17.
あの桜は人を、死体を、魂を―――取り込んで、災厄を齎すもの。
どうしてそうなったかはともかく、穢された神木のわずかに残った神の御力に縋り、御鏡という補助をもって桜を封じ……その被害を最小限にとどめた。
けれどそこに嬲り殺しにされた娘も取り込まれ、その骸を寄り代とすることで悪霊たちはその力を増した―――そこまで、娘自身から聞いた説明に頷くと、陰陽師である男はにこやかに続けました。
「きみには説明しようがないんだが、あの娘は少し特殊でね。彼女自身も気づいてはいないのだろうが……特殊ゆえに、悪霊たちは娘にひきつけられ、彼女の復讐に喜々として力を貸していたんだ。
そして、復讐が終わってもなお晴れることのない娘の心の闇にしがみつき、自分たちの長として―――桜の木に棲む化け物として、度々災いを成した」
「……その時点で、なんとかしようとは思わなかったのかよ」
「まあ、普段は鏡の力で眠っているからね。暴れまわるのはその眠りを覚ました時だけだし、山から下りることもできない。被害が少ないうちなら許容範囲ってことで手を出さなかったのさ」
「………」
「おおっと、そう睨まないでおくれよ。……世というのは、何でもかんでも介入していいほど簡単なものではないのだから。ぼくたちだってあえて触れずにいることもある…」
珍しく苦く笑うも、男はすぐさま普段の調子で口を開きます。
「きみがあの娘と和解し、娘から復讐心が消え去ってしまったあの時、本当ならそのまま成仏できただろうに―――きみのそばに居たいがために彼女はこの世に留まってしまった。……実はこれが悪くてね」
「…どういうことだ」
「悪霊たちは娘の怒りを、憎悪を愛し、それゆえに自分たちの統率を許したんだ。
……なのにひとりだけ救われて、幸せになるなんて―――許せないだろう?」
「そんな…!」
「まあ、悪霊たちの言い分は最もでもある。彼女は彼らから力を貸してもらっていたのだから、その分の義務も、支払わなければならないものもある」
「だが…!それで香春を消せば―――」
「悪霊たちの中で彼女だけが分けられているのは、限られた環境の中で効率よく命を刈り取り力を蓄えるために必要だっただけだ。だが、邪魔をするようになれば彼女という個人はいらない。それに、もう悪霊どもは十分力を得た。
なによりきみたち夫婦のことを悪霊どもはかなり嫉妬していてね。彼女の裏切りは悪霊どもにとって燃料のように怒りという火を轟々と燃やしている。
今の彼らの力押しなら封印も破けるだろう―――彼らの『殺意』はそれだけ濃いものになっているから」
「……っ、…今…、今、あいつは…」
「あの鏡ときみの祈りによりなんとか守られている。だから奴らはきみを狙い、彼女が必死になって止めようとしている……が、彼女自身の干渉力が底を付いているから、今日のように襲われたのさ」
彼はとりあえず安堵すると、止まることなく葉を食み続ける子兎を撫でました。
すると男は面白そうに眺めるので、彼は「なんだよ」という表情で男を睨みつけます。
「その兎は、木霊だね。あの悪霊どもを封じる手伝いをして疲れたせいで子兎の姿をとるしかなかったんだろう」
「えっ…そ、そんなすごいものだったのか!?」
「ああ……たぶん、彼女が悪霊を抑える意思を感じて、息抜きに出てきてしまったんだろうね。大事にするといい」
とは言いますが、彼の目の前の子兎は食べることに夢中のただの食いしん坊兎にしか見えず、彼は居住まいを正すべきか悩んでしまいました。
けれど男が「ごほん」とわざとらしく咳をして、彼はハッとして男を睨みつけました。
「さて、説明はこれで終わり―――本題に入ろう。
実は、最近になって悪霊どもも活発になりすぎてね、山の麓にまで被害が出始めている。
まだ手がつけられるうちに、もう一度封印しなければならない―――だが、」
「…だが?」
「少し手間だが、今の彼女ならひとりだけ成仏させることができる。
これが成功すれば、あの悪霊どもの脅威も少しは減るし―――こちらとしてはそのつもりなのだけど……いいかい?」
「いいかい、って……」
「……このままでは、彼女は悪霊どもに喰われて消える。残るのは体を一つずつ引き千切るような痛みと恐怖だけの、救われない終わりしか迎えられない。彼女だけでも間に合ううちに、解放してあげなくては」
彼の口は、何の音も出せず。何を言おうとしたのかもわからぬ唇は、ぱくぱくと動くと血が出るほどに噛み締められました。
(…香春を解放する―――)
この世から―――彼から。みっともなく娘に縋りつく手を離し、天に帰さなければならない……。
自分を救ってはくれなかった男だけれど、噂では確かな腕を持つ陰陽師と聞いています。きっと迷うことなく娘を送り届けてくれるでしょう。
ならば―――彼がすることは……愛する娘にしてやるべきことは……。
「……お、れは……」
―――離れたくない。
母親を亡くし、養父を亡くし、妹を亡くし―――それでもやっと生きていける……生きていたいと思えるのは、娘が彼と共にいてくれたから。彼を愛してくれたから、なのです。
あの微笑みを見ることができず、娘に愛されることもない日々を送る自分など、死人のようなもの。何の楽しみも喜びもない、苦しみだけがある人生―――そんなこと、とても耐えられない!
