13.
娘が大好きな秋になりますと、二人は手をつないで山をあっちへこっちへと駆け回りました。
「千冬どの!茸を見つけましたっ」
「すごいな、これで十一個目だ」
「ほらほらこちらもっ、すごく大きいでしょう?」
「すごいなあ。これで十二個目だ………毒茸」
「あっ、何をするんですっ」
彼は娘の籠をひっくり返して毒茸を捨ててしまいますと、慌てて拾おうとする娘の手を引き栗の木の下へ向かいます。
慣れない手つきで栗を探す娘のそばでこっそり食べられる茸を籠に入れた彼は、人の気配を感じるとまた娘の手を引いてその場を離れます。次に探すのは木の実で、娘は幸せそうな顔でつまみ食いをしつつ一生懸命摘んでいました。
彼はその間に兎を射止めたり鳥を探したりしまして、丁度いい数を仕留めると娘の方へ振り向きます。
すると娘は一人で木の実を食べ尽くしそうになっていて、彼は無言で娘の手を引いて歩き出しました。
「もっとたべたいです」
「……それ以上食べたら、熊が泣くぞ」
「くまもすきです」
「………美味しそうに一人で喰ってたもんな…」
「あ、あああれはっ、わ、分けてあげたのに、あなたが食べなかったから…っ」
「生肉は食えんよ……」
ぷう、と、娘の頬が膨れました。
*
そんな戯れ合いをしながらも、彼は合間合間に忍ぶように桜の木に近寄ると、誰かに荒らされないように監視します。
そのそばにはいつも娘がいて、「危ないから帰れ」と言っても「千冬どのの方が危ないです。一人でいてはいけません」と言って帰りません。
彼はそれが離れたくがないがゆえの我が儘なのかと思っていたのですが―――ある日、日差しの暖かさに負けて娘が眠ってしまうと、彼は布団をかけてから一人で桜を見に行きました。
その日桜並木を通ったのはただの旅人で、この様子だと今日は何もないかな、などと呑気に考えていると……ふと、嫌な臭いがして。
それが上からだと気付いた彼が見上げますと―――そこには、首がおかしな方向に曲がった子供が、眼球を忙しなく回して桜の枝にぶら下がっています。
その手足はおかしいくらい長く、猿のように器用に枝に掴まっていました。
「……あ、」
彼の声に、子供の目はぴたっと動きを止め―――すぐ下にいる彼をじいっと見ると、小さかった口を耳元まで裂いて、にやあと笑いました。
本能的に逃げ出した彼の背に長い手を伸ばす子供…いえ、化け物の手はところどころ打撲の跡や蛆虫が這っていてひどい臭いがします。
思わず眉を寄せた彼の顔に、化け物が爪を立てようとした時でした。
「ぎぃ――――ッ!!!」
甲高い悲鳴を残して、化け物は木々の作る影の中に逃げて行きます。
何があったのか分からなかった彼は恐る恐る振り返ると―――そこには、青白い顔で弓を持つ中年の男がいました。
「あんた…女郎花の、」
「…この面を見て花の名前を出すか、普通?」
大柄で老いを感じさせない逞しい体に、顔にはあちこち傷跡が残った無精ひげの男は、彼と違って数人の仲間と共に山の恵みを糧に生活しています。
息子が彼と歳が近いせいか会うたびに気にかけてくれていて、誰とも連まない彼ですが無精ひげの男たちとは少しだけ交流を持っていました。
けれど名前を聞いたことがない(皆「親父」だの「お頭」だのと呼ぶので)彼は、無精ひげの男がよく女郎花の花を家に飾っているのを覚えていたせいか、そう呼んでしまいました。
「まあいい。……それよりもおまえ、こんなところで何をしてんだ。……妹の墓参りか?」
少々言い辛そうに問う無精ひげの男に、彼は少し悩んでから頷きます。
すると無精ひげの男は化け物が逃げていった先を見つめて言いました。
「…実はよォ、ここ最近、あんな変なもんがうろちょろしてんだよ。前はこの桜を拝んで下手なことしなけりゃ何もされなかったが、今はそうじゃねえ。
最初はここら辺だけでしか襲われなかったが、動き回る範囲がだいぶでかくなりやがった」
「え…」
「いつかおまえの家にも来るかもしれねえ。そんときゃ躊躇わずに矢を射るなり斬るなりしろ。そうすりゃ大抵のやつはビビって逃げてくからな」
そう言うと、無精ひげの男は彼の頭を乱暴に撫でます。
…正直これをされると頭巾が取れそうになって嫌なのですが、布越しに伝わる温かくて硬い手のひらは養父を思い出してしまうので振り払うことはできませんでした。
「まあ、一人でダメそうなら俺たちンとこに来いや。いつでも匿ってやるからよ」
「……」
「遠慮すんな。……もうすでに、あの化け物に喰われてる奴はいるんだからな」
