16.
お別れの日―――娘は再会した日と同じく、色鮮やかな着物を幾枚も重ねた姿で彼の家を出ました。
その美しい顔には寂しさと不安がありまして、見送りに付いてきた彼に真剣な表情で告げます。
「…いいですか、千冬どの。わたくしが抑えているとはいえ、あの桜の木に近寄ってはなりません。……たとえわたくしの声があなたを呼んでも、絶対に呼ばれた方へ行ってはなりませんよ」
「わかった」
「わたくしがいなくてもちゃんとお食事をして、ちゃんと休むのですよ」
「…ああ」
「温かくして過ごしてくださいね。千冬どのが倒れられても、鍋では看病できないのですから」
「……うん」
「約束ですよ?絶対に絶対に、変なものに付いていってはなりませんからね。しっかり食べてしっかり寝て―――」
「分かったから」
念を押すように続ける娘を遮って、彼は娘の冷えた手を握ります。
「大丈夫、おまえがいなくても、ちゃんとする。なんせ今年は鍋が居るからな。なんとか冬を越すさ」
「……約束しましたから、ね?」
じぃ、と彼を見上げる娘に微笑むと、彼はしばしの別れを前にその髪を撫でました。
「ああ。おれはちゃんと約束を守るよ。―――だから、安心しておやすみ」
「……はい」
それでも不安が抜けないようでしたが、娘は小さく頷きますと彼からゆっくりと自分の手を引き抜きます。
そして俯きがちに背を向けると、遅い歩みで彼から離れ―――けれどすぐに立ち止まっては何度か振り向き、悲しそうに視線を戻して歩き始めますので、彼は優しい声で娘の名を呼びました。
「香春」
「は…はいっ」
「……目が覚めたら、美味しいものをたくさん食べさせてやる。だから…楽しみにしてろよ?」
「……はいっ!」
娘は笑うと、少しの間自分を見つめる彼の姿を見つめ、今度こそ振り返ることなく歩き出しました。
すると娘から零れるように桜の花弁が舞い、その姿も透けて輪郭も見えなくなり―――冷たい風が花弁を吹き散らしても、彼はずっと立ち竦んだままで。
彼の背後で二人を見守っていた子兎が突いてやっと、彼は静かな我が家に入ったのでした。
*
娘が眠りについても、彼は去年のように死人のような暮らしを送ることはなく、約束通りちゃんと食事をし、娘と妹に祈りを上げてからちゃんと眠りにつきました。
というのも彼が約束を守ることができたのは娘が託した子兎の存在のおかげで、子兎は娘に似てよく食べるのです。なので冬が近づく山の中で美味そうな葉をたくさん探さなければならず、気付くと彼はくたくたになって眠っていたのでした。
それ以外にも自分の食料を狩りに出かけたり、糸を紡いだりして日を過ごし、目の前の子兎が美味しそうに見えてきた頃には食事をし―――隣で一心不乱に葉を食べる子兎に、ときどき笑ってしまいながら、彼は寂しさを感じつつも穏やかに暮らせたのです。
けれど―――……
「……千冬どの、いらっしゃいますか……千冬どの…」
戸の向こうから、娘のか細い声を聞くまでは、ですが。
「………っ」
娘があの日、念を押さなくても―――彼はきっと、この戸を開けることはなかったでしょう。
同じ愛しい声だというのに、彼を招くその声には薄らと澱んだ、暗い感情が滲んでおりました。恐れを感じさせるその声は何度も何度も彼の名を呼ぶと、終いにはとんとんとん、と戸を叩くのです。
やがて叩くその手をが潰れるような、肉がぶつかって落ちる音が聞こえ始めると娘の声はげらげらと汚く笑い、どこかへと消え去る―――そんなことが、数日おきに……だんだんと日を短くして、起こるのでした。
「……冷えるな…」
―――雪が肩に積り、鼻先も赤く染まる頃。
今まで彼が家に帰ってからやって来ていた悪霊は、ついに狩りをする彼の近くに忍び寄るようになりました。
最初は木の陰に隠れたり、茂みから覗いていたり―――…一瞬だけ見えたその姿は娘どころか老若男女様々な腐乱死体で、彼が悲鳴を飲み込んで刃を向け、勢い任せに吠えると慌てて逃げ出していました。
