10.
夏の夜でした。
暑い夜でしたが、娘が「星の嫁入りが見とうございます」とねだるので、彼は念のためにと太刀を手に娘の手を引きます。
そして家のそばにある腰掛けに娘を座らせますと、二人はそろって夜空を見上げました。
「―――あ、見つけましたわ」
「え、どこ?」
「あちらです…あら、左にも」
「左……ああ、あれか…」
夜空に星が流れるのを探すも、すぐに目が疲れて暗い地面に視線を向けました。
その間にも娘は星をなぞるように指を動かしたりしていて、なんだか幼げな娘の動作に気が緩むのを感じます。
「都よりも、ここは星が近く思えますね」
「そうか?…そうかもな…」
「千冬どのは、星は好きですか?」
「ん…うーん、……いやな、おれは星を見て楽しんだことはないんだ」
「あらもったいない」
娘はくすくす笑いますと、「…じゃあ、」と意味深な表情で彼を見つめました。
「…今夜は、如何でしたか?」
そう問う娘の瞳が艶やかに見えて、彼は目を離せぬままに答えます。
「……やはり綺麗だと、思う…」
無意識に答えたそれは娘の問いへのものではなく、娘もその事実に気付いていましたが気にせず、ただ楽しそうに笑って、「まあ嬉しい」と言って口元を袖で隠しました。
その明らかに面白がる素振りが気に食わないものの、上機嫌なのを隠しきれないところが可愛らしい―――などとも思ってしまって、彼はどうしようもない感情を誤魔化すように咳き込むと話題を変えてみます。
「―――そんなに光るものが好きなら、来年は蛍でも探しに行こうか」
「蛍…懐かしいですわ。よくお父様が捕まえて籠の中に入れてくれましたの」
「籠か…そういえば、母上も父上から贈られていたな」
「まあ。……千冬どのも、都育ちなのですか?」
「―――…ああ」
思い出すように星空を見上げて、彼は初めて他人に自分の身の上を全て話します―――。
「……おれの母は都の外れの、ずいぶんと古くて小さい屋敷に住んでいてな。
慎ましい暮らしをしていた母を覗き見た男の噂が―――ぼろ屋敷に住むには相応しくないほどの美女がいると、宮中で噂になってな。父はそんな噂が気になってしょうがない友人に付き合って母の屋敷を覗いたんだ」
「まあ」
「屋敷を覗いて……母に惹かれた父は、毎日母に和歌を送ったり訪ねたりしてな。母も父に惹かれていたものだから、二人は結ばれ母は父の妻になった。……二番目の」
「……あら」
「父は母を何よりも誰よりも愛し、母に色んな物を贈っていたよ。子供の目から見ても、父は母を正妻よりも優遇していた。
そうしてしばらくすると母はおれを身篭ったのだが―――おれも千春も、この通りおかしい髪と目の色を宿して生まれた。陰陽師曰く、『女の呪い』と言っていたらしいからな……母の特別扱いを妬んだ正妻のせいかもしれん」
「…………」
「おれたちが生まれてから父の周囲は良くないことが起こるようになり、陰陽師の勧めもあっておれたちは殺されそうになったんだが……母が泣いて懇願するものだから、母に甘い父はおれたちを手にかけなかった。その代わり、おれたちを抱くことも頭を撫でることもなかったが」
そういう声に、寂しさはありませんでした。
ただ、どこまでも淡々とした、感情のなさが目立ちます。
「それでもおれたちは楽しく暮らしたよ。父の分、母はおれたちを深く愛してくれたから……屋敷から出ることは許されなかったが、それでも幸せだったさ…」
「……そう、ですか」
「ああ。―――だけど母が病で亡くなると、おれたちは正妻の子たちに出て行けと石を投げられたよ。元々貧乏な暮らしをしていた母は、父に頼って生きていたからな……奴らは俺たちにこれ以上一銭も出したくないと言って追い出し、父も何も言わなかった。……ああでも、父はしばらく食いつなげるだけの金とこの太刀を家人に託してくれたよ。おれはそれを持って、泣きじゃくる千春を連れて、歩いて歩いて―――この山に辿り着いたんだ」
「…よく、ご無事でしたね」
「父は、おれに何よりも武芸に励むように言っていたからな。……きっと、最初からこうする予定だったのだろうよ。そうでなくともおれは、まともな職に就けぬ姿だからな」
娘の表情の硬さに気づいて、彼はそっと娘の小さな手を握りました。
ここまで長々と話して疲れはしましたが、彼の口は薄らと笑みを浮かべます。
「この山に入った当初は大変だった。なんせ山賊がわんさかいてな……妹を守りきることはできたが、おれは少々傷を負いすぎて、この辺りで倒れてしまったんだ。―――そうして妹が何度もおれの名を呼んでいる時に、この家の本来の持ち主に出会ったんだよ」
「……その方も、山賊…?」
