1.
【かつてこの山には、鬼神が棲んでいた。
鬼神は荒ぶる悪神としての一面もありながら、郷に住む人間を助け、厄災を退ける善神の一面もあり―――後に郷の人間により祀られ、今でも厄災を払うため、そして豊穣を願って春には大々的な祭りをする。
祭りでは鬼神役の男とその妻である姫君役の娘が山の祠前で舞い、迎えの村人たちの神輿に乗り郷の神社へ行き、奉納演武を見守る。】
「―――なお、祠の近くで兎を見つけると、幸運が訪れるという。……なるほど、なかなか面白い……」
―――ふむふむ、と少年が案内板を読んでいると、不意に脛に強い衝撃がきて倒れこむ。
驚いて辺りを見渡すと、白い子兎が鼻息を荒くして少年を見つめていた。
「なっ……なんて、ガラの悪い……幸運どころか喧嘩を売ってきただと……!?」
子兎は少年の鞄から落ちたお菓子を見つけると、素早く駆け寄って咥える。
「あ」と少年が手を伸ばすも、子兎は太った見た目とは裏腹になかなか捕まらず、草薮の中に消えていった。
「お、おれのおやつ……くっそ!」
悔しさのあまり地面を叩くと、そのあまりにあんまりな格好に恐る恐る声をかける少女がいた。
ちなみに長い黒髪の、この年の少女にしては落ち着いている彼女の背後では、何人かが彼を見て笑っている。
「桜季くん、何をしているの?」
「柊子……聞いてくれ、おれのおやつを幸運の兎が奪った!しかも何もしてないのに蹴りを入れてから……!都会の不良か!」
「それ、疲れているんだよ桜季くん……」
「ちがうんだ!!」
訴えるも、周囲の視線は戸惑いがあり、桜季の言動に引いている。
やっと悪い注目の浴び方をしているのだと知った桜季は、投げ出されていた鞄を拾うと柊子に隠れるように集団から少し離れた木陰の下に座り込む。
そこにはすでに少女二人と少年一人が待っており、雰囲気の柔らかい少年は「桜季くん、葉っぱ付いているけどどうしたの?」と心配するも、少女二人は「なに小動物と漫才してんのよ」だの「笑いじゃ腹は膨れないんだよ桜季くんよー」といじめてくる。桜季は柊子に慰めてもらった。
「柊子、篠崎たちが…篠崎たちがいじめる……おれは何も悪いことしてないのに、兎もこいつらもおれをいじめるんだ…」
「大丈夫だよ桜季くん。からかってるだけだから。それにもしいじめられたら、わたしが竹槍を持って退治するからね」
「竹槍って柊子ちゃんいつの時代のひとなの?未だに戦時中なの?」
「ていうか、殺す気満々じゃないの。そういうのは戦地でやってちょうだい」
「まあまあ皆、いつまでもおしゃべりしてないで食べようよー」
少年がのんびり言うと、四人はあっさりと雰囲気を変えて、各々の弁当を取り出す。
ただし桜季の分は彼の家庭事情(父子家庭で現在お父さん出張中)により、柊子が持ってきたのだが。
わくわくしながら二人用のレジャーシートを敷くと、柊子はそこに小さなお重を広げた。
「うっわぁ!なにそれ、すっごく美味しそう!おかず交換しよっおかず交換!」
「何を言っているんだ篠崎。これは柊子がおれと食べるために作った、おれと柊子のためのお重なんだぞ!」
「荷物多いなあとは思ったけど、あんたよくそれ持って山登れたねえ」
「あ、このおかず可愛い」
四人がきゃっきゃとお重の中身にはしゃぐのを照れくさそうに見ていた柊子は、えへへ、と可愛らしい笑みを浮かべた。
「桜季くん、男の子だから…頑張っちゃった!」
「ありがとう柊子!さあ食べよう、篠崎が食べる前に……ってあああ!卵焼き!おれの卵焼き!」
「さっき待たされた迷惑料だよ……お、美味い美味い」
「ああああ……っ!」
落ち込む桜季と味合う篠崎、そして呆れた二人を気にせず、柊子はごそごそと自分の鞄を開けた。
「大丈夫だよ、桜季くん。私の分の卵焼きあげるから」
「えっ?」
「えっ」
「……え」