苦しげに息を吐き、愚かで弱い自分に絶望する彼を見つめ、男は珍しく笑わずに静かに告げました。
「……次の満月の日に、儀式を始める予定だ。それまでによく考えておいて欲しい。……間違っても、儀式の最中で邪魔をしないように」
そう言うと、男は彼の返事を待たずに亡霊のように消えてしまいました。
*
虚ろな頭でいつの間にか家に帰ってきた彼は、機械的に子兎に食事を与えますと黙って囲炉裏の火を見つめていました。
その脳裏には、かつての記憶が流れては消えて行き―――父に囲われて暮らす母の、時折浮かべた悔やむような顔や、少しでも長く生きて欲しくて家に閉じ込めていた妹の、悲しげに窓の向こうの外を見つめる姿。帰ってくるのを待っていると言った時の嬉しそうな娘の表情を思い出しては、考えが鈍ってふりだしに戻るのです。
「………」
ぱきん、と薪が崩れると、彼は静かに立ち上がり太刀と弓を手にしました。
それを子兎は不思議そうに見つめていて、彼はふわふわの頭を撫でてやると夜の闇の中に足を踏み出します。
時折聞こえる笑い声、腐った手を払い、弓の弦を打ち鳴らしながら桜並木の前まで辿り着くと、そこには薄ら透けた姿の娘がおりました。
『……千冬どの。ここに来てはなりません。お帰りなさい』
「香春…」
目の前にいるのに、娘の声は彼と隔てられた場所から届くようでした。
月に照らされたその姿は邪気も何もなく、凛とした澄んだ空気がある―――紛れもなく娘なのだと確信した彼は、弓を下ろしてもう一度彼女の名を呼びます。
「香春……その、知り合いの陰陽師から……もう鏡が限界だと…聞いた」
『……』
「このままだと、おまえが悪霊どもに喰われると……本当なのか?」
『……』
「香春…!」
『……、…はい』
娘は、悲しげな瞳で彼を見つめました。
『ごめんなさい、千冬どの。あなたとの約束……守れそうになくて……。でもわたくしは、この魂を千々に食い千切られようと、あなたのことをお守りします。だから…』
「いやだ」
『…千冬どの…』
「いやだ……香春が……香春がいないと……おれは生きていけない…香春が居たから、おれは生きる喜びをもう一度手に入れたのに……」
耐え切れずにぼろぼろと涙を流すと、娘は冷えた指先でその涙を掬います。
彼はその手を、捕まえるように握ると、震える声で「…でも、」と続けました。
「でも…おれは、もうおまえに苦しい思いをさせたくない……おまえが散々苦しめられて消えるくらいなら、別れたほうがいい。―――分かってるんだ…わかってる……」
けれど決められなくて、彼は逃げるように娘のもとまで走り。情けない姿を見せている―――彼は心底自分に呆れながら、乱暴に涙をぬぐいました。
「…どうしてそばにいてほしいひとは皆消えていくんだろう。どうしておればかり取り残されるんだろう……そう思って、おまえに縋りついて泣きたくなるんだ。おまえにひどい我が儘を言いそうになるんだ……ごめん、ごめん。香春……」
『…千冬どの、そう謝らないで。わたくしは、千冬どのにそこまで求められて嬉しい…とても嬉しいの。
だから泣かないで。優しいあなたを、わたくしは恨まないとあの日誓いましたもの。あなたがどんな選択をしても、わたくしは笑って受け入れられます』
泣く我が子をあやすように抱きしめられて、彼はぎゅっと―――幼い頃、母にそうしたように、抱きついて涙を零しました。
優しく髪を撫でてくれる手は彼の悲しみを癒すようで、彼はしばらく止むことなく零していた大粒の涙を静かに拭うと、今度は自分が抱きしめるように娘を腕の中に閉じ込めました。
「……そんな風に言われたら、おれも……決めるよ。おれも、笑って……おまえを見送るよ。おまえを、ずっと……」
これ以上泣くまいと息を吸うと、娘からふわりと桜の香りがして。
―――ああ、きっと、娘のいない春にも、この香りは彼を包むのだろうな―――と思うと、彼は最後に小さな雫を零して、笑いました。
「……ずっと……おまえが天に帰っても、ずっと―――おまえを愛している。
一年間喪に服したら、すぐ会いにいくから……その時、もう一度だけ会いに来ておくれ。そしたら耐えられるから」
『………。……しかたのないひとですね』
娘はふう、と息を吐きますと、彼の背に腕を回して温かいこの体温を、匂いを忘れぬように、強く抱きしめます。
「もうひとつ我が儘、言ってもいい?」
『ふふっ…いいですよ?』
「…せめて月が満ちるまで……おれと暮らそう」
返事の代わりに、娘は涙の味がする唇に可愛らしいくちづけをしました。
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