2.
穏やかな日々の終わりというのは、夏の夜よりも早く訪れるのでした。
彼は盗みをやめ、熱に魘される妹に日夜付きっきりで看病をしてみますが効果はなく、妹を背負って山を降り、商人を頼って医者にも診せましたが無言で首を振るばかり。
水を飲むのも難儀になってきた頃、妹は乾いた唇を懸命に動かして、大好きな兄に最後のお願い事をしました。
「おにいさま、おねがいがあるの。わたしが、しんだら、あのしろいさくらのしたに、どうかうめてほしい……」
眠りを恐れるように、兄の手を握る妹に、彼は何も出来ませんでした。
どんなに励ましても、どんなに尽くしても、妹を救えずに―――静かにその時を待つのみ。
今にも発狂しそうな心を必死で押し隠し、絶望に憑かれながら看病をし続けた兄の痛んだ手をいつものように労わるように撫でた妹は、「おにいさま、ありがとう……」と最後の力を振り絞って囁くと、そのまま静かに眠りにつきました。
「………千春」
掠れた声で、最後の希望に縋って名を呼び、彼は放心のあまり三日―――妹の骸のそばに座り続け、四日目の朝、彼女の好きな鶯の鳴き声にハッと心を取り戻して立ち上がりました。
彼は細い妹の体を清め、彼女が一番気に入っていた着物を着せ、髪を整え化粧をしてやると、妖しい桜の木の下へと、ゆっくりと重い足取りで運んでやります。
間違っても野犬に襲われないよう、深く深く穴を掘り、綺麗な布に包んで横たわらせると、最後に自分と同じ白い髪を一房切り取り、大事に懐にしまいました。
彼は動こうとしない腕をなんとかぎこちなく動かし、「妹の願いだから」とへこたれそうな体を叱咤しては華奢な体に土をかけます。
そうして妹の骸が土に見えなくなるたびに、彼の心もどこか遠くへ飛び去ってしまいそうになるのでした―――。
「………春………」
―――埋め終わり、呆然と妹の眠る場所を見つめていると、その墓標の上にひらひらと白い花弁が落ちます。
その様に妹の姿を重ね、ふと空を仰げば―――満開の桜が、ひらひら、はらはらと彼に、彼女にと花弁を降らせていきます。
(ああ―――なんて、きれいな………)
今まで、少しの気味悪さくらいしか感じていなかったこの妖しい桜の木。その下に眠りたいと願った彼女の気持ちが、少しだけ分かりました。
この色は、彼女の、彼の―――最後まで愛してくれていた母の、着物の色。優しく撫でてくれた腕と同じ色。冬の日に、母の膝の上で眺めた雪の色。
……彼の妹は、多くの人が不気味と恐れる妖しい白の花に、在りし日の幸せを思い出していたのでしょうか。
そう、問うてみたくても叶わない現実に、彼の足元は冷えて動くこともままなりませんでした。
*
―――さて、妹が亡くなってからの彼は、身を清めることも食事をすることもせず、ただ部屋でぼんやりとしているだけの、息をする死体でした。
それも無理からぬことで、妹にとって兄が生きる術であったように、彼にとっても妹の存在は生きる糧であったのです。
白い髪に赤い目の、顔を晒して人通りを歩けば石を投げられ蔑まれるような、下手をすれば殺されてもしかたない異形の彼らにとって、お互いの存在だけが心を安らげられるものであり、何があっても生きようと足掻くことのできる原動力だったのでございます。
それは所謂「共依存」というものだったのかもしれませんが、彼らからすればどうであろうとかまわないのです。お互いの存在だけが生きる希望―――それだけで。それだけでよかった……はずなのに、希望は失われ、ここにはもう何もないのです。
疲れた―――そう深く深く息を吐くと、どっぷりと暗くなる夕暮れの差す部屋の影が、わずかに揺れました。
「………はる?」
痛々しい声で問えば、影は先程よりも大きく揺れました。
影は手負いの獣のように、ゆっくりと、よろめきながら、影の中から抜け出し―――現れたのは、化物でした。
「………、…………」
何かを呟きながら、苦しむように爪で床を擦る。
その異形はどうやら、長くて汚い髪を振り乱した、四つん這いの人のようです。
時折髪の間から見える、血か何かで汚れた肌と血走った瞳がじいっと彼を見つめ、がり、がり、と床を削りながら這い寄ってきました。
