邂逅
――ドドォ……。
何か、大きなものが落ちるような音と地面の衝撃で俺は意識を取り戻した。
あれからどのくらい気を失っていた?
太陽の高さから、俺がスライムを取り逃がしてからそれほど時間は経過していないと思われる。……日付が変わっていなければ、だが。
ほんの僅かでも眠ったせいか、少し疲労が取れた気がする。俺は身を起こすと、音のした方を確認するために深い緑と草の匂いに包まれた森を歩きはじめた。
「確かこっちの……」
大きな樹を回り込んだところで、音の原因と思わしきものが目に飛び込んできた。
「……っ!」
四――いや、傍らに転がってる一体も入れると正確には五、か。
五頭の大猪が、一人の少女を取り囲んでいた。
肩のあたりまで伸びた燃えるような赤毛。
その赤をいっそう濃くしたような瞳。
意志の強そうな眉からなだらかに続く鼻梁のラインは、けっして高くはないが綺麗な線を描いている。
袖の膨らんだブラウスにスカートといった、村娘風のラフな服装に小柄な身を包んでいる。
そんな少女が、この国に出現するモンスターでも上位ランクの脅威度とされるボアファングに取り囲まれている。
少女はすっかり包囲されており、たとえ逃げ出そうとしても魔物の群れに回りこまれてしまうことは必至だった。遠くない未来、彼女は魔物に蹂躙される……。
が、転がっている一頭のボアファングと、大きなものが落ちるようなさっきの音――俺の頭がありえない仮説を導き出した。そう、倒したのだ。彼女が。素手で。
「まさか……」
しかし、また新たに突進してくる一頭のボアファングに対し、彼女は半身の構えを取った。
「ブンモォォォオオッ!!」
咆哮をあげたボアファングが、大地を揺るがせながら少女との距離をみるみる縮めていく。全長五メートルはあろうかという巨体を踊らせ、下顎から天を突くように伸びた巨大な牙を柔らかな少女の脇腹に突き立てんとばかりに、頭を低くして突っ込んでいく。
俺は、少女の構えの美しさに目を奪われ、飛び出す機会を失っていた。
少女と大猪の距離がゼロになる。瞬間、あたりに轟音が響いた。周囲の木から鳥達が一斉に飛び立つ。
ずずっ、と体を崩したボアファングは、そのまま地面に転がった。
――ドドォ……。
二度目の地響き。
「ふーっ……」
横たわるボアファングの前で、拳を付き出したまま少女は深く息を吐いた。
(お見事)
俺は心の中で喝采を送る。と、同時にボアファングが倒れた今もなお小さく地響きが継続していることに気付く。
時間差でもう一頭のボアファングが別方向から突進を仕掛けていたのだ。
「……っ」
少女も気付いて、そちらの方向へ向き直る。とっさに構えを取ろうとするが、先程のような一撃を繰り出すには遅すぎる対応だった。
「駄目だ……っ」
そこは回避か防御だ。今から準備していたのではカウンターは間に合わない。
少女の顔に死を悟った表情が浮かんだ。
俺はとっさに、少女と大猪の間の空間に向かって地面を蹴った。
「ブギィィィィッ!!」
雄叫びを上げるボアファングと少女の間合いがみるみる詰まっていく。その両者の間に俺はギリギリ飛び込むことに成功した。
腰の護身刀を引き抜き、構える。
「神我流護身術――『柳』!」
迫りくる大猪の巨牙に左手を添える。さらに右逆手で持った短刀をあてがい、刀身に沿わせるように突進を受け流す。
ギャリイィ!!
