9.
彼は幸せでございました。
目を覚ませば娘がすぐ近くで眠っていて、触れれば確かにそこに在る。話しかければ微笑んで応えてくれる。冷えた娘の手を握れば、じんわりとその熱が娘にも伝わる―――そのことが嬉しくて、彼は「香春」とよく呼びかけてはその手に触れたり、握ったりしてきます。
娘はといいますと、彼の急激な変化に驚きましたが―――彼の恐る恐る伸ばされて触れてくる手が可愛らしく思えて、されるがままでございました。
その中でも娘が特に気に入っているのは彼が娘の艶やかな髪を撫でることで、最近では彼のふわふわした白い髪を撫でてみることも好きでした。こうしてやると彼は恥ずかしそうな、懐かしむような―――複雑そうな顔で、でもはにかんだ笑みを浮かべるので、娘は切ない思いも彼の髪を撫でるたびに感じていました。
「―――香春。もうすぐ桜が散ってしまうな……」
桜の盛りも過ぎた頃。
娘の膝の上に寝転んだ彼は、どこかから迷い込んできた桜の花弁に手を伸ばすと、そっと握ります。
けれど花弁はするりと彼の手を逃れて―――彼の手が諦めたように握った手を緩めたとき、娘の手が花弁ごと彼の手を包みました。
「…名残惜しいですか?」
「ああ。あの満開の桜の下は、寝転ぶとなかなか絶景だからな。千春も葉桜だけでは寂しいだろう」
「千冬どのが毎日花を持ってきてくれるのですもの。きっと妹君の楽しみは尽きませんわ」
「そうかな……」
彼の手に花弁を握らせて、娘は微笑みます。
その春の柔らかな日差しのような笑みに流されてしまいそうになりながら、彼は少し遠慮がちに問いました。
「……香春は……おれと一緒にいて、不満はないか?おまえのような女は都育ちだろうに、こんな何もない山の奥のぼろ家で…」
そう言って、彼は返事が怖くて目を伏せます。
それゆえに一瞬―――娘の表情が冷たくなったことに気づかず、彼がもう一度娘の顔を見上げたのは苦笑を浮かべた娘に頬を撫でられてからでした。
「…どうしようもないことだと、諦めていましたもの。それに、今は……千冬どのと一緒にいることの方が楽しくて、不満などありません。…………悩みはありますが」
「え?」
「ふふっ、だって千冬どの、わたくしを悪霊ではなく普通の娘さんのようにあつかうのですもの。何だか悔しいような残念なような、複雑な気持ちになってしまうことがありますのよ」
「えっ」
彼としては意外な返答に、思わず体を起こして娘に向き直ります。
「そ、それは……なんだ、申し訳ないことをした……と、思う。―――でも、あんなに食いしん坊でよく笑われると、どうにもお前の正体を忘れてしまうんだ」
「ま、まあっ。わたくしが食いしん坊……うぅ、否定は確かに出来ませんが……でもでもっ、仮にも、例え人の身でなくとも!女人にそのようなことを申してはなりません!」
「す、すまん……」
「謝っても許しません!……あっ」
不意に、「くぅ」と娘のお腹が鳴って、彼は耐え切れずに笑いだしてしまいました。
腹を抱え、一通り笑い終える頃には娘はすっかり不貞腐れてしまって、彼に背を向けて黙り込む娘に、彼は出来るだけ平静を装った声をかけます。
「そろそろ昼時だものな。急いで鳥を捕ってこよう。…それとも魚にしようか?」
「………」
娘は少しだけ振り向きます。
「……お肉の方が、嬉しいです」
その返事に、彼はやっぱり耐え切れなくて噴き出しますと、娘は真っ赤な顔で近くにあった円座を彼に投げて「絶対許しませぬ!!」と叫んで泣き出してしまいました。
*
桜が全て散る前に、彼は和尚さんのところへと足を運びます。
実は先日に妹の供養を頼んだところ、和尚さんは腰を痛めていて動けず、少し遅れてではありますが妹のために経を読んでいただくことになったのでした。
彼は和尚さんに山菜などを手渡し、まだ完治していない和尚さんを背負うと山に入ります。
時折、同業者の視線を感じましたが、何の問題もなく妹の墓標へ辿り着きますと、和尚さんは少し恐ろしそうに桜の木を眺めるも心を込めて彼の妹のために祈りを捧げました。
そして一つ二つ話をしてから、また彼に背負われて山を下ります。
「―――のう、お若いの。ひとつ聞きたいのだが…」
「なんですか?」
「その、君は…もしかして、ずっと外で寝起きしていたのかね?」
「え…いえ。家に―――あ…、もしかして臭います?」
「ああいや、臭わないよ。ただ…桜の匂いが、君からするのでね。……」
和尚さんの言葉に、彼は「ああ、香春の匂いが移ったかな」とのんびり思いました。
「よく妹に花を捧げに行きますので、服にでも染み付いたのかもしれません」
「……そうかもしれぬな」
落ち着いた彼の言葉に、和尚さんは少し躊躇いがちに尋ねます。
「……君は、元気になったね。前は今にも消えてしまいそうな危うさがあったというのに」
「ああ、それは………ただ、『まだ生きたい』と思えるものを、手に入れただけなのです。それだけで生きているだけ……今も昔も、縋って生きているだけなのです」
情けない話です、と苦い顔をする彼に、和尚は「そんなことはない」と優しく言いました。
例え縋っているだけであろうとも、生きようと足掻くことが出来るのが人の強さだと、彼の背をぽんと叩きます。
そうしますと彼は淡く微笑みまして、「ありがとうございます」と小さくお礼を言いました。
和尚さんは彼のまだ少年らしいあどけなさに、顔を隠した山賊という怪しい格好をしていても親しみを覚えまして、いつものおっとりした笑い声を上げます。
「いやはや、そういう健全な理由でよかった。何だか今日の君には妙なものを感じたのだが―――うん、桜の香りのせいなのだろうね」
『桜は人を惑わすというし、その香りとて同じように人を惑わすのだろう。』
―――そう呟いた和尚さんの言葉が、やけに耳に残りました。
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