「そうだ。熊みたいな大男でな……てっきり殺されて荷物も何もかも剥ぎ取られるかと思ったんだが、そのひとはおれたちを助けてくれた。おれたちの髪も目も見ても何も言わなかった。厳しいひとだったが、おれに山での生き方や罠、色んなことを教えてくれた―――おれたちにとって、父親のようなひとだったんだよ…」
「その…方は、あちらで眠ってらっしゃる方ですか?」
娘の視線の先―――土が盛られ、花を添えられた、木の棒が刺さる場所を彼も見つめ、やがて「ああ」と頷きました。
「おまえが来る、二年前に亡くなったよ。……幸せそうに逝ったのが、救いだった」
「………」
「あのひとは…父上は、元々三人家族でこの家に住んでいたそうなんだが、妻を病で亡くし、子供は事故で……だからきっと、おれたちに子供の面影をみたから助けてくれたのだろうな。最期は『やってあげたいと思えることはやれた。満足だ』とおれの頭を撫でてくれたよ」
懐かしんだ顔で父と初めて慕った男の墓を見つめた彼は、ふ、と短く息を吐くと、先程から気まずくて辛そうな娘に微笑みかけます。
穏やかで柔らかいその視線に、娘は戸惑ったようでした。
「―――もう、全て失った俺だが……おまえに出会えてよかった」
星明かりに照らされるその笑みは、儚くも美しく娘の目に映りました。
けれどそれがかえって娘の心を締め付けて、娘は痛みに耐えるように胸元を握り浅く息を吐き―――そのまま、腰掛けから滑り落ち、膝を着いて呻き声を上げます。
「こ、香春……!?」
慌てて倒れ込みそうな娘の体を支えますと、娘は体を震わせ、ひどい顔色で囁きました。
「だ、だれか、が―――わたくしの……あの桜の―――汚して……御鏡を……」
「桜?」
「――――う、ぅぅ……っ、……ぅぅぅ……!」
「香は―――」
ふ、と。
苦しむ娘は、まるで彼の幻のように―――桜の花弁一枚を残して消えてしまいました。
残された彼は、空を掴んだ手を呆然と見つめるとすぐに立ち上がって、腰掛けに預けていた太刀を手に急いで桜の下へと走ります。
もし間に合わなければ、娘に二度と出会えないかもしれない―――そう思うとどんどん彼の手足から凍っていくような思いで、彼は息を切らして桜並木に踏み込み、妖しく咲き誇っていた桜がやっと見えてきました。
「…おい、早くしろよ。こんな気味悪いところに長居なんかしたくねぇんだからよ」
「そうは言うけどよぉ、本当にここにお宝なんかあるのか?出てきたものなんて骨ぐらいしかねーじゃねえか」
「噂じゃ確かにここにあるんだよ。おら、掘れ掘れ―――っと、」
「うわ、骨踏んだな」
ぱきん、という音が彼の耳に届き、次に聞こえたのは空元気なのか震えた笑い声と、「気持ち悪ぃもんを踏んじまったぜ」と土に擦りつけるじゃりじゃりとした音―――。
(――――――…)
彼は男たちが何をしているのか悟ると、頭も臓腑も煮え滾るような、強く暗い衝動にかられました。
瞬きをした一瞬、恐怖と屈辱で泣く娘の姿が瞼に浮かんで―――すぐそばに妹が眠っていることだとか、喪に服していることだとか、それら全てを忘れた彼にあるのは、ただ娘の遺骨を、心を守ることだけでした。
「ん?なんだァ、おま―――」
細身の、娘の遺骨を踏み砕いていた男へ、彼は渾身の一撃を叩き込み、桜と遺骨に大量の血が飛びます。
驚いて固まっていた男は根の下を掘るのをやめ、無様に四つん這いで逃げるところを斬り捨てました。ごろん、と転がる首のそばでだらしなく寝転ぶ体を蹴り飛ばし、彼は風に攫われる前にと粉々にされた骨を掻き集めます。
どうやら男たちが踏んだのは彼が以前布に包んで埋め直してやった部位のようで、彼は丁寧に集めたそれを投げ捨てられた布でもう一度包み、娘の遺骨のそばに置いてやりました。
(……血が……こんな汚いものが―――)
頭蓋骨に滴る血を一生懸命拭うも、なかなか綺麗にならず。
思わず唇を噛んで俯くと―――彼の背後で、水音が聞こえてきました。
ぴちゃ、ぴちゃ、と滴り落ちる音がこれほどまで背筋を凍らせるものだとは思わなかった彼は、恐る恐る、ゆっくりと振り返りますと。
虫の息だった細身の男を抱き上げ、彼の目の前で―――大事な娘が、まるで鬼のように、瀕死の男の首に噛み付き血を啜っておりました。
「香春……」
白い顎を汚す、赤い血。
瞳がそれよりもなお鮮やかな彼岸花のような色に変わり、優しい指先は男の肌に食い込んで薄らと血を流させる―――そんな、"化け物"としての一面を、もう一度見てしまった彼は息が出来なくなりました。
その、娘が―――化け物が、あまりにも妖美を漂わせていて。見惚れてはならない美しさに、彼の心は囚われてしまったのでございます。
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