大猪の剛毛とダマスクス鋼の刀身が激しく擦れ、火花が散った。
突進の軌道を反らされたボアファングは、そのまま俺と少女の左脇を駆け抜けたあと、足をもつれさせて転倒した。
巨体が災いしてすぐには起き上がれないらしく、ジタバタともがいている。
「立てるか?」
俺が声をかけると顔面蒼白でへたり込んでいた少女は、ハッとしたように顔を上げた。
その顔がみるみる生気を取り戻していく。
「もうダメかと思った。助かったわ」
立ちあがる少女に俺は手を貸す。
「そいつはここからの頑張り次第だけどな」
俺は、前足で土をかきながら荒々しい鼻息をあげているボアファングの群れを見回して答えた。
さっきの一頭は地面でもがいているが倒したわけじゃないし、残り二頭はまだピンピンしている。
「残り全部……倒せる?」
「無理だ。あいにく俺は、スライムさえも倒せなくてね」
期待の眼差しに、俺はすこぶる残念な答えを返した。
「なんでよ? さっき一頭やっつけたじゃない」
「違う。あれは勝手に足をもつれさせて転んだだけで、かすり傷一つ負わせていない。俺の戦闘技能――神我流護身術に攻撃の型は存在しない」
「カンガルー護身術? ずいぶんと可愛らしいスキルね」
「違う。か・ん・が流」
ありがちな勘違いを訂正する。
「神我流護身術――自分を守り、相手も傷つけない。攻撃力を一切持たない、少数流派の戦闘技能。俺はその神我流を受け継ぐ『護身術士』だ」
そう告げると彼女は、「その腰につけた短刀はなんなのよ」と俺が帯びている匕首を指した。
「これは護身刀、『諸峰丸』といって攻撃力は皆無。武器ではなくて防具だ」
後ろ手に鯉口を切って、刃のない刀身を見せてやる。
木目のような模様が浮き出るダマスクス鋼製のそれが、下手をすれば木剣にさえ見えるのは証明済みだ。
彼女は信じられないものでも見るような顔で俺を見た。
「なんでそんな役立たずなスキルがあるのよ」
「さあ、なんでだろうな……」
自嘲気味に俺は遠い目をして答えた。
こんなスキル、失伝していればよかったのに。
「とにかく奴らの攻撃は俺がなんとか防ぐ。君はその隙に逃げろ」
「嫌よ」
半ば自棄気味に言う俺に対して彼女は即答した。
「あたしの戦闘行動に逃げるという選択肢は無いわ。一匹残らずぶちのめす! それがこの戦闘の終了条件よ!」
「さっきまで死にそうになってたくせに、なんでそんなに元気なの!?」
俺にはちょっと理解ができない。
戦わずして逃げられるのなら無理に危険を冒す必要はない。それが護身術士の考え方ってやつだ。
するとなぜか少女は立ち上がって胸を張った。
「実はあたし、攻撃にはそこそこ自信があるけど防御がからっきしなの。あなたとあたし、きっと相性がいいわ。まさに鬼に金棒よ!」
俺は頭を抱えたくなった。
「プギイィィ!」
ボアファングが「待ちくたびれた」とでも言いたげな鳴き声をあげる。
これ以上問答している余裕はない。
「仕方ない。俺がサポートするから、君は連中に攻撃を。まずはあそこで転がっている奴からだ。跳べるか?」
俺が確認すると彼女は頷いた。
「オーケーよ」
「よし、いくぞっ」
二人で跳躍し、倒れたボアファングの脇腹を目指す。少女は軽々とついてきた。
転倒したボアファングの横に付け、必死に足を動かしている巨体を見上げる。
「いつまで倒れてるんだこいつ……」
「ボアファングは重心が高くて足が短いの。だから一旦転ぶと、地形にもよるけれど、なかなか起き上がってこないわ」
「なるほど。こうなるとただのでかい的だな」
俺が感心していると、少女は低くした姿勢から右拳をまっすぐに付き出した。
「せいっ!」
あたりを揺るがす轟音とともに、肘のあたりまでが大猪の柔らかそうな腹にずぶりと突き刺さる。
「次っ!」
はらわたを散らしながら腕を引き抜いた少女は短く叫んだ。
敵の現在地を確認する。
奴らはちょうど彼女を挟撃する格好で別方向から突進をかけてきていた。
「上に跳べ!」
俺が叫ぶと少女は素直に跳躍して木の枝にぶら下がった。
俺は護身刀を鞘に納めると、彼女と入れ替わりで大猪の軌道の交錯点に飛び込む。
「ブモオォォッ!」
「プギイィィィ!」
二頭はお互いが衝突せず、かつ別方向から双方の牙が標的を引き裂くような絶妙な軌道で接近してくる。
「神我流護身術――『双破手』!!」
左右から突き上げる巨牙を同時に掴み取る。
衝突の衝撃で大ダメージを負うところを、体全体のバネを使って相殺していく。
それでもある程度のダメージは防ぎきれずに、身体のあちこちがミシミシと悲鳴をあげた。
本来は複数の敵の蹴りや武器などの突き等に同時に対応する技で、こんな大型魔獣に使うのは俺もはじめてだ。
「いまだッ!」
俺の叫びに呼応して少女は落下した。
掴まっていた太い枝から手を離す瞬間、思いっきり突き放すようにして重力加速度に膂力をプラスする。
矢のように舞い降りた天使、もとい死神はそのまま右手側のボアファングに飛び蹴りを突き立てた。
高位土魔法『隕石落下』の如き衝撃で頭蓋を割り砕かれた大猪は、鳴き声を上げる間もなく絶命。
少女は蹴りの反動を利用しそのまま反転、空中で体をひねってもう一頭に回し蹴りを叩き込む。
猪の巨体は次の瞬間、彼方へ吹き飛んでいた。
いくつもの若木をなぎ倒し、大地をえぐり、轟音とともに樹齢数百年はあろうかという巨木に叩きつけられたその巨躯は、もはやぴくりともしなかった。