名前はまだ無い
こんにちは諸君。吾輩は木霊。名前はまだない。
今日は何百年ぶりにか息抜きをすることが出来そうなので、悪霊どもの巣窟と化した桜の木のお守りを逃げてみる。そのせいで奴らのうち何人か逃げたが気にしない。
思いのままに桜に背を向け駆け出す―――ああ、久しぶりに感じる山の風は気持ちがいい。
昔はあっちこっちで宴をしては人間どもを困らせてやったものだが、今では騒ぎを起こしているのは物の怪ばかりである。いやはや、神代の頃が懐かしい。あの頃は、もっと神の息吹を感じられたというのに。
「おーい、あまりそっちに行くな」
男の声がする。そして人ならざる気配もある。
恐らく、あの桜の悪霊の長であろう。今はだいぶ清い存在に変わってはいるが、人でないものと暮らすとは頭のおかしい男である。
「はぁい」
一応返事はするが、男がご執心の娘は心の赴くままに花を毟っている。
以前の見苦しい異形の姿を解いた今の姿は確かに美しいが―――あ、こっち見た。
「まあ、ごは……兎さん。何かご用?」
今何か……いや、いいか。
娘は星のように煌く瞳で我輩を見つめ、何やらうずうずしている様子。
ついには耐え切れぬように抱きしめてきたが、まあ許そう。女子供には優しいのが吾輩である。
「……香春、遠くへ行くなと―――ん?」
男が来た。目が合うと、何とも言えぬ顔になる。
「……香春、子兎を食べるのは…よさないか…?」
「た、食べるわけないですっ」
必死に否定する娘だが、それがまた怪しい。さっき不穏なことも口に仕掛けていた唇で、何やら必死に弁解をしていた。
「わ、わかったわかった、可愛がってる…可愛がってるんだよな?」
「そうですっ」
「わかったから…食料にしないのなら早く―――」
ぴちょん、と。男の鼻先に雨の雫が落ちる。
雨か、と懐かしんでいるうちに男たちは住処に戻るようだ。
「雨か…家に戻ろう、香春」
「はいっ」
「……兎は置いていけ」
「えっ……濡れてしまうではないですかっ」
「いや、濡れても平気だろ、別に」
「だめだめっ、まだ子供なのですよ!風邪を引いてしまいますっ」
子供ではない。お前よりもうんとお爺さんだ―――と思ったが、思えばほぼ意識のない状態で悪霊どもに囚われていたことを思うと、娘が吾輩が何者なのかを悟るのは無理だろう。
しょうがないな、と吾輩は黙って娘の細腕に抱きしめられて、二人の住処に運ばれる。
娘の体は柔らかくて、案外居心地が良い。
*
雨はなかなか止まない。
そのため吾輩もふたりの住処に留まるよう言われ、心の広い吾輩はその願いを叶えてやった。
お客様である吾輩の定位置は、もちろん娘の膝の上である。
「……」
娘の膝の上で、娘に手ずから食べさせてもらう吾輩を、この愚かな男は心底羨ましそうに睨みつけている。
今にも歯軋りをしそうなその顔が面白くて、娘の手を甘噛みしたり頬擦りしたりして喜ばせてやると、だんだん男は泣きそうな顔になってきた。愚かなうえにヘタレとは救えない。
「ああ兎さん、食べ終わったなら体を綺麗にしましょうね」
湯浴みか。娘の手で洗われるのは好きだ。気持ちが良い。
上機嫌の娘が我輩を抱き上げようとすると、横に居た男がぐいっと娘の袖を引いた。
「千冬どの?」
「……」
無言で袖を引き続ける男とは……この男が並みの顔をしていたら鬱陶しく思われるのだろうが、残念ながら悲しみに沈む美丈夫にしか見えない。ちっ。
娘は驚いたような顔で男を見ると、苦笑いを浮かべて「…その前に、千冬どの。わたくしと遊びましょうか」と男を囲碁に誘う。パッと顔を輝かせ、「ああ!」と道具を取りに行く姿はどう見ても子供だ。弟に母親を取られ不貞腐れるもすぐに機嫌を直してしまう、ちょろい兄。
……いや、これでは吾輩があの人間よりも下ということになってしまうではないか。やっぱりあの男は飼い主が大好きでしょうがない犬ということにしておこう。
「勝った方がこの子の名付け親ですよ」
「え?…あ、ああ」
名付ける……名付けるのか、この人間と亡霊が―――この我輩を。
全くもって無礼な者たちだが、いつまでも「兎」だの「兎さん」だのと呼ばれているのも確かに気に食わぬし。
「あー…じゃあおれが勝ったら……た、『たま』って名前にしよ……いっだ!?」
「あら、嫌だったようですね」
当たり前である。もっと高貴な名前を考えろ。学がないわけでもあるまいし。
まあいい。それにきっと、この娘ならば、吾輩に相応しい雅な名前を考えられるだろう。娘が勝つことを祈るとするか―――。
「わたくしが勝ったら、『鍋』にいたします」
「えっ」
えっ。
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