―――けれど今日、悪霊は彼を見るだけではなく、口を大きく裂けて走り出し、彼に襲いかからんとその折れ曲がった手を広げます―――。
「うわあああああああッ!?」
走る腐乱死体に流石に腰を抜かし、手持ちの武器の存在も忘れてしまった彼ですが―――近くで草を食んでいた子兎が迎え撃つように悪霊に体当たりをしますと、悪霊は透明な壁にでもぶつかったように激しく肉片を飛ばし、後方へと吹っ飛びました。
「―――なっ」
鼻息荒く悪霊を見据える子兎に驚いて口を開けてしまった彼ですが、悪霊が醜く高い鳴き声を放つのにハッとして、そばに落ちていた弓を慌てて拾うとその弦を力強く引きました。
―――すると悪霊は「ギィッ」と短く鳴いて、慌てて距離をとります。
何度か再び近づこうとしますが彼に弦を鳴らされ、子兎が威嚇をすると―――悔しげに鳴き喚き、どこかへと逃げ帰っていきました。
しばらくして警戒を解いた彼は弓を置くと、なんとなく誇らしげな子兎を抱き上げて溜息を吐きます。
「おれって……変なのに好かれるなあ…」
そう呟くと、子兎は彼の手に噛み付きました。
あまりの痛みに子兎を落とし、涙目で噛み付かれた箇所を見ていると、背後から若い男の笑い声が聞こえ―――彼はすぐさま振り向いて太刀を抜くと、声の主を睨みつけます。
「……!」
彼を見下ろし笑っていたのは―――汚れ一つ無い狩衣姿の、涼しげな目元の美丈夫でした。
初対面の人間ならばその独特の雰囲気に呑まれてしまうでしょうが、狩衣の男に見覚えのある彼はすぐさま睨みつけます。
「貴様……篠崎!なぜここにいる!?」
「いやあ、ちょいとばっかり、知り合いに頼まれてね」
とても楽しそうに笑う男は、かつて彼の父親が連れてきた陰陽師でありました。
仏頂面の父のそばで何が楽しいのかにこにこと笑っていた男は彼を呪う存在を視、「このままでは危険」と彼と彼の妹と母をどこかへ連れて行こうとしていましたが、父の反対により結局何もせずに屋敷から立ち去った男です。
せめて何かしらの救いを欲しがった自分たちを見捨てた―――そう幼い彼らを絶望させた男を、彼は心底嫌っていました。
「おまえが、頼まれごと……?この山にか」
「そ。別に君の父君の命ではないよ」
嫌ってはいましたが、彼はこの男が嘘を吐かない…かと言って全てを話してくれるほど正直者でもないことを知っていましたので、太刀の刃先を少しだけ下げました。
「実はね、この山に―――あの桜に封じられているものを、もう一度封印し直そうと思ってね」
「……は?」
男曰く―――本来桜の下に埋められた鏡と、その封印の維持は男の知り合いの一族が担っていたそうです。
けれどその知り合いは歳をとりすぎて山を登れず、また知り合いの後継者は修行不足ゆえに失敗してしまう可能性が高く。……結局、男に頼んで都から来てもらったのだとか。
「一度探ってみたら驚いたよ。まさかきみが、きみの呪いの元と楽しく暮らしているだなんてね。ずいぶんと大切にしていたようだし……」
「……あいつはもう、呪いの元でも悪霊でもない。おれの妻だ。大切にしてなにが悪い?」
「そういうところ、父君と似ているねえ」
「……ッ」
思わず怒鳴りそうになって、彼は歯を食いしばってそっぽを向きました。
そうして深呼吸をしながら気持ちを落ち着かせていると、「いやあしかし、」と男が笑います。
「だいぶ酷いことになっているね。このままでは彼女も悪霊に飲み込まれかねない」
「―――え」
「もうあの封印もガタがきてるんだ。今の彼女にできるのは、君の周囲を守ることぐらいだろう。……それも、もうだいぶ難しいことのようだが」
男の呟きに、彼はすぐさま立ち上がると男の胸元を掴んで怒鳴ります。
「どういうことだ。封印が……いや、それよりもだ、香春は…香春は無事じゃないのか!?」
「今は無事だよ」
男は笑って彼の手を払うと、桜の木がある方へ目を向けました。
「今は、ね」
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