18.
「みて、千冬どの。雪でこの子を作ってみましたの」
娘が不器用な雪兎を指差すと、彼は「本物より痩せすぎ」と腹回りの雪を足して子兎に手を囓られていました。
あまりの噛みっぷりに彼が怒ると子兎も怒って、ぴょこぴょこ跳ねたかと思うと彼に体当たりをしてきまして、重いその一撃に尻餅を着いた彼は無言で娘に泣きつきました。
娘は「よしよし」と彼の頭を撫で、子兎には「もうちょっと手加減してあげないと」と注意します。
「………」
「そう不貞腐れないで。…ああ、もう手が真っ赤。お家に帰って温まりましょう」
「……うん」
娘の微笑みをじっと見上げた彼はゆっくり立ち上がると、子兎を片手で抱え、娘の雪のように冷たい手を引いて家に戻ります。
ぴしゃ、と彼が戸を閉めると、あちらこちらから腐肉が雪上に滴り落ちる亡者たちが顔を出し、じぃっと笑い声の聞こえる家を見つめておりました。
*
―――明日には、もうお別れ。
そう思うと彼は悲しくて息もできなくなるけれど、最後だからこそと笑っていました。二人と一匹で過ごすこの時間を、思う存分楽しみました。
雪の落ちる音を聞きながら二人でした囲碁はやっと娘に勝てるようになりましたし、娘の冷たい手が春の日差しのように温かくなるまで握りもしました。
何度も吐息を奪ってしまうと、娘の唇が火照って可愛らしく思いました。
その夜は何よりも満ち足りていたけれど、夏の夜よりも短く朝を迎え―――流星よりも早く日は傾き、厚い雲が月を隠していました。
「……千冬どの」
彼に膝枕をしていた娘は、寝たふりをしてやろうかと目論んでいた往生際の悪い彼の頬を撫で、囁くように言いました。
「もう、行きませんと」
「……うん」
「…ここで待っていますか?」
「一緒に行く」
重い体を起こすと、彼は念の為に太刀を持って行くことにしました。
娘は最後に髪を整え、衣服の乱れを直すと自分のことをじっと見上げる子兎の頭を撫でます。
そして立ち上がると、彼と過ごした家をもう一度見渡し―――最後に、俯きがちに戸の前に立つ彼を見つめると、静かに歩み寄って白い手を差し出しました。
「最後に、もう一度手を引いて欲しいのです」
そう言って微笑む娘を見つめると、彼は共に山のあちこちを―――季節を追うように、娘の手を引いて歩いた思い出が浮かんで、熱くなった目を一度伏せてからゆっくりと開きます。
そこには記憶の中と同じ、共に歩むことを楽しむ娘の笑みがあって、彼は泣くまいと拳を握りました。
「……手を」
「はい…」
小さくて華奢な手を握り、彼は凍える夜へと一歩踏み出します。
するり、するりと衣擦れの音を引き連れて娘も夜へ踏み出しますと、二人の後を追うように子兎が続いたのでした。
「―――千冬どの」
「…なんだ?」
「冬の夜というのも、なかなか美しいですね」
「……そうか」
「千冬どのはどうです?」
「おれは……春が好きだよ」
二人が行く道を、雲の隙間から覗く月が薄らと照らします。
その周囲では涎を垂らして近寄ろうとする亡者たちの姿がありましたが、冷え切った風に吹かれてすぐに闇の中に逃げ込み、そろりそろりと二人の後を追いました。
「……あのね、千冬どの」
「…なんだ」
「わたくし、山で暮らしたことは初めてで……ほんの些細なことですら、胸が躍りましたの」
「……」
「春の山はあんなにも美しくて、夏の山は賑やかで、秋の山は美味しくて。冬は……あなたから伝わる温かさが、とても愛おしく感じる」
「…」
「ひとの心って、不思議ですね。同じものを見ていても、全然違うように思えるのですもの。ここまで色鮮やかな世界を、わたくしは久しぶりに取り戻せました」
「……こは、」
「前を向いていて」
振り向こうとした彼を制止して、娘は深く息を吸います。
「……ありがとう、千冬どの……。わたくしを許してくれて…わたくしに、もう一度人の心を取り戻させてくれて……、わたくし、世界で一番幸せな女になれました」
