20.
都から遥か東にある山に、見事な桜がございます。
旅人の心を癒すように、山道に植えられた桜の木々は美しく、中でも一本だけ、異様に大きく立派な桜の木がございました。………。
―――これは、わたくしが妖しげな美丈夫に屋根を貸した日に聞いたことでございます。
こんな山里に似合わぬ貴人さまはわたくしの住まいを「これはなかなか」とお気に召されたようでして、古い屋根から滑り落ちる雪音すら楽しんでおられました。
けれどふと、貴人さまは「なにかお礼を」と懐を探られたので、わたくしは「でしたら、何か面白いお話でも」と都のお話を期待してお願いしたのですが、貴人さまが教えてくださったお話というのは、この山の桜のことでございました……。
「あの桜には鬼がいる…というのは、わたくしどもの間でも有名な話なのですよ」
無礼を承知で語りだそうとするのを遮りますと、貴人さまは怒ることもなく面白げに「ほう?」と続きを促します。
「わたくしの…高祖父以上の代からでしょうか、あの山には賊以外にも恐ろしい鬼が棲んでおりまして、よくあの山を通るものを殺していたそうです。
……けれど、当時の先祖はある賊の頼みで、賊の身内の弔いに出かけていたそうです」
「おや、それはなかなか勇気のある方だ」
「ええ、でもまあ、賊も守ってくれたそうですから、本人はきっと気楽なものだったのではないでしょうか。先祖は何度かお経を上げに行ったそうなのですがね……」
熱い茶をもてあそびながら、わたくしはのんびりと遠くで聞こえる子供たちの声に耳を澄ませました。
「一度だって、鬼と会ったことはないそうで。正直な話、わたくしも最近まではお伽噺だろうと思っていたのですよ」
「最近…と言いますと、もしかして鬼と会ったのですか?」
「いえいえ。この老体では、あの山を登るのはね……。ただ、村の子供や若いのが山で迷子になったり、賊に襲われたりしていますと、白い髪の鬼が助けてくれるのですよ。先日など、山が崩れると子供に教えてくれましたしね」
「ふうん…」
「それで、鬼とは言えそこまで世話になったのだし、一度ちゃんと祀るべきかと……おや、どうなさいました?」
急にくすくすと笑い始めた貴人さまに慌ててしまいますと、「いや、気にしないで欲しい」と言いながら笑い続けます。
わたくしは少し訝しんでいますと、貴人さまは取り繕うように咳をしまして、「実はね」と内緒話をする子供のような気安さで仰いました。
「その鬼とは、ぼくの先祖からの仲でしてね。会いにいくたびに嫌そうな顔で素っ気なくされるものですから、ちょっとね。あのひとにもそういう一面がまだ残っていたとは…」
「はあ…」
なんと言えばいいのか迷って曖昧に頷きますと、わたくしは貴人さまに恐る恐る尋ねました。
「まさかあなたのような方が、このような山の鬼と縁があるとは。でしたら是非、わたくしにあの鬼のことを教えてくれませんか?」
「そうですなあ……うん、一途なひとですよ。あと、この世の誰よりも愛妻家なのです。小動物は好きなのだけど、よく兎に蹴っ飛ばされてますね」
「そ、そう…なのですか?」
「ええ。……まあ、それも父から聞いたことなのですがね。あのひとはいつも、桜の木に祈りを捧げているから。
炎天下の下だろうが、大雨に打たれていようが、雪が体を埋めようが―――ただひとりのひとを想って、ずっとずっとお祈りをしているのですよ」
「おや……では、鬼にとって、桜は―――」
「ええ、大切な妻です。もしも祀られるのならば、あの姫君も共にでなければね」
貴人さまはそう仰られますと、お茶を一息に呷られました。
「おっと、兎も必要だったか……―――まあ、なにはともあれ、祀られるのでしたら、次の満月までお待ちなさい。その夜は、なによりも美しい満開の桜が見れるでしょうから」
「満開の桜?今は冬ですよ」
「いやいや、あれに季節など関係ないのです」
その朗らかな様子を見て、わたくしは初めてこの方の感情に触れたような気がいたしました。
掴みどころがない霞のようなこの方が、途端に人間らしい輪郭を得た、と言いましょうか。まるで自分のことのように喜ばれるのを見るに、なんのかんのと言いつつもあの山の鬼のことを気に入っていたのでしょう。
「冬に満開になる桜とは……きっと、想像できぬほどに美しいのでしょうな。あの鬼の心も慰められましょう」
