかけました。
「あなたさまの、お名前。教えてください」
「おれの…?」
ヒトのような姿をしているものの、ヒトならざる存在に教えていいのだろうかと一瞬思った彼ですが、娘があまりにも期待に満ちた表情をしていたので渋々と答えてやりました。
「…千冬」
「千冬、どの……わたくしの名前は、香春と申しますの。どうぞよしなに」
そう嬉しそうに微笑んで、恥ずかしくなったのか俯いて視線をそらす姿がとても可愛らしくて、彼はしばらく身じろぐことも話すこともできませんでした。
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