12.
―――彼と娘は、幸せに暮らしました。
天気の良い日は決まって、彼は日差しの下で娘の膝で甘えたり、互の背を預けて手仕事をしたり、娘の艶やかな黒髪をいじったり。
天気の悪い日は跳ねてしまう彼の髪を、娘が丁寧に梳いて直してあげたり。適当に拾った石やら木材を用いて作った囲碁で遊んだり―――退屈することなく、毎日は色鮮やかに輝いていたのです。
そうして心から笑えるようになった娘は、夏の終わりを感じながら彼の手を引き―――あの、妖しい桜の木へと向かいます。
二人の手には夏の花があって、今からそれを彼の妹に捧げるのです。
その道中、娘はたいへん上機嫌でして、耳の上に飾られた花を大事そうに撫でながら、照れ隠しに彼に話しかけます。
「―――千冬どの、もうすぐ秋になりますね」
「ああ……おまえの大好きな季節がくるな?」
「むっ……わ、わたくしが食いしん坊であることをからかわないと、先日お約束してくれたじゃありませんか!」
「そうだったかな」
「そうですとも!わ、わたくしは食いしん坊じゃないって、そう仰ってくれたじゃあありませんかっ」
「そうだったかなー」
「う、ぅぅぅぅ……」
「そうだったかもしれないな」
「!」
「……でも、美味しそうに頬張る香春がとても可愛かったから、やっぱり何を話していたのか思い出せないよ」
「え!?」
顔を真っ赤にしてあたふたする娘が想像以上に愛らしくて、彼は堪えきれずに笑い出してしまいます。
するとからかわれたことに気づいた娘が怒って、彼の胸をぼすぼすと叩くも彼はますます笑ってしまうのでした。
娘は彼があまりにも意地悪なので拗ねてしまいましたが―――彼の袖を握って離さないまま、桜の木の下に辿り着きました。
「………」
娘はおずおずと妹の墓標に花を添えますと、ぎゅっと手を握って祈ります。
彼もまた妹の眠る根元を撫で、そっと花を添えると穏やかな気持ちで祈りを捧げました。
夏の終わりとはいえ、冷え切った風が通る桜の木の下でしばらくそうしていますと、彼は祈りをやめて娘の肩を叩きます。
娘もそれで祈りをやめて彼を見上げますと、彼は「冷えるなあ」と笑って娘を立ち上がらせました。
「ここは、真夏でも冷えているよなあ。それなのに毎年毎年よくもまああんなに見事に咲くものだ」
「……ここは……魂が囚われている場所ですから……わたくしの他にも、何人も…」
「…そういえば、あの時も言っていたな。『元々この木にいた人たち』って……あれ、どういうことなんだ?」
「あら、千冬どのはご存知でないの?ここは…口減らしで捨てられた者が、皆そろってこの桜の下で息絶え山のように積み重なっていましたのよ」
「……えっ」
「けれど、山のように積み重なってもその体は花弁と共に消えてしまう―――桜に喰われてしまう。今、無事に体が残っているのはわたくしと、妹君だけですわ」
娘はそう言うと、普通のものよりも黒い桜の葉を見上げます。
「……この桜の木は、何なんだ」
「分かりません……わたくしも、ここで亡くなってしばらくは、恨みと怒りしか持たぬ悪霊でしたから……けれど年を経るうちに、時折心を取り戻したりするだけでした……でも、遠い昔にお祖父様が教えてくれたのですけど、かつてこの山の桜には神がいたのだと……その証が、この桜だと……」
「神木だと?」
「おそらく…、けれど神様は長いこと戻らず、積み上げられた死体や殺人が幾度も行われるせいで桜は穢され、鬼が棲むようになった…と言われております」
不思議そうに桜を見上げる彼は何とも言えぬ気持ちで自分の手を見つめますと、娘がそっとその手のひらに自分の手を重ねました。
彼は深く考えまいと目を瞑ると、自分をじっと見つめている娘を見下ろします。娘は躊躇いがちにもう片方の手を桜の根元に差し出しますと、恐れるように囁きました。
「わたくしは、鬼を見たことがありません……鬼であったことは、ありますが……。
ですが、ここが悪霊の溜まり場であることは確かです。だからこそ、この桜は異質で、吹き抜ける風は何よりも冷たい。……そしてこの場で血が流れると、悪霊たちはさらに血を求めようとする―――そんな恐ろしい場所から人々を守るために、この桜の下には御鏡が納められています」
「鏡…を?」
「力ある山伏様が置かれたものです。これがあるから、わたくしもわたくしでいることが出来るのですよ」
―――とはいえ、娘は何よりも恐ろしいとばかりに鏡が埋められた場所を見つめます。
彼はそんな娘を抱き寄せてやると、娘は安堵したように息を吐きまして、彼は娘の繊細な髪を優しく撫でてやりました。
嬉しそうな娘を見ていると彼も嬉しくなって―――笑おうとした彼は、ふとあることを思い出しました。
「……あれ。あれって、確か……」
「千冬どの?」
「………まずいな。今の人間―――いや、山賊たちは、この桜に埋められているのは『宝』だと聞いている。おまえの存在に怯えて下手に出ている奴らはともかく、この間の奴らのような者が来たら……」
「…だ、大丈夫、ですっ!この桜の木で悪事を働くときはわたくしにも分かりますもの!そう、この前のようにわたくし自身に危害を加えられなければ……」
最後は頼りない声になってしまった娘の頭を強く撫でますと、彼はしっかりした声で告げました。
「定期的に様子を見に行くよ。何かあればおれが追い出しに行く。……ちょっと流血沙汰になっても、許してくれよ?」
「……千冬どのに怪我がなければ、わたくしも怒りません」
そう言って、娘は彼の胸に頭を預けました。
.