「……ほんとうに?」
「ええ。とても―――しあ――わせ、……な………」
最後はかすれた―――涙に滲んだ声で。繋いだ手にも娘の震えが伝わって、彼は堪えるように空を仰ぎました。
「……おれも、誰よりも幸せになれたよ。香春―――おれに、会いに来てくれて…ありがとう」
そう言うと、娘はついに声を震わせて言葉にならない声を漏らしては彼の名前を小さく呼びました。
彼はそのたびに娘の手を強く握り、唇を真一文字に結んでは月を見上げます。
その道中は、まるで何かの刑に処せられているような気持ちでありました。
*
やっと桜の木の下に着くと、そこにはすでに陰陽師の男がいました。
そのそばには―――あの日、山賊に襲われ泣いていた子供もいて、忙しなく壇の準備をしています。
こちらに気付くとあわあわと慌てた後、ぺこぺこと頭を下げてきました。
「やあ、ちゃんと来たんだね」
子供の頭に手を置いた男は、いつものニコニコした(彼曰く薄気味悪い)顔で、彼と―――彼の手を繋いでいる娘を見ます。
面白そうに娘を見る男を堂々と正面から見つめた娘は、やがてにこりと笑って一歩前に出ました。
「初めまして。本日はわざわざ御足労頂きまして、ありがとうございます」
「いえいえ、これもお仕事ですから」
―――と、一見穏やかな会話をしているようで、お互いの視線は相手の腹を探るように鋭い光が瞳にありました。
彼は気まずくて「ごほんっ」とわざとらしく咳をすると、娘が青褪めた顔で彼の体調を気遣うので、彼は余計気まずさを覚えながら小声で大丈夫だと伝えます。
「……さて、そろそろ始めたいんだがね、いいかな?」
「……」
二人して黙ってしまうと、そっとお互いの顔を見―――娘が、いつもの柔らかな微笑みを浮かべるので、彼も頑張って笑みを浮かべますと、「……いいよ」と男に告げました。
男は軽い調子で頷くと、彼に「桜に近づかないように」と言って自分たちから離れさせます。
子供は桜の根を掘り、古い鏡を探し。子兎は彼の足元でそれを静かに見つめ―――娘は、小さな声で彼の名を呼びました。
「……千冬どの」
「なんだ、香春」
「……来世では…ちゃんとした夫婦に、なれるでしょうか」
「―――なれるよ」
離れそうになっていた指をしっかりと絡め、彼は告げました。
「生まれ変わったって、どんなに離れていてもおまえを探すよ。そしたらよくある恋人のように生きて、夫婦として長い時間を過ごそう」
「……ほんとう?ほんとうに、わたくしを見つけて下さるの?」
「…あの月に誓って、ほんとうだよ」
月明かりに照らされた娘の黒髪を撫でますと、娘は目尻に涙を浮かべながらも微笑みました。
「じゃあ、わたくしも……わたくしも探します。あの月に誓って……―――あなたよりも早く、見つけてみせます」
「いいや、おれの方が先だよ」
「あら、じゃあ勝負しましょう。わたくしが勝ったら、千冬どのを尻に敷いてしまいましょうか」
「ならおれは……うーん……考えておく」
二人が呑気に会話をしている間にも、男はぶつぶつと何かを唱えていて。
それに合わせて娘の姿も薄れてきたけれど、少しだけ「来世」というものに期待を持ったせいか、二人は最後まで笑うことができました。
「……この誓いを信じています、千冬どの。だから……『さよなら』ではなくて…『またあとで』と言いましょう」
「ああ―――また、あとで」
絡めていた指をゆっくりと離し、娘は真っ直ぐ前を向いて桜に近寄りました。
それはまるで、月に帰る姫君の後ろ姿のように思えて、彼の視界を滲ませてしまいます。
(香春―――)
思わず伸ばしかけた手。
夢見るように、娘のことしか考えていなかった彼は―――背後から、なにか衝撃が走って、腹の辺りが熱く―――痛く―――
「こ、は……」
異変に気づいて娘が振り返るのと、彼が血を吐いて倒れるのは、同時でした。
.