「え?」
よいしょ、と置かれたのは、可愛らしいお弁当などではなく、「お重」である。
「桜季のもの」が綺麗で丁寧に盛られたものだとすれば、「柊子のもの」は女の子らしい可愛らしさがある盛り方、である。………。
思わず四人全員が顔を見合わせると―――
「い、いやあすごいね!お重二つ分…いや、二人分も作るなんて、大変だったでしょー?」
「うん。でも、今日の遠足は楽しみだったから、気づいたらあれこれ作ってしまってて」
「そ、そっかー。でもこんなに作っちゃうなんて、柊子ちゃんって食いし……じょ、女子力高いね!」
「ありがとう」
「た、食べきれなくなったら言いなさいよ、手伝うから……」
「大丈夫!これぐらいぺろっと食べちゃうから。ねえ、桜季くん?」
「え!?……あ、……ああ!お、男だからなっ」
とりあえず、いじらない方向で一致した四人は、「見ただけでお腹いっぱい」と思いつつも箸を手に取る。
いただきまーす、と呑気な声を合わせておかずをとると、桜季は以前よりも腕を上げた柊子のおかずに感動する。そしてその減りそうにない量に絶望した。
「どう、おいしい?」
「とっても!美味し……あっ!」
「え?」
柊子の方を向いて微笑んでいた桜季の耳に、レジャーシートと地面が擦れる音が聞こえる。
なんだろうと振り返れば、お菓子を強奪したあの子兎がお菓子の袋を咥えて彼に近寄っていた。
もしかして反省したのだろうか、と訝しげに子兎を見つめていると、子兎は引きずってきた袋をペッと彼に吐き捨てた―――。
「おれはおまえの給食担当でもゴミ箱係でもないんだよ、この泥棒兎がッ!」
「ちょい待ち。そこにサンドバックも入れときな」
「舐められ過ぎなのよあんた」
「でもゴミ返しに来るって頭良いよねえ」
「桜季くん、地元のひともいるから静かに」
「でもっ、柊子…!」
「その子も、もしかして親とはぐれちゃってお腹が空いてたのかもしれないじゃない。お腹空くと、誰だってカリカリするし」
「……おれはしないし」
「桜季くんは甘えてくるものね」
「ヒューッ!」
「うっさい!」
篠崎が囃したてるも、真っ赤になって慌てたのは桜季だけで、柊子は気にせずおかずを摘んでいる。中学生がこの手のいじられ方をしたら彼のようになりそうなものなのに、堂々としている彼女は流石である―――と、辛口な少女は思った。
「……ほら、兎さん。林檎食べる?」
そう言うと、柊子は怖がりもせずに近づいてくる子兎に林檎を差し出した。
子兎に林檎の兎を差し出すなよ、と内心思った桜季だが、子兎は気にせずしゃりしゃりと林檎を食べていく。その姿が愛らしくて、一同は騒ぎを忘れて和んだ―――が、一つどころか二つ三つとどんどん林檎を食べていく姿にすぐ呆れてしまったが。
「私、動物飼ったことないのだけど……野生の兎って、こんなに人懐っこいものなの?」
「どーだろ……」
少女の疑問に、動物を飼ったことのない四人は答えられず、結局面白がっておかずを分け与えてしまい、先生に見咎められると子兎はどこかへ逃げていってしまった。
そして休憩時間も終わりに近づき、なんとかお重を食べきった桜季は「ちょっと……軽い運動…」と言って友人たちの輪から離れて辺りを散策する。
この後は祠と繋がりのある神社に寄る予定で、神社仏閣巡りが好きな彼はちょっとわくわくしている。
「ここに、鬼の棲んでた桜の木があったのか……」
立ち入り禁止の柵の中を覗く。
そこには名も知らぬ山野草しか残っておらず、木があったという痕跡も見られなかったが―――彼にはどうしてか、ここに咲き誇っていたのだろう桜の木を想像できる。
(きっと―――あの夢のような―――)
幼い頃から、春になるといつも見てしまう夢―――。
