名前が気に食わぬ 下
ああ諸君。吾輩は木霊。目の前の若い夫婦に苛立ちを覚える木霊である。
娘さんが桜の木に帰る―――その日が近づくにつれて、ただでさえ普段からお熱い二人は今や真夏に燃える火のように我輩を不快にさせる。でも態度に出すと娘さんが怖いので黙って男からの献上品こと草を食べている。
「……香春。さむい…」
そう言って抱きしめている娘さんに甘えると、娘さんは「そうですね…、とても寒いわ」と囁いて男の背に腕を回した。
そのままポン、ポンとおっとりした調子で背を軽く叩けば、男の震えも少しは治まる。
―――吾輩は、囲炉裏の火が燃え上がってこの家ごと灰にならないかな、とそろそろ思い始めていた。
*
娘さんが眠りにつく日。
娘さんは何度も何度も男に念を押し、離れ難そうに男の前から消えることができない。
その姿はまるで幼子を置いていく母のようで、心配で死んでしまいそうなほどだ。
男もそれに気づいたのか、ふ、と息を吐いて娘さんに微笑みかけた。
「香春」
「は…はいっ」
「……目が覚めたら、美味しいものをたくさん食べさせてやる。だから…楽しみにしてろよ?」
「……はいっ!」
少し安心したのか、娘さんも笑って―――焼き付けるように男をじっと見つめると、花のように美しく消えていく。
もはや娘さんの欠片もない、何もない場所を、寒いというのに男は飽きもせずにずっと眺めている。吾輩はさっさと囲炉裏のそばに連れて行けと、男の脛を蹴飛ばした。
「……痛いだろ、鍋」
うるさい。吾輩は寒いのだぞ。
さむい、のだ。
*
あれからというもの、男はぼんやりしたまま生活をしている。
娘さんとの約束のため、吾輩の世話や自分の面倒はしっかりと果たしているが、時折―――暇ができると、男は死んだ目で自分の手で自分の頭を撫で、「……これじゃないな…」と呟いてもう一度撫でる……を繰り返し、急に我輩を抱きしめたかと思うと「香春の匂いがする…」と言って布団に引きずり込んだりする。
そして吾輩から娘さんの匂いがしなくなると、しょんぼりした顔で我輩を見る。思わず蹴飛ばした。
あと、吾輩がひたすらに食事をしていた時、春には娘さんに美味しいものを食べさせたい男が手仕事を止め、「何がいいと思う?」と吾輩に問うた事があった。
吾輩が咥えていた葉っぱを見せると、「ああ……うん……聞いたおれが馬鹿だった…」と言って手仕事を再開していたが……。
ついにはこの間、我輩の腹を撫で、「香春…兎の肉が好きなんだよな…」と呟いたので、吾輩は怒涛の突き攻撃を開始した。
「……千冬どの、いらっしゃいますか……千冬どの…」
―――そんな、寂しさの残る生活の中。
暗くなると、あの娘さんの声が―――いや、娘さんの声を真似た悪霊が、家の戸を叩く。
無理矢理にでもこじ開けられるほどの力を得ているが、守り神と化している吾輩の力に負けて侵入することが出来ないのだろう。
後は男が下手な行動をしなければ―――そう男の様子を伺うと、男は真っ青な顔で後ずさっている。どうやら、寂しさに沈んではいたが、扉の向こうにいるものが愛する者ではないことには気づけているらしい。
男はそれから何度も、何日も悪霊が訪れても決して家に招かず、外で悪霊が近づいても可能な限り反応しないよう無視をしながら―――しかし立派な太刀を離すことはなく、眠るときにも枕元に置いて寝るようになった。
とはいえ、そんなものは今の悪霊どもからしたら鼻で笑うような子供の抵抗で、吾輩は疲れるが日々男のそばに付いてやっている。
「鍋、おまえも来るのか?―――心配してくれるのか?」
べ、別に、心配してるわけではない!下僕の世話を見るのは主人たる吾輩の義務だからだっ!
