名前はもうある
千冬は。
迫害され、傷つけ傷つけられ、人ですらなくなって―――彼らが住んだ家すら形を無くすほど時が経っても。それでも、生き抜いた。
ただ這いつくばって生きたのではなく、どんなに人の子に恐れられても彼らの危機をその太刀で薙ぎ払い、厄災を告げて幾人もの命を救った千冬は、やがて悪鬼という認識を改めた村人たちから崇められるようになった。
「…鍋。おまえ、痩せたなあ」
「そなたに言われとうない」
素っ気ない言葉にさえ嬉しそうな千冬は、うら若い乙女が静かに祈り続ける彼のそばに置いていった花を―――娘さんが眠る桜の下に供えた。
……瑞々しく美しい花はどう見ても「お供え用」ではなかったが、千冬は気にせず(というか気づかず)微笑みを浮かべて見つめている。
「………バッタって、美味いのか?」
「食うかね」
「………いいです」
おまえが食べ物を用意しないから、仕方なく食べているのだぞ―――と言おうとして、人の気配に慌てて隠れた千冬に抱え込まれたせいで言えなくなる。
…どうやら、蔑まれ石を投げられるのは当然嫌だが、「鬼神さま」と崇められ畏れられるのも千冬としては居心地が悪いらしい。
祈りに夢中であったり、女子供に危険が迫りでもしないと姿を見せないことに決めた千冬だが―――それでも一目見たいと、懲りずに毎日山に入る娘もいる。
吾輩から見れば分かりやすいぐらいの慕いようであったが、数百年も娘さんのために生きて尽くしてきた千冬からすればまったくどうでもいいことらしい。
「―――あ」
恐る恐る影から抜け出してきた千冬は、満足げに見つめていた―――愛しい娘さんへの供え物が、炭のように崩れ落ちているのに気づいた。
するとすぐに冷え切った風が吾輩たちに襲いかかり、炭と化した花はどこかへ消えた―――。
「………」
その、無言の怒りに震えた千冬はすぐさま緑の中に映える一本を手折ると、「お、俺の愛する香春、どうか受け取ってほしい…な……」と言って供えた。
吾輩は震える体を誤魔化すように咳をすると、桜の木の前で正座して震えている千冬に声をかけた。
「…しかし―――だいぶ娘さんの意識も戻りつつあるようだな。これならば目覚めも近いだろう」
「本当か?」
「うむ。もうすぐ、約束を果たしに来るだろう」
元気づけるように言えば、千冬は心底嬉しそうに笑った。
花は、ひと月も枯れることなく、千冬の心を癒していた。
*
吹雪のひどい夜であった。
人でなくなった彼ですら凍死寸前の、地獄のような悪夢の夜。
行き場のない千冬はうまく動かない指に諦めたような目を向けると、桜の幹に体を預ける。どんどんと、彼の黒い衣が白く埋もれていく―――
―――その死者の世界に、場違いな春の風が吹く。
「……なんだ…?」
気づけば白い地獄は消え、春の息吹溢れる世界に変わっている。
月光のように眩い花弁が人の姿を描けば―――彼が数百年、ひと目でもいいからと乞い願い続けたひとが彼に手を差し伸べる。
「―――お会いしとうございました、千冬どの」
その微笑みは天女のように美しく、千冬を抱きしめそっと髪を撫でて慈しむ手は記憶と変わらず優しい。宝物に触れるような手だった。
千冬は、嬉しさのあまり娘さんの腕の中で目を閉じた。
「ああ、やっと、帰ってこれた―――」そう、夢が実現したことを噛み締めているような、そんな顔で。
「ごめんなさい、寒かったでしょう…」
「…もう寒くない」
このまま風に吹かれて天にまで舞い上がれそうなほど、今の千冬の体は―――心は。熱くて、思わず彼の頬を濡らした。
「―――おかえり、香春」
「…ただいま、です。千冬どの」
―――こうして、二人の姿は消える。
恨みも、因果も、約束も―――全て解けて、やっと再会が叶った二人は、桜に祝福されてその姿を輝かせる。
人々に祀られるその御霊は衣と太刀に、人としてあるべき道に戻る命は天に。満開の桜に見送られ、分かれていった。
やがてその命は巡り、咲いては散る花の如く再会と離別を繰り返し、幾度も同じ約束を果たすのだ。
―――吾輩はそれを、いつまでも見守ろう。
*
神の多くがこの世から離れて久しい現代。吾輩は、山の主として祀られている。
本当は祭りと冬の間しか降りてはいけないのだが、そんな人の都合など知ったことではない吾輩はちょくちょく訪れる者の鞄に入り込んでは二人のいる神社に遊びに行く。
そこでは襤褸ではなくお綺麗な着物を着た千冬がいつも娘さんに膝枕をしてもらいながら子供のように甘えていて、参拝客が来ようが神主が仕事をしてようが気にせず娘さんといちゃついている。