そこでは、何度も満開の―――息を呑むほどの絶景の桜があるのに、虚しくてしょうがない思いをしている。何かを呟きながら、心の中では「はるよこい」と願っている。もう春は来ているというのに、不思議な話だ。
「桜季くん」
―――気付くと、彼の背後で柊子が鞄を二つ抱いて、おっとりした声で名を呼んだ。
目が合うと微笑んで、「もうお休みの時間は終わりだよ」と鞄を渡すと、彼の手を引いて友人たちのもとへ連れて行こうとする。
その、ちょっとした動作にすら中学生とは思えない洗練されたものがあって、男子の間では「美人だけど近寄りがたい」と評されている。
その口調も同年代の女子と違って丁寧な方であるが、桜季は時折違和感を感じてしまう。
「もっと、高貴さがあった」と思っては「高貴さ?」と自分の考えに疑問符を浮かべてしまうし、自分自身にだって「こんなに馬鹿なことをしてはしゃいだことはなかったのに」なんて遊びに夢中になっている最中に思ってしまう。
最近は病院に行くべきかもと不安に感じているのだが、それをやったら終わりのような気がして行っていない。
けれど、もし勇気を出して行ってみたら、この体に伸し掛るような重みから解放されるのだろうか。今の、この重み以上に苦しいものから―――……
「……なんか重くないか?」
―――どういうわけか、現実でも重くて、背負っていた鞄を下ろす。
すると確かに、柊子から受け取ったときは軽かった鞄が重かった。
「どうしたの、桜季くん?」
「いや、これ、重い―――」
勢いよくチャックを開ける。
するとそこには―――すやすやと睡眠中の、あの子兎が。
「いつの間に!?」
「わあっ、可愛いねえー!」
「いや、そういう問題じゃ…」
「―――そこの二人ー!置いていくわよー!」
呑気な柊子につっこむ最中で担任に怒られ、慌てて子兎を持ち上げる。
けれども子兎は重りの石のようで高く持ち上げられず、二人がかりで引っ張り上げてもわずかに高さが上がっただけだった。
「くそっ、可愛げのない子泣き爺みたいな兎だな…!」
悪態を吐くと、目が覚めた子兎がジタバタと暴れて桜季の鞄の中に潜り込む。
そうこうしている間に担任の怒りは増し、今にもこちらに来そうだ―――というときに、篠崎が「何してんの」と問題児を見る目で近寄ってくる。
「このデブ兎が、おれの鞄から出ようとしないんだよ」
「……ああ、それはきっと山を降りたいんだろうよ」
「は?」
「子兎だもの。親に会いたくて当然さ」
時折、こういう不思議なことを言う篠崎は、そのままチャックを閉めると軽々持ち上げて桜季に渡す。
まさか女子が片手で持てると思わなかった彼は驚き、恐る恐る受け取ると―――さっきまでの重みが嘘だったように、軽い。
「さっきまで重かったのに……」
「悪戯されたんだよ、あんたって悪戯のしがいのあるやつだから」
「えええ……」
「…ちょっと分かるかも」
「え!?」
ぼそっと同意した柊子に「嘘だろ!?」と問い直そうとするも、「そこ!早くしなさい!」と怒られて慌てて三人で駆け出す。
軽く怒られてから最後尾を歩いていると、隣で歩いていた柊子が大きな葉を指差して、「あの兎さんはこういうの好きなのかな」と笑う。
その姿を、どこかで見たことがある気がする―――なんて、おかしいことを考えながら、彼は「市販のペットフードにするべき」だとか話しては、長い山道を下っていった。
そうして山の下の長閑な村に着くと、少しの水分休憩の後に神社を目指して歩き出す。
子兎はやっぱり休憩時間中も鞄の中から出ず、息苦しいだろうと兎の顔ひとつ分ほどに開けたチャックの隙間から外の風景を眺めている。
何故かそれを「楽しんでいる」と思ってしまった桜季の隣で、柊子も「楽しいんだね」とぽつりと呟かれた時はとても驚いたけれど。
「―――そろそろ、神社だ……」
確か、ここには姫君の衣と鬼神の太刀が祀られている筈である。