喰われたらおしまいだぞ、と彼の肩を叩いて、無精ひげの男は去っていきました。
―――逃げるように桜から立ち去り、我が家が見えてくると同時に、髪を激しく乱してこちらに駆け寄ってくる娘の姿が見えてきました。
すると同時に心がホッとして、無性に娘を抱きしめたくて腕を広げます。
「香は―――」
ごっ、と。
体当たりをされた彼は吹っ飛ばされ、地面に転がされ―――呻きながら立ち上がると、息を乱した娘が真っ赤な顔で「千冬どのっ!!」と声を荒らげました。
「わたくし、『一人でいてはいけない』と確かに何度も言いましたよね!?なのに何故一人であそこに行かれたのです!!」
「…お、おまえが…寝てて……」
「起こしなさい!!」
「はいっ」
「あそこはもう、誰彼かまわず襲われるようなところなのですよ!今まではわたくしがおそばに居たから何もなかったのであって、千冬どの一人で行ったら悪霊たちのおやつにされてしまうんですからっ」
「ご、ごめん……」
素直に謝ると、娘は「もう一人で行ってはいけませんよ!約束ですよ!」と念を押し、彼は「分かった、絶対一人で行かない…」と言って許してもらいました。
娘は体を起こした彼の土埃などを叩いて払うと、「……ご無事で何よりです…」と震える声で囁きます。
「驚いたのですよ。寝惚けてたらあなたが襲われているのに気づいて……」
「……心配かけて、悪かったよ……」
「本当ですっ。……あなたに何かあれば、わたくしはまた悪鬼と化して暴れまわりますからね」
「分かった……って、」
耐え切れずにぎゅっと彼を強く抱きしめた娘は、小さく「…温かい」と呟きました。
「……なあ、おまえは何ともないか?」
「……胸が張り裂けそうです」
「あ、いや、そうじゃなくて……最近、あの桜に閉じ込められた悪霊たちが、あの桜から離れて暴れてるそうだから……おまえにも、何か影響が出てるんじゃないかと」
「………」
娘は、ゆっくりと彼から離れて視線を合わせます。
「いいえ…その現象は、わたくしが原因ですから」
「おまえが?」
不思議そうに娘を見つめる彼の手を両手で包みながら、娘は躊躇いがちに口を開きました。
「……わたくしは……彼らにとって器なのです。憎悪を、怨嗟を注ぎ込み、封じられた自分たちの代わりに厄災を引き起こす。そうすることで一時でも楽になろうとして、更なる深みに落ちていく―――」
「…なぜ、おまえが?」
「元々は、最後に悪霊となったものがその役を担っていたのですが…どうにも、この身が桜に喰われずに今もなお残っているせいでしょうか。寄り代があることでわたくしは彼らの代行として選ばれたのでしょう」
「そんな……」
つまり―――娘の遺骨は、あの悪霊たちの持ち物として好きなように扱われていたということなのでしょうか。
もしそうなら……と、彼は先ほどあった化け物を斬り捨ててやりたくなりました。
「ですが、わたくしは彼らに良いように操られていても、時折自分というのを持つことができました。それはあの御鏡のお陰だったのですが―――今では、千冬どののおかげで彼らの干渉を絶つことができているのです」
「え―――」
娘は少し、照れくさそうな顔をします。
「わたくしの穢れは、あなたが祓ってくれました。今のわたくしの心には憎悪や怨嗟などでなく、もっと素敵な―――きらきらした感情ばかりが満ちているから…」
「香春…っ」
娘が愛しくてたまらなくなって、今度は彼が娘を抱きしめます。
強く抱きしめる腕に思わず微笑んだ娘ですが、すぐに暗い表情になりました。
「でも…だからこそ、彼らは今、暴れているのです」
「香春がいないからか?」
「ええ…それに先日、二人分も桜が食べてしまいましたから…御鏡の力が弱まってきたのもあり、少しずつ桜の根から溢れてきたのでしょう」
そして、溢れたものが人間を喰って力を得て、さらに悪霊が逃げ出す―――そういうことなのだろうかと、彼は首を傾げました。
「……けれど、今ならまだ…彼らはわたくしたちのもとに来ることは出来ません。今のわたくしは、彼らが忌むべき力に満ちていますもの」
「…大丈夫なのか?」
「ええ。今のわたくしには、あの御鏡も力を貸してくれていますから」
そう力強く笑う娘の髪を、彼は心配そうに撫でます。
娘は撫でる手と、抱きしめる体の体温と……確かに聞こえる心音が愛おしくて、そっと目を閉じました。
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