娘さんはそれを鬱陶しがることもなく、「千冬どのの御髪は雲のようにふわふわしてらっしゃる」と微笑んでは髪を優しく梳いている。
けれど二人とも吾輩が来るとすぐさま駆け寄ってきて、我輩を子供か何かのように抱き上げては笑いかける。「また太ったなあ」と千冬が失礼なことを言うのでよく顔面を蹴飛ばしているが、「本当……美味しそう…」と呟いた娘さんのお顔を蹴り飛ばすことは未だに出来ない。だってこわ……あ、いや、何でもないです。
「ああそうだ、さっき供物の中に桃があったんだよ。みんなで食べよう」
「吾輩はメロンが食べたい」
「我が儘言わないの!昔なんて桃は滅多に口に出来なかったんだぞっ」
「まあ、ふふふ。この中で一番若い千冬どのが、『昔なんて』と語るだなんて…」
「えっ」
「語るでない小僧」
「えっ」
千冬はよくこうして、我輩たちに遊ばれている。
そして遊んでいる張本人である香春に泣きついて慰めてもらっているのだが……おまえは子供か。いくら姉さん女房だからって…いや、「姉さん」で済ませられるほどの歳でもないのだ―――あっ、すいませんごめんなさい何でもないです。
「千冬どの、わたくしが切り分けますので待っていてくださいね」
「うん……」
「今日のおやつは梨ですからね」
「あれ、桃は?」
結局その日のおやつは梨だった。
しかし夕方に知るのだが、どうやらここの神主の孫が友達と友達のお祖母さん(寝込んでる)に食べさせたくて持って行ってしまったらしく、桃を食べようにもすでに無かった―――ということらしい。
千冬はそれを知ると「香春は優しいなあ」とのほほんと言っていたが、どこかから帰ってきた娘さんの手にある太くて長いものを見るとその表情が固まった。
「千冬どのに鍋!とても活きのいい蛇がおりましたの!夕餉はこれで決まりですねっ」
千冬は絶望のあまり顔を両手で覆った。
吾輩は千冬を見捨てて逃げ出した。
吾輩の別荘は、あの将来嫁の尻に敷かれそうな子供の家である。
勝手に窓をすり抜け、そのまま冷蔵庫の中身を漁ることもあればあやつのお菓子を食べていることもある。
―――が、今日はそんな気力も湧かなかったので、重い足取りであれの部屋に向かうとぬいぐるみの中に潜り込んで帰宅を待つ。
男の部屋のくせに無駄に良い匂いのする部屋の中にいると眠くなってくるが、遠くでガチャンと扉が閉まる音を聞いて目を覚ました。
「―――でさ、父さんが今度の休みにデッデニーランド連れて行ってくれるんだ!」
「いいなあ。私、一度もデッデニーランドどころか遊園地も行ったことないもの…」
「柊子は夏休み、どこにも行かないのか?」
「オーストリアに行く予定なの」
「そこまで行くなら行こうよデッデニーランド!なんで国内旅行すっ飛ばして海外に遊びに行くの!?」
「うーん、ご先祖様に予定決めてもらったからねえ…」
「何それ!?柊子の家って謎が多すぎるよ!」
―――と、話していると、リビングから「お兄ちゃん、お帰りなさいっ」と迎える幼い子供の声が聞こえた。
「桜子ちゃん、久しぶりだね」
「柊子お姉ちゃん!今日泊まっていってくれるんでしょ?桜子と一緒に寝ようよー!」
「えっ」
「うん、いいよ」
「えっ……お、俺とゲームは!?今日だけは徹夜で遊んで不良になろうって言ったじゃないか!夜中にコーラとかお菓子食べちゃったり!真夜中だけど俺たちだけで家を抜け出して天体観測しようって言ったじゃないか!」
「お星さま見るの?私も行きたい!」
「だめ!まだ風邪治ってないでしょ!」
「えーっ!」
兄妹喧嘩に挟まれているのだろう彼女は、困った様子で笑いながら二人を宥める。
「じゃあ、今日は桜季くんの部屋で星を見ようよ。それなら桜子ちゃんも見れるし…星を見るのに飽きたらすぐ遊べるしね」
「でも…、……わかったよ」
「やったー!」
なんだかんだで妹に甘いのか、二人っきりで過ごしたかったのだろうに提案を受け入れてしまうところが、やっぱり千冬と変わらない。
「じゃあ、残りの宿題片付けよう。ほら、桜子も持っておいで」と二人が先にこの部屋に向かい―――がちゃ、と入ると、男はすぐさま冷房を付けようと動き出す。
その際に吾輩のそばを通ったが、気づくことなくまた素通りしていく。
「……」
しかし彼女はしっかり我輩に気づき、しばし目と目が合う。
緊張する我輩を不思議そうに見つめていた彼女だが、特に何も言うこともなく荷物を置いて勉強道具とお菓子を出す。
あれは「お茶持ってくる」とやっぱり気づくことなく部屋から出て行ったが、彼女も何も言わない。ただ、そっとクッキーをハンカチの上に乗せて吾輩の前に置いた。