もうだいぶ傷んでいるのだろうが、実物を見られたらこの足の痛みも忘れられそうだ。
「階段長いねえ」
柊子が浅く息を吐いて言うものだから、桜季は心配して水筒を差し出した。
「ありがとう―――」
嬉しそうに微笑む柊子に見惚れていると、ふっと背中の重みが消えた。
びっくりして振り向くと子兎が階段に飛び降りていて、一度桜季たちを見上げるとそのまま一気に階段を駆け上がっていく―――。
「ちょ、おい!待て!」
慌てて桜季も階段を駆け上がるが、これがなかなか苦しい。
他の生徒からは巫山戯て駆け出していると思われているようで、「おっ、若いなあ」なんて感心する篠崎たちの声も聞こえた。
「待てってば、兎―――」
階段を全て駆け上がる。
―――そこには、息などまったく乱していない子兎と、向こうの景色が透けて見える二人の男女が佇んでいる。
重ねた衣の美しいあの服装は、平安時代を思わせる―――艶やかな黒髪の、高貴な雰囲気がありながらも温和な笑みを浮かべる彼女は、「姫君」なのだろう。
対して男は、資料で見た祭りの衣装通りの黒い着物姿で、独特の雰囲気はないが美丈夫である。
『―――お帰りなさい、鍋』
『おまえ……また蹴っ飛ばして来ただろう。そういう奴は兎鍋の刑にするぞ―――っだ!』
『あらあら……はしゃいじゃって』
『これのどこがはしゃいでいるんだ!』
美丈夫の足に体当たりをした子兎に怒鳴るも、結局美丈夫は子兎を抱き上げて撫でてやる。
そして子兎もなんだかんだと意地悪をしつつも、結局好きなだけ撫でさせて上げるのである。
二人と一匹はやがてのんびりと神社の奥へと向かい、少しずつその輪郭を消していく―――その途中で、「姫君」は振り向いた。
『―――約束、叶いましたね』
その微笑みは美しく、桜季は「やっと見ることができた」と相変わらず訳のわからないことを考えては、涙が零れ落ちそうになる。
あと少しで落ちる―――という時に背後で足音が止まると、息を呑むような気配がする。
けれど緊張していたのは数秒で、すぐに緩んでいつもの雰囲気に変わり、温かい手で桜季の手を握った。
その、熱い温度がとても愛おしくて、桜季も手を握り返す。横を見れば、悪戯っぽい笑みを浮かべた柊子が桜季を見つめていた。
「……勝負は、わたくしの勝ち―――だね、桜季くん」
「………そうだな」
考える前に、彼の唇は勝手に負けを認める。
けれどそれは無意識のうちでは「勝負」の意味が分かっていて、少しずつ時間をかけて理解するものなのだということだけは、理解した。
柊子もそれを分かっていたのか、ただ幸せそうに笑うだけだ。
その笑みが、「姫君」から向けられたものよりも、愛おしく思える。
最後にもう一度二人と一匹を見ると、美丈夫は眩しそうに柊子と、しっかり握られた手を見ていた。
しかしすぐに美丈夫は安心したように笑って、姫君の手を握る。
今度こそ仲良く社の奥へと消えると、一気に桜季たちの耳に音が戻ってくる―――。
「……柊子」
「なあに?」
「弁当、美味しかったよ。……ありがとう」
心を込めて礼を言うと、柊子は照れくさそうに笑う。
「お礼に、美味しいお団子でもどう?」
「あら、いいの?お腹いっぱいなのでは―――」
「まあ、小腹は空いたかな」
近寄ってくる篠崎たちを見つけると、桜季は茶化されないうちにと柊子の手を引いた。
生徒たちの間をすり抜けながら、桜季は振り返って、「実はさ」と柊子の指を自分の指と絡める。
「おれ、ずっとおまえに美味しいものを食べさせたかったんだ」
「それで、お団子?」
「なんでもいいんだ。おまえが喜ぶものなら」
そう朗らかに言い切るものだから、柊子は嬉しくって「じゃあお団子!」と桜季の腕に抱きついた。
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