「…………」
―――ですが、その化け物を前にしても、彼の心は静かなままでございました。
例えばこのまま首を刎ねられても、生きたまま心臓を抉られても、どうでもよいと思っていました。……むしろ、早く終わらせてくれとも思っておりました。
なので彼は、そっと瞼を下ろして息を吐き、「抵抗しない」とばかりに放り投げていた両の手のひらを天井に向けました。
「……、………」
フーッ、フーッ、と。荒い息遣いをすぐ近くに感じます。
それでも彼は目を開かず、ただ黙って横になっていました。―――その「やるならさっさとやれ」と言わんばかりの態度が気に食わなかったのか、……化け物は、しばらく彼の周りをうろうろした後、ふわっと桜の匂いを残して消えてしまったのでした。
「………ちぇ。」
ただそれだけ呟いて、彼はそのまま眠りにつきました。
それからというもの、夕方になると化け物は影の中に潜み、ゆっくりと近寄ってきます。
ひどいときは家中に爪を立てたり、真夜中に外の壁を叩いたり引っ掻いたり、寝かけていた彼の足を引きずって家中を何周かしたこともございました。
ですが彼は気にもとめず、ぼうっと天井を見ていたり目を瞑っていたり。
もう何日も何も口にしていないので、眠ることも困難になってきていました。
このまま餓死するのも相応しい最期だろう―――そう自分の死を待っていると、家の前から獣の唸り声が聞こえてきます。
「………く……?」
喉が枯れて声が出ず、視界もぼやけていましたが―――あの息遣い、あの足音にあの巨体は―――熊、でございました。
もちろん彼は抵抗どころか逃げることもできませんので、確認するやいなやすぐに「これで死ねるな」と目を瞑ります。
対して熊は扉を爪で叩き壊し、無防備な獲物を発見すると雄々しい叫び声を上げ―――突進する、その空気の流れを感じた瞬間、彼の上をビュッと素早い突風が吹きました。
「……?」
彼は奇怪な風を不審に思い、これが最後ともう一度目を開けますと、視線の先で熊が黒いものに乗っかられ、もがいているのが見えます。
もがき、抵抗するもあえなく命が尽きた熊―――その喉元を噛み切った化け物は、くちゃくちゃと咀嚼をしながら、ゆっくりと彼の方へ顔を向けました。
それがまたどうしてか、あんなにもおぞましい姿をしているというのに、何だか間の抜けた様子なものですから、彼は声は出なかったけれども久しぶりに笑みを浮かべたのでした。
「………うー…?」
口や手を赤く染めた化け物は、そろそろと近寄ると彼をまじまじと見つめ、片手に持っていた肉の欠片を差し出してきます。
凍りつくような赤いそれにたじろぐと、今度はその手を引っ込め、自分の口に持ってきてもちゃもちゃと食べる。そしてごくりと飲み込み、ぺろりと軽く唇を舐める―――そんな動作を見て、彼の腹は自然と鳴りました。
ごくり、と唾を飲み、化け物と熊を見ますが、流石に生の熊肉を口にする無謀は出来ません―――。
(……動ければな……)
自然とそう思って、彼は唇を噛みました。
……さっきまで、「もう死んでいい」と投げやりだったのに―――空腹を覚えてから急に生にしがみつこうとしている自分に心底呆れます。
「……あ」
気づけば化け物は桜の花弁を一枚残して消えていて、あるのはまだ温かい熊の死骸のみ。
血生臭い臭いが彼のそばにまで忍び寄ってきて、彼は僅かに床に胃液を吐きます―――。
―――瞼が重くなってきた頃。辺りがさらに暗くなったような気がして、彼は重たい瞼を上げて視線を上げました。
そこには消えていた化け物がいて、彼の胸がまだ上下しているのを確認すると、汚れた手で持っていた欠けた椀を、彼のそばに置きます。
湯気の見えるそれの中身はあまり良いものではなさそうでしたが、空っぽの胃に雑炊はとてもありがたく、彼は頼りない腕を伸ばしてみっともない格好で中身を啜りました。
切り方も中身も大雑把で、いったい誰が作ったものなのかも分からないそれは、彼を情けなく泣かせるのには十分のようでございました。
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