「…どうぞ」
内緒話をするように悪戯っぽく笑う彼女―――ああ、こっちの娘さんは怖くなくて最高だ。
ぬいぐるみの中から這い出てクッキーを食べ始めると、娘さんはモフモフする我輩を撫でる。くすくす笑いながら撫で回す手は気持ちいい。
「やだ、なんだか……美味しそう……」
―――あれ、やっぱり怖いかも……。目が……狩人のそれ…なんだけど……。
「柊子!これ、父さんが昼に置いていったらしいシュークリームが―――」
ニコニコしながら戻ってきたあれは、我輩に気付くと「あ……あああああ!!」と叫ぶ。
あれは我輩を指差し、「この前俺のショートケーキ食べた!」だの「父さんのつまみ齧って俺に罪を被せたんだ!」だのと彼女に訴える。
彼女は「まあ…」と我輩を見るが、すぐさま我輩が娘さんに頬擦りしたりモフモフを堪能させると「……きっとお腹が空いていたんですよ」と吾輩の側についた。ふっ……。
「でもでも!俺の……」
「桜季くんは、迷える子兎ちゃんを助けてあげられる優しいひとなんだね…すてき……」
「―――へへっ!」
おい、おまえそれでいいのか。
「あーっ、うさちゃんだ!今日も来たの?ご飯食べる?」
「ご飯…あ、この前買ってたペットフードのこと?」
「ああ……でもこいつ、どんな高いペットフードでも食わないんだよ。人間様の食べ物ばっかり欲しがってさ、図々し…痛い!」
「桜季くん―――」
「あ、シュークリーム食べてるようさちゃん」
落ちているもので我慢してやっているのだ、ありがたく思え人間ども。
……あっ、やだ、このクリーム美味しい!人間どものくせにこんなものを食べてるなんて……羨ましいぃ…!
「ダメだようさちゃ……あ、ねえお兄ちゃん。うさちゃんに名前付けないの?」
「デブでじゅうぶ…痛い!」
「学習しなよ桜季くん……」
「お名前ないなら、わたしが付けてもいーい?」
「んー…」
「いらぬ」
顔を上げてそう言うと、全員が驚いた顔で我輩を見る。
吾輩は気にせず、「名前はもういらぬ」と繰り返した。
だって、我輩は「鍋」。―――名前は、すでにある。
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「吾輩は兎である」編を最後まで読んでいただきありがとうございます。
ふっくらしてて可愛いけど千冬に対して攻撃的な兎こと木霊の「鍋」。でも実は一人称「我輩」、冷たいようにみえて性格はちょっぴり可愛い彼のお話は、如何だったでしょうか?
補足説明しますと、
「人間」としてのあれはこの後、鍋のせいで霊感少年になり、篠崎の陰陽師少女に助けてもらったり見捨てられたりしつつも幸せに生きていきます。生まれ変わっても不憫なので本当に不憫な目に遭うことばっかりですが、ガチの危険は鍋と彼の複雑な事情(神様としての気配)が回避してくれますので大丈夫です。
なお、柊子ちゃんは物理で心霊現象を駆逐していくスタイル。篠崎の陰陽師少女に「強い(確信)」と毎度思われてる。
あと彼らの住居は例の山の近くで神社からは街をいくつか挟んだ向こうにあります。でも鍋だと十秒以内に辿り着ける距離。
なお、鍋が山の神と祀られていますが、正しくは千冬たちの眷属神という扱いです。
千冬(鬼神)が主祭神、香春が比売神(主祭神の妻という立場)で、鍋はバカップルの使いっぱしり。
そして二人の衣や太刀が山の下の神社に保管されているために二人は神社、鍋は山と分けられて住んでいるんですが、鍋がちょくちょく山を降りて二人に会いにいく…という感じですね。
食に貪欲な鍋は今後も桜季の元を訪れて、二人が仲良く老いていくそばでやっぱり訪れては何か食べていて。二人が亡くなったら何か食べ物をあげるんでしょう。きっと、二人が美味しいと笑い合っていた木の実でも。
ちょっぴり切ないけども、まあ気長に待てばまた会えるだろうと千冬に会いに行って飛び蹴りするのが鍋の在り方。たぶんそこまで書こうとしたら泣きながら話を作ることになりそうなので書かないです。うん。
これにて「吾輩は兎である」編は終了しますが、次ではヒロイン香春の昔話になります。
下女の子として下働きしていた彼女が、その美貌からどんどんのし上がってお姫様になるお話―――というと香春が黒い女に思えますが……な、お話。
たぶん、美しくなければ彼女はここまで苦しまなかったと思う……エピソードですが、公開は秋か来年春になる予定。すいません。
それでは「吾輩は兎である」編、これにて終了とさせていただきます。




