3.
死のぎりぎりで踏み止まった彼は、鍋いっぱいの雑炊を食べ終わるとなんとか這い蹲って水を飲みました。
その時はもう化け物は彼を気にせず、仕留めた熊をくちゃくちゃと頬張りながら肉を引き千切ることに夢中でして、朝方になって熊の骨だらけになると、用が済んだのか化け物は桜の花弁を一枚残して消えたのです。
「………ああ…そうだ、寺に行かないと…」
食べ物を口にし、少しまともになった頭で思い浮かんだのはそれでした。
妹の成仏のためにも、彼は僧侶に経を読んでもらいたかったし、野犬が妹の骸を荒らさぬよう気をつけなければならない。最低でも四十九日は生きないと、と彼は立ち上がります。
あまり前向きではないけれど、やっと「生きる理由」を見つけることができた彼は、干されていた魚に手を伸ばしたのでした。
――――そんな、やっと動き出した彼は、頼りない足取りで妹の眠る場所が暴かれていないことを確認し、一人で経を上げると心を込めて集めた花を手向け、薄暗くなった道を一人で歩きます。
歩きながら、「妹が生きていれば今隣にいて、満開の桜にはしゃいでいたのだろうに」と思いついては鼻をすすり、桜の下を吹く風は冷たく彼の孤独を増させるのでした。
「……ぅー………」
ふと、風が過ぎ去って、静寂が満ちようとしていた時でございました。
微かな声―――それに妹の面影を感じ、急いで振り返れば―――桜の影から、あの化け物が這い蹲ってこちらを見ていました。
彼はその姿に恐れ慄くどころか落胆いたしまして、そのまま背を向けて歩き出します。
化け物はそんな彼に唸り声を上げましたが、結局何もせずにただ後を追うだけでした。
(………祟られるようなことを、しただろうか……)
彼には大事な妹がいましたから、絶対に目をつけられまいとあの桜には定期的にお供えをし、それ以外は静かに通り過ぎるだけの毎日を送っていました。
なので考えられるのは、妹の骸を埋めたことしかなく―――まあ、それならしょうがない、と彼は諦めて家に帰ります。
誰もいない家は暗く、熊のせいで壊れた扉のせいでしばらくは寒い思いをすることでしょう。彼は火を点けようと火種の準備を始めると、するりするりと音を立てて化け物が家の中に入ってきました。
「………ぅぅぅ……」
唸り、彼の背後に立ってじぃっと見下ろす―――化け物に臆する心はいつの間にか麻痺をしていて、彼は肩に化け物の指が食い込んでも眉を顰めるだけで黙々と火の準備を続けます。
「……ぅぅ……」
化け物は彼が慣れた手つきで火を熾すのを見ると、またするりするりと音を立てて出ていきます。
すると化け物によって遮られていた風が彼の背を撫でまして、思わずといった様子で彼は振り返りました。
「うわあっ!?」
―――去ったと思われた化け物ですが、実は去らずに入口の前でまたも鳥の頭を引き千切って咀嚼しておりました。
彼の方を向いて立派な雉を食らうその姿は醜く、辺りに血が飛び頭のない雉はそれでも逃げ出そうと翼をばたつかせている―――ひどい食事風景。
これを直視した彼の心に衝撃が走りましたが、普段鳥や魚を捌いている身でございましたから、慌てふためいて逃げ出す無様は見せませんでした。
しかし流石にこれを見て食欲は湧かず―――部屋を暖めるだけにしよう、と火種を移し始めると、またするりするりと音がします。
「………な、なにか、用か…?」
ひと二人分の距離を開けて、化け物はもごもごと頬張った肉を噛みながら彼を見つめています。恐ろしいながらも大人しいその様子に、彼はその悪臭とおぞましい姿に慄きながらも、ずっと思っていたことを問うてみました。
……もしこれで何かしらの反応があれば、これからの対応を考えることが出来ますし、その目的も知ることが出来るでしょう。反応のない、獣のようなものだと分かれば、腹を括って戦わねばならないでしょう―――。
ごくり、と思わず唾を飲んだ彼に、化け物は、「……ぁ…ぅぅ…」と鳴き―――、一瞬、落胆した彼に、頭を噛み切った雉を差し出しました。
「……ぁ、…ぇ……ぅ………」
ぼたぼたと血の滴るその肉は、もう動くこともない静かなものでした。
彼はしばし動きを止め差し出した腕と化け物を交互に見ると、恐る恐る受け取ってみます。
「…………」
すると化け物は、今度こそすぅっと消え、桜の花弁だけを残して去ったのでした。
*
次の日。彼は山を降りて老いた和尚さんを訪ねますと、事情を聞いた和尚さんはしげしげと彼を下から上まで見つめ、「よろしい、では行きましょう」と快く引き受けてくれました。
山道を行くと木々の合間から何人か山賊が顔を覗かせましたが、歩くのが立派な太刀を持ち頭巾で顔を隠す男―――彼と、僧侶だというのに気付くと、舌打ちを残して去っていきます。
「……ここだ」
和尚さんは無事に目的地に着いたことに心底安堵すると、妖しくも美しい桜の前に座り、数珠を手にしゃがれた声で経を読みます。
彼もその後ろで足を組み静かに祈りを捧げまして、桜の花弁は心なしか優しく二人の肌を撫で道を白く染めていきました。
雪のような花弁は和尚さんと彼の肩に、頭にも降り積もり、経を終える頃にはわずかな揺れで沢山の花弁が舞い乱れるほど。
和尚さんが思わずと目を細め、僅かな時の美しさに目を奪われてしばらく。彼が懐からお礼の金を探っているのを止めると、これこれこのように、幾日経ったらまた寺にいらっしゃい、とだけ告げまして、丁度手に乗った花弁を包み込むと「送って頂けますかな」と優しい声で言いました。
彼は頷くと用意しておいた水を差し出し、和尚さんが一息つくのを確認してから山を降りました。
最後に門前で深々と頭を下げ、人目を避けるように急ぎ足で山へと帰り―――妹の眠る桜の木に辿り着きますと、また静かに祈りを上げます。
そうして気が付くともう陽がだいぶ傾いていて、彼は重い腰を上げながらなんとなく桜の木を見たときでした。
「うわっ!?」
妖しい桜の木の影から、あの化け物はじぃっと彼を見つめ小さく唸り声を上げておりまして、彼は驚きのあまり手にしていた太刀を落としてしまいます。
対して化け物はそんなことなど気にせず、硬直する彼をしばらく見つめると、血やら泥やらで汚れた腕を持ち上げ―――大きな川魚を数匹、彼の方へと投げたのです。
「わっ」
反射的に一匹だけ受け取った彼に満足したのか、化け物はすぅっと暗闇の中に消えました。
すると残るのは彼と魚だけで、少しの間動けずにいた彼は太刀を支えに立ち上がると、とりあえず残りの魚を拾います。
化け物の真意が分からないのでこのまま受け取るのは怖くもあったのですが、かといって捨てれば悲しんでしまいそう―――などと、あのおぞましい姿をした化け物に対して思ってしまった彼はだいぶ頭がおかしくなってきたのかもしれません。
―――結局、その日は投げられた魚を食べて寝たのですが、化け物は家に訪ねて来てはくれませんでした。
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