「ええ。桜が咲いている間は、彼も機嫌がいいですからね。……でも、この開花は彼を数百年の苦痛から救うことを意味しているのですよ」
どこか寂しそうな、けれども安堵したような。そんな人間臭い表情で、貴人さまは湯気の上がる天井を見つめました。
「やっと、愛しいひとと再会できるのだから」
*
―――彼は、ずっと桜の木の前で祈りを上げていました。
たとえ彼の唇が限界だとひび割れても、長い間組まれボロボロになった手から血が流れようと、ずっとずっと、陰陽師の男より教えられた言葉を唱えていました。
それは日が生まれ死んでも。月が見守り去ろうとも。絶えず祈りは紡がれるのです。
けれど、この桜を守るために山のあちこちを駆け回る日もあります。
桜の下に眠る宝があるという噂に惹かれ暴こうとする不届きもの、悪霊たちの糧となる血と憎悪を振り撒こうとする山賊。時には、隣の国を攻め落とそうと山を踏み荒らす軍を追い払ったこともあります。
もうそうすると人の血を浴びすぎて、彼は本当に鬼になり―――角を二つ得た彼の体は屈強になり、矢が幾つ貫いても、いくら斬られても倒れることのない体になりました。
そのため、人目を忍んで巻きつけていた頭巾をいつの頃からか脱いでしまい、誰に梳かれることもない髪は伸びて、寒風に攫われる姿は女の鬼のようでもありました。
―――そんな彼でしたが、人からすると善行と呼ばれるものをしているときもあります。
最初の頃は近寄るだけで石を投げられたりしましたが、今では「鬼神さまだあ」と素直に近寄ってくる幼子が多く、敬われることに慣れない彼は気まずい思いをしながら人を助けました。
また、春の間は子兎がぴょんと出てきて彼のそばについていてくれるので、苦しみの中にも僅かに安らぎのときがあったことで、この数百年の間、自分というものを保てたのかもしれません。
気づけばもう、訪ねてくる陰陽師も八人目になり、時代は貴族から武士へと流れを変え―――妹の顔すら思い出せないほど、時が経ちました。
それでも瞳を閉じれば色鮮やかに思い出せるのはもう、彼女だけなのです。
「香春……月が綺麗だ。あの、約束をした日と同じ、満月の……」
桜の幹に手を伸ばしますと、積もっていた雪が音を立てて落ち、吹雪は彼の鼻先を、頬を赤く染め上げます。
かつては彼が幹に触れただけで憎悪を向け暴れようとしていた悪霊たちもその数を減らし、今では幹に触れると人の手のひらのように温かく感じられます。
「……今日は…特に、寒い……」
彼は寒さから幹に頬を当て、白い息を吐きました。
もう手も組めないほど指先が硬くなってしまって、雪の積もる頭は娘に捧げる祈りの言葉に霞をかけます。それでも諦めずに息を吸いますと、彼は幹に体を預けたまま、震える声で祈りを上げました。
「―――――――」
自分が何をしているのか分からなくなりそうになりながらも、必死で唇を動かしている彼を見下ろしていた月が、徐々に傾いてついには桜の木の背後に足を運ばせますと、寒風が止んで温かな風が彼の頬に触れます。
「……なんだ…?」
気づけば体を預けていた幹もなく、慌てて桜へ振り返りますと―――月よりもなお眩く輝く桜の花弁が、人の輪郭を描きまして。
春の風が長い黒髪を悪戯に攫いますと、目を見開くことしかできない彼にその白い手を伸ばします。
「―――お会いしとうございました、千冬どの」
彼を抱きしめる華奢な体からは、あの愛しい桜の香りがしました。
驚いて固まっていた彼も、その香りのせいか久しぶりの涙が溢れて、上手く動かない手で娘の体を抱きしめます。
すると娘は「ごめんなさい、寒かったでしょう…」と彼のぼさぼさの、雪を含んだ髪を梳くように撫でます。それが懐かしくて、ほっと安心してしまって、彼は「…もう寒くない」と呟いて、息ができないほど娘の体に顔を埋めました。
娘は愛しそうに甘えてくる彼の体を撫でますと、現実なのだと安心した彼が体を起こして、娘にとびっきりの笑顔をみせます。
「―――おかえり、香春」
「…ただいま、です。千冬どの」
娘も幸せそうに微笑みますと、ゆっくり目を閉じて、彼のくちづけを受け入れます。
その姿は桜吹雪に隠れてしまい、吹雪が止んだ後には桜も約束が叶った夫婦も消えてしまい―――残ったのは、色鮮やかな唐衣と、使い古されてもなお美しい太刀だけでございました。
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