ふんっ、とそっぽ向いて適当に歩き出すと、「おまえは素直じゃないなあ」と男が笑う。
その笑い声が途切れ、男がくしゃみをしてしまうと―――男は胡散臭い笑みを浮かべた、しかし腕は確かな陰陽師によって、吾輩の正体も、悪霊たちの現状も聞いてしまう。
このままでは娘さんは地獄の苦しみを味わって消えるのだと知った男は、真っ青な顔で我輩を抱いて家に帰る。
雪上で風に吹かれ、今にも倒れて立ち上がれなさそうなほどに弱々しい様子の男は、吾輩の耳に、鼻先に涙をポトリポトリと落としては、掠れた声で寝言でも口にしていた名を幾度も呼ぶ。……見ていられない。
―――その夜、男は眠らなければならない娘さんを連れ帰ってきて、「ちょっとの間だけ、家族で過ごそう」と悲しげに笑った。
*
――――
――――――――
―――――――――…
―――全てが終わったな、と。吾輩は大きく息を吐いた。
目の前には、どこぞの子供に刺されて死にかけていた―――今やその傷もない―――ひとりぼっちの男と、疲れた顔の陰陽師とその助手と。……吾輩だけ。
本当は、吾輩もあの木に戻らねばならぬ。けれど今のこやつを置いていくのは些か不安だった。寂しがり屋だが娘さんとの約束だけはきっちり守るやつだから、約束を放って自害するようなことはないと思うが―――まったく。
「泣くでない」
―――初めて声をかける。
男は涙をぼろぼろと零しながら、我輩を見た。
「吾輩がいる」
そう言えども、千冬はやっぱり泣いていた。
*
それから千冬は、一年中娘さんの眠る桜の木の下で娘さんを待ち続けた。
最初はたどたどしかった呪いもすらすらと諳んじることが出来るようになり、それに合わせて桜に封じられた悪霊どもも少しずつ力を削がれていく。
食べることも寝ることも放棄して唱え続ける千冬に呆れた吾輩は、よく木の実や魚などを千冬に差し入れた。姿を現すことができない時は、吾輩の眷属に面倒を見させた。
千冬は吾輩からの物だと気付くと、青白いその顔にほんの少しだけ笑みを浮かべる。
簡単に調理して口にしてしまうと、よく桜の幹に体を預けて微睡んでいた。
―――そんな浮浪者のような頼りのない生活をしていると、衣服も擦り切れ、髪と瞳を隠していた頭巾は風で吹かれて去ってしまった。
そのせいで、偶然遭遇した村人や旅人から異形の姿だと恐れられ、「化け物め!あっちへ行け!」と怒鳴りつけられ石を―――下手をすると鎌や、矢などで痛めつけられた。
それ以外にも、数人の山賊から襲われ、なんとか生き延びたこともある。「鬼め」と罵られるたびに、千冬は俯いて唇を噛み、静かに立ち去った。
ついにはどこぞの軍がやって来て、お偉い人間どもが美しい桜の下で花見をしながら攫ってきた村娘を甚振ろうとし―――千冬は娘さんの眠る場所を穢させぬと、一人で戦いほとんどを斬り捨てた。
もちろん千冬もただでは済まず、前も見えない状態で這いずりながら桜の根元に縋りつくと、「香春……」と口から血を吐きながら懸命に目を開き、桜を見上げた。
そして千冬は泣きながら、掠れた声で訴え続ける。
―――痛い。
―――辛い。
―――怖い。
―――さみしい。
―――さむい……
「……あいたい……」
もう一度、あの美しい手で、自分を愛おしんで欲しいのだと。慈しむ眼差しがもう一度見たいのだと―――そう、届かない願いを口にして。
ついには息絶えるように眠りに落ちて、ひとりぼっちで目覚めた頃には、すでに怪我のほとんどが治っている。
「……あいたい……」
もう袖が引き裂かれた跡しかない腕を握り締めて、千冬は温もりを求めて桜の幹に頬を寄せた。
幹は、死人のように冷たかった。
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